「六花から誘われたって」
「ちょっと! おい! 誰か起きてねえの!? 大神も!?」
壊すくらいの勢いでドアを叩くが向こうから返ってくる反応がまるでない。これは本当にまずいぞ、明日の朝まで廊下で待っていなければいけなくなる。
「他の部屋は!?」
別の男子の部屋、果ては先輩方のところまで行ってみるが、どこも鍵がかかっていた。おそらく邪魔をされないためにそうしたのだろうが、今日の練習で疲れすぎて遊ぶまでもなく力尽きた……という事情なのだと察した。唯一、中に入れた部屋がひとつあったのだが狭いスペースを男子が隙間なく埋めているせいで、大樹が横になれるだけの場所がない。
「万策尽きた……」
こんなことで困り果ててしまうなんて、なんと滑稽なのだろう。打つ手がなさすぎて、ついつい上の階に続く階段を上がろうとしてしまう。上には女子の部屋があるが、さらに上がれば相馬が泊まる部屋があるはずだ。今日のところは、なんとかお願いして寝させてもらおう。
三階にたどりついた。ないとは思うが、ここで女子に会ってしまうと少々面倒だ。謂れのない疑いをかけるのは望むところではない。そそくさと四階への階段に足をかける。
「篠原くん?」
冗談抜きで飛び上がりそうになった。どう考えても女子の声だった。違うんです、覗きとか押し入りとかそんなことをしようとしていたわけではないのです。お願いですから通報しないでください。この歳で捕まりたくはないのです。
「どうしたの?」
振り返り、ほっとした。声の主は月夜だった。
「部屋に戻ったら鍵がかかってて入れなくって。他の部屋も似たような感じなので相馬さんに助けてもらおうと」
「そうなの」
「センパイは?」
「下から篠原くんの声が聞こえた気がして……何かあったのかなって」
感激した。大樹のSOSを聞いてくれていた人がいたのだ。それに引き替え、なんで同じフロアにいる男子どもは応えてくれないんだ。
「大丈夫? 相馬先輩のところって――」
「え? まあ大丈夫ですけど……?」
月夜に苦笑しつつ、四階にやって来た大樹は相馬の部屋をノックする。
「相馬さん。すいません、起きてますよね?」
解散したのはついさっきのことだ。起きていないはずはないのだが……。
ドアに耳を当ててみる。何の音もしない。寝息も全くだ。もしかして部屋を間違えてしまっているのでは……?
ローラー作戦で一部屋ずつ回っていくのは気が引ける。
「あ……」
今一瞬、相馬の声が聞こえたような気がする。今度は姫川だった。どうやら隣の部屋にいたらしい。足がそちらに向かう。
刹那、大樹の直感が告げてきた。これ以上進んではいけないと。
回れ右をして階段を駆け下りる。そこにはまだ月夜がいた。
「どうだった?」
「いえ、あの……なんだか行ってはいけないような気がして戻ってきてしまいました」
「多分、あの二人は一緒の部屋に泊まっていると思う」
「え、えっと、それって……」
「そういうこと」
やはりか。
さっきの警鐘を家でも感じたことがあった。大樹の母と父である直樹の寝室で、同じ感覚に襲われる。初めて気付いたが、どうやら男女のそういう行動を察知出来てしまうようだ。
「嫌な特技だ……」
リア充死ね。明日の練習でぶっ倒れてしまえ。
「俺、下に戻りますね」
「どうするの」
「空いていた部屋に行こうかと。座ったままでも寝ないよりはマシでしょうし、最悪廊下でも」
「それじゃ疲れがとれない。廊下は衛生的に問題」
「じゃあどうしたら……」
「待っていて」
月夜がとたとたと自分の部屋に戻っていく。毛布でも持ってきてくれるのだろうか。
そこから数分が経過する。待っていてと言われたからそうしているが、まさか放置されていないだろうか。今頃ぐっすり眠っているとか。月夜に限ってそんなことはないと思いたい。
ようやく月夜が部屋から出てきた。大樹はほっと胸を撫で下ろす。
「見られると困るものは片付けたから。入っていいよ」
「……はい? え? なんて言いました?」
「入ってもいいよ」
「いやいやいやいや」
ここは月夜の他に数人の女子がいるはずだった。そんなところに、おいそれと入れるわけがない。拒否しようとした大樹の手を月夜が掴む。
「大丈夫。何もしないから」
「それ男のセリフじゃないですか!?」
