「どこを目指すべきか」
その日、大樹は朝練に参加しようと少し早く家を出た。ラッシュの時間帯をはずしているため、大樹と同じような学生もいないし会社員も見受けられない。段々と暑さが近づいてきているのか、ラケットバッグを乗せた背中がじんわりと汗ばんでいる。そろそろ夏服の出番だなー、とぼんやり考えているその時だった。
『あ』
重なった二人の声。一人はもちろん大樹だ。もう一人は、大樹が所属するバドミントン部の部長、姫川真琴だった。
彼女の性格のキツさは大樹も知るところだ。新入生なりに部活に口出しをしてみれば邪魔をするな、と言われ大樹は彼女のことを苦手に思っている。他の部員たちも姫川への印象はそれと同様だろう。現在の二年生たちからは反感も買っているはずだ。
「お、おはようございます」
「おはよう」
ゆえに、この状況はかなりまずい。単純に怖いのだ。いつまた毒舌が飛び出すか……そう考えたら早くこの場から離れてしまいたい。しかし改札を出て後はもう坂の上にある学校を目指すだけ。ここから別行動をとる方がおかしい。二人並んで歩いていくしかない。
「部長も朝練ですか?」
「そう」
まったく愛想がない。顔自体は童顔で可愛い方なのに、性格を知っているせいか気安く話しかけたいとは思えない。ただ例のごとく無言はつらいので、大樹は思考を総動員して話題をしぼり出す。
「そういえば、女子はこの間の大会、どこまで勝ち進んだんです?」
大樹にしては悪くないチョイスだと思う。というか、実際に気にかけていたことでもある。女子の大会の結果がどうなったかは知らされていなかったし、ここ最近月夜に遭遇することもなかった。
月夜と言えば、あれから部活の調子はそのままの状態である。周囲の誰も気付いていないようだが、大樹の目からはやはりおかしく映ってしまう。
「まだ、終わってない」
「へ?」
「この間は、全て勝ってしまったから……。次の日曜日にもう一度大会に出る」
「そ、それって――」
藍咲学園の女子バドミントン部の実力は、関東でも上位のものだということだ。
「す、すげえっす!」
「月夜がいなければ、初戦で負けていたけれど」
「そりゃ、センパイですから。あの人がいたら全国だって行けちゃいますよ!」
月夜がこうして活躍していることを知ると、なぜだか大樹自身の鼻も高くなってくる。やはり月夜は月夜だ。自分の憧れの存在はここに確かにある。
「それにしても、初戦敗退だなんて、ちょっと大袈裟じゃないですか。センパイはもちろん、部長や咲夜先輩たちだって、そんな簡単に負けたりしないはずです」
「高宮凛がいたんだよ。一回戦の三澤野高校には。結構危なかった」
高宮凛……と、瞬時にその名前と人物が一致した。
狼狽した大樹は姫川に問い詰める。
「え、高宮凛ってあの……? 去年のインハイで優勝した?」
「そう、その高宮。月夜があの子を倒してくれたおかげで、藍咲は勝ち進んだ」
「センパイが……?」
思い出されるのは二年前、月夜と高宮凛が初めて試合をした日のこと。あの時、高宮はその才能を余すことなく発揮して月夜を圧倒した。その強さは、あの場にいた大樹にもはっきり伝わった。あれはまぎれもなく、天才と呼ばれる人間だ。
「それも、月夜の完全勝利でね……」
いくら朝日月夜といえど、高宮と同格に並び称されるのはもっと先のことだと思っていたが……。
「す、すごいっすね。いや、ほんと、センパイって……」
「篠原くんは、月夜とは中学が同じだよね?」
「そう、ですね」
「月夜のこと、どう思う?」
姫川の問いに、大樹はそっと目を閉じた。まぶたの裏に月夜の姿を思い浮かべ、大樹は言葉を慎重に選んでいった。
「超格好いいです。センパイが頑張るところは、誰よりも見てきましたけど、本当に憧れます。俺が悩んでいるときは相談に乗ってくれますし……」
