「さあな」
再び舞台は男子の会場へと戻る。
気が付けば大樹たち藍咲学園は三回戦出場まで決めていた。何故こんなにもあっさり結果を白状してしまうかというと、語るべきことが少ないからである。一回戦、遠山高校は見かけ倒しでありストレートで試合は終わった。エースダブルスである相馬と蒼斗はもちろん危なげなし。大樹・大神ペアも、二人が得意としているフェイントとスマッシュが炸裂し圧勝。芝崎のシングルスは一瞬リードを許した場面もあったが、一つ上の三年生を相手に快勝してみせた。続く二回戦も同じ調子で藍咲は駒を進めた。
芝崎のプレイは、大樹と対戦した頃よりも洗練されたものになっており、これまでの修練をうかがわせてくれた。
「お昼ご飯ってどうすればいいんですか?」
そう言ったのはかなただった。初めてバドミントンの大会を見にきたかなたが知らないのは無理もないが、大会側が昼食の時間を指定してくるわけではないため昼食は各自で勝手に済ませていいルールになっている。その間、試合は当然続行しているので、タイミングを見誤って食後に過激な運動をする破目にならなければいいのだ。
「神谷くんはどうする?」
「あー、臨機応変になんとかします」
「芝崎くんは?」
「すいません、さっき食っちゃいました」
「大神く――」
「あ? 今飯食ってるんで、後にしてくれます?」
「ぶ、部長の相馬くんは……」
「今、他の選手の試合を見ているので」
最後に、かなたは縋るような視線を大樹に向けてきた。泣きそうな瞳が『大樹君なら分かってくれるよね……!』と言っているようで、なんとも反応に困る。大樹は財布を手にして重い腰を上げた。
「そこのコンビニまで行ってきます。適当なものでいいですか?」
「え? 待って、そういうことなら私も行く」
「いや……顧問が離れて何かあったら困りますから、ここにいてください。試合が近づいてきたら連絡お願いします」
大樹は会場となっているホールを出る。いたるところに自販機が置いてあるが腹にたまるものはもう少し外まで出なくてはいけない。時間に目一杯の余裕があるわけではないので急ぐために大樹は駆け出した。
前方より黒いジャージに身を包んだ集団が迫ってきた。彼らは狭い通路を広がって歩いてきていた。やがて大樹とすれ違うタイミングになったが、素通りできない。先頭を進んでいた長い髪の男が大樹を見下しながら威圧するように言い放つ。
「どけ」
むっとした。どう考えてもマナーが悪いのは向こうなのに。基本的に温厚な性格で揉め事は無難に避ける大樹だが、自分に非がない場合は徹底的に抗戦するつもりである。
「あ? 何その目」
「そっちがどけばいいでしょう。どう考えてもそっちの方が邪魔ですよ」
顔つきに凄みがあるわけではないが、精一杯睨み付けてみた。舌打ちした長髪が大樹の頭に掴みかかろうとした彼の手を後ろの誰かが制した。髪が明るい茶色に染まった実に爽やかな印象のある青年だった。
「いやあ、ごめんね。君のそのジャージ、藍咲生? 見たことない顔だから一年生かな。よろしくね」
「は、はあ……」
唐突に手を差し出してくる男に戸惑いつつも、おずおずと大樹も右手を出した。だが、彼の手に触れた瞬間、大樹に不快な感触が伝わった。反射的に振り払い、手の平を確認してみると真っ赤に染まっていた。短く悲鳴を上げ、後退する。
血だ――そう思い込んでしまったが、このべたべたとした触り心地と甘いにおいがそれを否定する。なんとことはない、ただの苺ジャムだった。
「あはは、ひっかかったー」
男が楽しげに言うと、それが伝染したのか周りでもクスクスと笑いが起きた。彼らがひとしきり笑い終えると、男は自身の手に着いたジャムを舌で舐めとった。大樹に近づいてこようとする男に、大樹は警戒心を強めた。
「そんな怖がらないでって。これ、俺流の挨拶だから」
まるで親しい間柄であるかのような馴れ馴れしさに、軽薄さと気味の悪さを感じる。早くどこかへ行ってほしくて、大樹は壁際に背中をくっつけて道をあけた。
「お、ありがとー」
ぞろぞろと黒い集団が大樹の目の前を横切っていく。男がすれ違っていく際、彼の指が大樹の首元を這っていく。唾液で濡れていくのを体感し大樹は飛び退いた。
「人をどかせたいなら頭使えよー、土屋」
「いや、松浦みたいにそんなネタみたいなことできないわー、マジすげー」
長髪は土屋。ジャムの男は松浦という名前のようだ。彼らは選手なのだろうか。そう思い背中にプリントされた学校名を見て、大樹は驚愕した。
「滝川……!?」
スポーツ推薦で選手を集めている強豪校だ。バドミントンだけでなく、運動部全般がその名を関東で轟かせている。身体能力に自信のある者なら、誰もが一度は入学を考えるくらいの高校だ。そしてこの大会の優勝候補でもある。
「あー? また誰か来やがった。ここ人通り多くね?」
「そう思うなら別の道を行けばよかったのにな」
土屋の苛ついた声に振り返れば、何故か彼らの目の前に蒼斗が立ち塞がっていた。気だるげに髪をいじるその姿は、彼の兄を彷彿とさせた。
「どけよ」
蒼斗の方が身長は高いため、今度は下から見上げることで目つきを悪くして脅すような口調の土屋。実は大樹はちょっと期待している。この先輩なら、自分の二の舞のようにはならずに理不尽には屈しないはず……!