なんで男の方が女子部屋に連れ込まれようとしているのだろう。だがここで騒いでいて他の女子が起きてしまったらまずい。そう思って口を噤むと、了承と捉えたのか月夜は大樹を部屋に引きずり込んだ。
中に入った途端、大樹の体が硬直した。「女の子」らしい空気がここには充満している。それが月夜や、いつも共に部活をしている女子のものだと思うと平常心など保っていられない。大樹は後悔した。こんなことがバレたら、問題行動になってしまうのは避けられない。
「センパイ、あの……」
「奥の方へ」
有無を言わせない強い口調で、大樹は背中を押される。一切の音を立てないようにゆっくりと進んでいった。部屋の隅まで来ると大樹はそこで立ち尽くした。月夜を見ると、指でその布団を示している。使えということなのだろう。
もう何も考えられない。軽くパニック状態に陥っていた。無心で布団の中に潜り込む。
しばしの間があって、大樹は背中に人間の体温を感じた。
「ちょっと、センパイ何して――」
「しーっ」
体を捻って抗議してきた大樹の口元に、月夜が人差し指を這わせてきた。
次の言葉が出てこなくなったのは、口を塞がれているからではない。
薄ぼんやりとした暗闇の中だが、すぐ目の前に月夜の顔がある。こんな至近距離で顔を突き合わせたことなんて、一度だってなかった。長い睫毛の一本一本を数えられそうだ。
なんて綺麗なのだろう、と思う。大樹はただずっと、月夜の瞳を見つめていた。
月夜もじっとこちらを見ていた。二人は瞬きを繰り返し、そっと息を吐く。月夜は段々と頬を紅潮させ、堪えきれなくなったのか背中を向けた。遅れて、大樹にも気恥ずかしさが込み上げてきた。
「そんな目で見られると、照れる……」
拗ねるような口調だった。普段の月夜らしからぬ様子が愛おしく思える。
艶のある黒髪から白いうなじがのぞいていた。妖しいものに魅せられるかのように、大樹はそっと指で触れてみた。
「んっ……」
驚きと動揺から、月夜が声を漏らした。大樹は咄嗟に謝ろうとした。月夜が何か言うのではないかと思ったからだ。だが意に反して文句も罵倒も飛んでこなかった。
妙な気分になってくる。月夜が嫌がっている様子は見られない。調子に乗ってもう少し彼女の肌に触れようとしたとき、すぐ近くの布団から誰かの声が聞こえた。
「朝日?」
月夜の行動は早かった。毛布の中でくるりと体を回すと大樹の体を自身の方へ抱き寄せた。大樹と密着するくらいになったが、こうしないと布団のふくらみから大樹の存在が露見してしまう。
「咲夜……起こした?」
「いや、別に。なんか、誰かと喋ってなかったか」
「話してない」
「でもなんか……」
「話してない。独り言」
「独り言ってお前……。大丈夫か?」
村上咲夜は呆れたように呟いた。
よりにもよって同室に咲夜がいたとは。彼女は副部長という立場であるし、不正や問題を見逃してくれるような性格ではないことを大樹は知っていた。不安に駆られた大樹はこれ以上ないくらいに体をくっつける。
「あっ、んん……」
「やっぱ、さっきからエロい声出してね? なに、こんなとこでオナってんの?」
「お、おなっ……!?」
びっくりし過ぎて大樹は声を出してしまった。慌てて口を押えるが咲夜は当然不審がる。
「なあ、今完全に男みてえな声……」
「ごほっ、ごほっ、ん! むせて変な声が出ただけだから」
月夜のフォローがナイス過ぎる。今のはもう本当にダメかと思った。さすが藍咲で優秀な成績を取るだけあって頭の回転が速い。大樹が感心していると、耳を月夜の両手で塞がれてしまった。女子同士の会話を、大樹に聞かれたくないのだろう。
「咲夜。いくら女の子しかいないからって、そういう話は少し品がない」
実際男子が一人混じっているが。
「はいはい。わかってますよー」
咲夜が毛布をかぶった。会話はそこで終わったかのように思われた。月夜が大樹の耳から手を離そうとしたとき、不意打ちのように咲夜が口を開いた。
「六花から誘われたってマジ?」
もう一度、大樹の耳を塞ぐ。今度はさっきよりも強く。
何を言うべきか迷う。とりあえず、シンプルに疑問をぶつけてみよう。
「なんで知っているの」
「噂……というより、結城先生かな。あの人がそういう話をしてるの聞いたから。不用心にも、職員室前の廊下で電話してた」