月夜が念願のリベンジを果たしたというなら、それでいい。いいはずなのだ。
それなのに――
「でも、なんだか落ち着かないんです」
口にして確信することがある。
以前の月夜と、今の月夜とにギャップを感じてしまっている。それは覆しようのない考えだった。なんとなく、完全に大樹の直感によるものだがこのままでは月夜が変わっていくような気がする。
「私も、心配している」
眉間に皺を寄せて前方を睨む姫川。
「月夜は本当に強いけれど、別にやればなんでも出来るタイプな人間じゃなかった。だからあそこまでストイックに練習している風景も、変に思ったりしなかったけど、もう見納めかもしれない……」
「見納め……?」
「月夜がバドミントンから離れていくかも、ってこと」
意味が分からなかった。
大樹がこれぽっちも考えもしなかったことを、さらりと姫川は口にした。
「いや、あの、意味分からないです」
どうしてそんな結論が導かれたかが不明だし、知りたくもないと大樹は思った。またこの人は、勝手で適当なことを話しているんだ、と割り切るようにした。
「今思えば、月夜は高宮を目標にしていたんだね」
独り言のように姫川が呟く。そんなことは知っている。朝日月夜は何度も目標を口にはしないけれど、一度掲げた目標には一直線に突き進む。月夜は引退してからも、血の滲むような練習をしてきたに違いない。
「でも、絶対倒すと決めた相手が、思いの外あっさりと負けてしまった。拍子抜けというか、失望というか、そんな風に思ったはずだよ」
妙に的を見ている意見だ。素直にそう感じた。
「その雪辱を果たして、次はどこを目指すべきかを悩んでいるんじゃないの」
そうなのかもしれない、と姫川の言葉を飲みこむ。
月夜に異変が起きていることは察知出来た大樹ではあるけれど、一体何が原因で、どのように迷っているのか推し量ることは出来ない。
誰よりも、自分こそが月夜の一番の理解者だと自負してきたというのに。
大樹は、羞恥と不安を振り払うかのように歩みを速めた。行く先には月夜が待っているはずだから。
◆
大樹と姫川の二人にそんな会話をされているとも知らずに、月夜は通常通り練習に励んでいる。もしいなかったら姫川の説に信憑性が生まれてしまうところだったので、この後で大樹は一安心することになる。そして、月夜の練習相手になっていたのは芝崎だった。相変わらず不良じみた風貌ではあるが、最近……というか、大樹に負けて以降まともな態度を見せていた。
「だぁ、くそっ!」
月夜の意表を突くクロスヘアピンに、芝崎はラケットを伸ばすことでかろうじて返球した。体勢を崩された芝崎には、次のショットは対応出来なかった。
「終わりよ。芝崎くん」
月夜はゲームの終了を告げた。芝崎が得点した回数はわずかに二回。それも二回とも月夜のミスによるものだった。芝崎の経験値が圧倒的に不足しているのは仕方ないとしても、男子が女子を相手にここまで手が出ないと彼としては複雑な心境だった。それも好意を寄せている異性を相手に……。
「どうするの、芝崎くん。まだやるの」
通算で三試合、月夜と芝崎の試合結果は先程から似たようなものばかりだった。月夜にしてみれば芝崎の相手など赤子の手を捻るようなもので、いい加減彼女も飽き飽きしていた。
「……飽きた?」
「あ? 何か言った?」
「いえ、別に」
咄嗟に芝崎を誤魔化して月夜は今の思考を掘り下げていくことにした。今、確実に月夜はつまらないと考えた。あり得ないことだった。いつでもどこでも、自分はコートの上では最善と全力を尽くしてきたはずなのに……。
月夜は無理矢理に、言い訳を考えてみることにした。
芝崎和也の実力があまりにも未熟だったから。……これはつい頷きそうになるが別段芝崎が弱過ぎるなんてことはない。それにこの理由では彼には酷だ。月夜と実力が近いのは現時点においては蒼斗、姫川くらいだ。