「あ、うっす」
あっさりと道をあけた。
「え、待って蒼斗先輩!? 違う、そこは違うでしょ!」
「あー、言いたいことは分かる。でも俺は面倒なこと嫌いだから」
「やっぱこの人、神谷先輩の弟だ!」
ちょっと蒼斗のイメージが崩れた。
「お、今度のやつは聞き分けいいじゃん」
壁際に寄る蒼斗。しかし、土屋が蒼斗の前を通り過ぎようとした瞬間、土屋の体が前方向に急に倒れた。ごつん、痛々しい音が廊下に響き、土屋は悶絶した。唐突な珍事にその場にいた誰もが驚きを隠せずにいる。ただ一人、全てを知っている犯人を除いて。
「なーんてな」
よく見ると、蒼斗が足を伸ばしていた。土屋がそれに気付かず引っかかっただけのようだ。不敵な笑みを浮かべる蒼斗のその表情も、神谷瞬にそっくりだった。
「あはは! 一本とられちゃったね、これは」
松浦の笑いのツボがかなり浅いようで腹をかかえて笑い出した。蒼斗は松浦を無視して通り過ぎていく。
だが、二人が一瞬だけ視線を交錯させたのを大樹は見逃さなかった。
「というか、何故ここへ? ずっと気になってましたけど」
「臨機応変に。そう言っただろう。あの後で腹減ってきたんだ」
「そ、そうですか」
手早くコンビニでの買い物を済ませ、体育館までの道を戻っていく。蒼斗の歩行ペースに合わせていると、成人男性のそれよりもゆっくりになってしまい必然的に二人でいる時間が長くなる。だが絶賛コミュ障を発動している大樹はどうしてもこの静寂を埋められずにいた。誰かと行動するといつもこのことを意識してしまう。いい加減直したい。
「さっきの人たち、一体なんなんですかね。タチが悪いですよ」
勇気を振り絞って話題を提供してみると、案外返答は速かった。
「滝川のやつらなんて毎年そんなもんだ。松浦が助長している部分はあるだろうけど」
「そういえば、目が合ってましたね。知り合いですか」
「まあ。あいつ性格悪いだろー?」
「ほんとです。出来れば二度と会いたくないっすよ」
なんだか、話していると沸々とさっきの怒りが蘇ってきた。ああいうタイプの人間とは関わりたくはない。何を考えているのかわからないあの薄ら笑いが怖いのだ。
だが、蒼斗の次の言葉に大樹は顔を上げた。
「残念だが、無理だ。次の対戦相手は滝川だからな」
「げっ」
心底嫌そうな顔を作る大樹。二度と会いたくないと言っておきながら、数十分後には再び顔をあわせる事実に嫌気がさした。選手のことを何も知らなかったとしたら、強豪校との試合としてほどよく緊張したものを……。
「絶対負けたくないです。ストレートで勝っちゃいましょう」
「そんな雑魚じゃないけど」
「蒼斗先輩なら、余裕でしょう?」
ダブルスだけじゃなく、蒼斗のシングルも本当に強い。いくら滝川が相手でも彼なら何とかしてくれる。そんな期待――余裕が大樹にはあった。
蒼斗は何も言わない。五月の空を見上げて物思いに耽っている。さっきまで晴れ渡っていたというのに、今の空は厚い雲で覆われてしまっていた。
「さあな」
そんな一言がやけに大樹の耳に残った。自信がないようにも見える。わけを聞こうとしたタイミングで大樹の携帯が鳴る。新着のメッセージはかなたからで、そろそろ試合が始まりそうだから戻ってきてほしい、とのことだった。
「連絡が来たか?」
「はい」
「……急ごう」
大樹たちが体育館に姿を消したすぐ後、天気予報はずれの雨が降り始めた。