「そう」
初めて声がかかったのは、姫川の引退試合が行われた会場でのことだった。残念ながら藍咲学園は一回戦で敗退したが、その場を後にする際、六花学園バドミントン部の監督を名乗る男に呼び止められた。
高宮凛をシングルスで圧倒したという話を聞きつけてスカウトしたいという旨だった。その場では断ったが、その日を境に学校にも連絡がくるようになった。声の主はやはり前に会ったことのある男であり、月夜はうんざりしていた。
「断ったってことか」
「二年生で急に編入だなんて、現実的じゃない。スポーツはどの競技も強いけど、その代わり勉強を疎かにしているところだし」
「はっ、さすが朝日月夜。文武両道じゃなきゃ嫌ってこと」
「別にそんなことに興味ないけど」
「あ、そ」
咲夜はぶっきらぼうに言い放った。
「じゃあ何に興味があんだよ」
その質問をされたとき、すぐに返答するのは簡単なことに思えた。だが月夜は何も答えられなかった。咲夜に言われて初めて気付く。自分の中に、自分を表現するものがない。生き甲斐になるものがない。
「いつだったか忘れたけど、篠原がこんなこと言っていた。なんかアンタの様子がおかしいって」
「篠原くん?」
ここで大樹の名前が挙がったことに疑問を覚えた。腕の中にいる本人に視線を送るが、大樹は今何も聞こえない状態なので、月夜が見つめてくる意図を理解できなかった。
「ああ、そうだ。思い出した。確か高宮凛を倒した次の練習のときだった。あのとき篠原は、朝日が練習に身が入っていないみたいって言ってた」
月夜自身、手を抜いているつもりはなかった。周囲の人間にもそういう風には見えていなかったはずだ。大樹が気付いたのはおそらく、それだけ付き合いが長いせいだろうか。
または、大樹がちゃんと自分を見ていてくれたということだ。いつもなら舞い上がってしまうところだが、何故か逆に血の気が引いていくのを感じた。
「明日から指導側に回るんだってな」
「そのための話し合いだった」
「あり得ねえだろうが」
咲夜は語気を荒くした。月夜はなぜ咲夜が気分を害したのか見当がつかなかった。姫川の代わりになろうとしただけなのに……。
「私はあんたのことを少し誤解していたのかもしれない。今、やっと納得いった。誰もそんなこと思ってねえだろうけど、あんたはただのエゴイストだ。あんたの『努力』は何の重みもねえ。自分が良ければそれでいいんだから――」
「うるさいわ」
棘を孕んだ言葉を咲夜に突き刺す。自分のこんな声を、月夜は久しぶりに聞いた。月夜はマイナスの感情にコントロールされないと自負していたが、どうやら珍しくバグが起こってしまったようだ。
すぐに怒りを鎮めにかかる。
「ごめん」
「……悪い。あたしも言い過ぎた。何様だよって感じだったかもな」
おやすみ、とそう言って今度こそ会話は終了した。
愕然とした想いはある。自分がそんな人間だと認めたくない。だがそんなことよりも、大樹の中にある朝日月夜というイメージを壊したくない。たとえ気付かれてしまっていたとしても、偽っていたい。
大樹の耳を塞いでいたとはいえ、多少聞かれてしまったかもしれない。おそるおそる毛布をめくってみる。大樹は規則正しい寝息を立てていた。ほっと安堵が漏れる。通常の練習に加えて、こんな夜遅くまでメニューを考えていたのだから、疲れていないはずはないのだ。頭を撫でてみる。
大樹と密着しているこの状態は月夜の精神衛生上よろしくないのだが、困った(嬉しい?)ことに大樹の両腕でがっちり抱きしめられているので全く動けない。うん、これは仕方ない、仕方ない。
明日、咲夜や他の女子メンバーが起きてしまわないうちに大樹をこの部屋から出さなくては。早起きには自信があるから、きっと大丈夫だ。
咲夜に言われた言葉が尾を引く。眠ろうとしても、頭が冴えてしまう。咲夜のことを恨めしく思う。余計なことを言ってくれたせいで中々寝付けない。
何にも興味がない? 努力には重みがない? 冗談じゃない、そんなことあってたまるか。私がどんな人間なのかは、私が決めることだ。
大樹がいてくれてよかった。今日は彼を抱きしめていられるのだから、この確かな熱だけを感じていればいい。そうでなければ、きっと私は私を保てない。