大樹が相手ではないから。……これには激しく首を縦に振って同意だ。というか、大樹は何故来ないのだろう。一年生は初めのうちは朝練に参加出来ないはずだったが、そろそろ解禁でもいい。大樹がいてくれたらいつでもハッピーだ。
「なあ、朝日。あともう一試合だけいいか?」
時計を見ながら、芝崎が言う。
「めげないのね」
「もうちょい出来んだろ。すぐ終わっちまうせいで全然疲れないし」
月夜が完全に意識を芝崎に向け直してからここ最近の違和感を口にした。
「芝崎くん……何か変わった?」
「え、今更?」
「前は私と試合しそうになると腰が引けていたのに」
「ま、マジかよ!?」
そんな風に見えてたのかよー、と芝崎は頭を抱えた。月夜の練習には、上級生たちでも中々ついていけず、ましてや同学年にそんな度胸のある者はいなかった。
芝崎もそんな中の一人で、月夜に何度も挑んでくるようになったのもここ最近のことだ。いくら大樹にしか興味のない月夜でも、さすがにこの変化には気付く。
「いや、俺さー、結構優秀? っていうか。やれば大抵何でも出来るみたいな。藍咲にだって何となくで入れたし。運動神経も良い」
「うん」
「ルックスも悪くない。身長あるし、顔の形も整ってる方だ」
「うん」
「ぶっちゃけ女によくモテる。……モテる!」
「うん」
途中から芝崎は笑いをとるためにボケていたつもりだったのだが、それを拾う月夜ではない。むしろ話が脱線していくのをいつ修正しようかなどと考えていた。
「だ、だから、あんなもやし野郎に負けたのが、あり得ねえっつうか」
「もやし野郎?」
いよいよ話半分で聞こうかとしていたところに、気になる単語が飛び込んできた。
「篠原のことだよ」
「篠原くんはもやし野郎なんかじゃないわ」
「うおっ!?」
ものすごい形相で睨んでくる月夜に、芝崎は肝を冷やした。月夜の前で大樹を侮辱する言葉は禁句であった。普段表情の変化に乏しい月夜が感情的になるという珍しい場面に遭遇した芝崎はある意味ラッキーと言えるのだが、おかげで芝崎への不快感は一気に増大しただろう。
「ち、ちが、う! まさか負けるとは思わなかったから! 一年生だし! そういう意味だ! 大神にボコボコされていたからさ!」
「彼が大神くんに惜しくも敗れてしまったのは受験期に加えて高校入学後もバドミントンをする機会がなかったからであって篠原くん自身は弱くない。それを今まで不真面目だった芝崎くんが勝とうだなんて思うこと自体おこがましい」
「お、おう……。わかった、わかったからもう勘弁してくれ……」
好きな異性からここまで責め続けられると、意外とナイーブな芝崎には精神的につらすぎた。あともう少しで心が折れるところだった。ここまで饒舌になる月夜を見ることも初めてで、その要因となる大樹との関係性を考えるとさらに芝崎は滅入った。
「ごめんなさい、少し言い過ぎたわ」
「い、いや、別に。……あのさ、朝日にとって篠原って何なの?」
途端に頬が紅潮する月夜。芝崎は口をあんぐりと開けたまま固まった。なんだ、その反応……というか可愛い顔は。お前そんな顔しないだろ……。
絶望的な戦力差が大樹と芝崎の間にあるのは明らかだった。
「ねえ、部長。今、相馬さんのことを遥斗って言いかけませんでしたか」
「言ってない」
「真顔で嘘つかないでくださいよ。ばっちり聞いてたのに」
「……言ってない」
そこへ大樹と姫川が姿を現した。芝崎はまるで親の仇かのように大樹を睨み付けた。
バドミントンでは負け、月夜には全く相手にされない。そんな状況にはもう耐えられない。
急に月夜の芝崎に対する評価を覆すことは難しくても、バドミントンなら……。
まずは、そこから始めてみよう。芝崎は決意した。




