「むしろここがチャンスだろ」
一週間が経過し、五月十五日の水曜日。
今日この日まで大神とのダブルス練習を続けたが、芳しい成果は得られなかった。大樹の予想した通り、大神はダブルスの経験がほとんどなかったのである。相馬、蒼斗ペアと部活中は幾度も試合を重ねたがどれも惨敗。藍咲学園の裏の部長とも呼ぶべき相馬はもちろんのこと、エース蒼斗にも隙はなく大樹は勝利への糸口さえ見出せずにいた。
一方、芝崎はシングルスのために毎日色々な人と相手をしている。相馬や蒼斗から、姫川、果ては高校始めの同級生までその幅は広い。しかし、大樹に対戦を申し込むことはなかった。一週間前に戦って以来なのだが、その真意はなんとなく分かるので大樹も特に何も言わなかった。
関東予選大会は来週にまで迫っていたが、同時に藍咲学園には別の危機が訪れていた。
「それじゃ、今日のホームルームはこれで終わります。……それから、一週間前なのでテスト勉強はしっかりしておくこと。ここからが勝負所ですよ」
担任が消えると、クラス中が呻き声で溢れた。皆、高校生活初めての定期試験が嫌で仕方ないのだ。中間考査のため科目は五教科と少ないが中学に比べると範囲が広く、そしてレベルが高い。これが高校という場所なのか……。
「楓はどう? 今回のテストはいけそう?」
今週の掃除当番である楓はT字箒で埃を集めながら大樹の方を振り返る。
「うっわー、やっばい。私何も勉強してないわー」
「何故棒読み?」
これはあれか、よく学校で見られる『勉強してない詐欺』というやつか。本当に勉強していない者が、今の楓のような発言を聞いてしまい(こんな棒読みではないと思うが)本当に勉強しないままテストに臨み、そして地獄を見てしまうというやつだ。今までにこれで犠牲になった学生も多い。テスト前になると頻繁に行われる心理戦だ。
「でも楓の場合、本当に勉強してなさそうだな」
「確かに、あんまりやってないね」
「そらみろ」
「だが見ていろ。お前はいずれ私の前にひれ伏すことになるだろう、ふははは」
「なに言ってんだか」
おかしな口調になってしまった楓をどう扱っていいのか分からなくなり大樹はそのまま帰ることにした。藍咲学園バドミントン部は水曜日と日曜日が休みとなっているがテストまで一週間を切った現在、全ての部は活動を停止させられている。流石進学校。
「朝日先輩と帰る気だ」
「い、いや、一緒に帰るわけじゃ……たまたまだよ、うん」
……やはり気付いていたか。
部活に入ってからというもの、何故か、本当に原因がわからないのだが、月夜と下校のタイミングが一緒になるのだ。始めの頃は「偶然ですねー」で済ませていたのだが、もうそう言えないくらいの確率になってきている。
「ところで、こんな噂が流れている」
「う、噂? なに、それ?」
「朝日先輩に彼氏が出来たかもしれない、と」
「へ、へえ……」
「誰のことだと思う? その彼氏」
「ちょっと待ちなよ楓。お前は勘違いしている。弁明させろ」
そこで大樹は、先日の相談室での出来事を話した。月夜はその時、恋愛には興味がないとはっきり宣言したのだ。よって月夜にそんな感情はない。ましてや自分に気持ちが傾くなど絶対にありえない。
「楓はいなかったから、そんなことが言えるんだろうけど」
「それ、嘘に決まってんじゃん」
「決まってるのか」
「まったく大樹はバカだなー」
こうも小馬鹿にされると釈然としない。一体楓の根拠は何なのだろうか。
「まあ背中に気をつけなよ。例えば……あの不良の先輩さんとか」
ニヤニヤと不愉快な笑みを浮かべながら、楓はT字箒の取っ手の部分で大樹の背中を突いてくる。
「芝崎さんは……多分そんなことはしない」
「そういえば、勝負はどうなったの?」
「教えないよ」
「えー、つまんなーい」
楓はしつこく大樹に絡んでいたのだが、掃除をサボっていると疑われたようで委員長に連れていかれてしまった。自業自得である。
昇降口まで向かい、今日も遭遇するだろうかと周囲を警戒していると誰かに肩を掴まれた。
来たか――そう思い振り返るが、しかしそこにいたのは大樹の予想していた人物ではなかった。
「大神?」
今日は部活がないはずだが、どういうわけかラケットバッグを背負っている。
「この後暇か」
「え? ねえ、もしかして――」
「少し付き合え。バドミントンするぞ」
唐突な発言に思わず額を押さえる。やはりそうきたか。学生として当然ではあるが、帰ったら勉強するつもりでいた。よって断るつもりでいたし、そもそも今日はラケットを持ってきていない。
「無理だよ。道具がないし」
「シューズは」
「あるけどさ……」
靴箱に、革靴と共に眠っている。
「ラケットは俺のを貸す。今から近くの体育館に行って打つぞ」
「でも試験勉強はどうすんの。もうすぐでしょ」
「ふん、意味が分からん。なんで部活ないんだよ。中学の時は前日まであったのに」
それは知らないが……とにかく大樹としては気が進まない。それは今優先されるべきことではないのだ。大樹があまりいい反応示さないのを察した大神は眉間に皺を寄せる。
「嫌なのか」
「嫌っていうか……」
「気付いてないのか。そのくだらない試験で時間を食われた後すぐなんだぞ大会は」
それはもちろん大樹も懸念していたことだった。一週間も部活動を制限されていたのでは、その間に体がなまってしまう。そうならないようにある程度体を動かすつもりではいたが……。
「試験前だろうが何だろうが関係ねえ。やらなかった分は必ず後で返ってくる。むしろここがチャンスだろ。本気で勝ちにいくなら」
本気で勝ちに――その言葉は妙にしっくりと大樹に馴染んだ。
試験期間に入ったのは藍咲だけではないだろう。他の学校も同じだ。同じ条件なら、努力した分だけ結果が変わってくるはずだ。大神の言う通り、ここはチャンスだ。
そして、同時に嬉しいと感じた。こんな風に声をかけてくれる人は今までにいなかった。大神のことは倒すべきライバル――言い方を悪くしてしまえば敵だと考えていた。チームメイトになったことで、今では切磋琢磨するべき仲間になったのかもしれない。
大樹は了承し、二人はそうして学校を出た。
◆
振り返ってみれば、部活以外の日に同級生と帰り道を共にすることは滅多にないことだった。『藍咲学園前』駅とは真逆の方角へ大樹たちは進んでいる。当然、見慣れない街を歩くことになり、いつもと違う道の目に映るもの全てが新鮮で、自然と首が動いてしまう。
「どうした」
「いいや。なんでも」
大樹がきょろきょろと辺りを見回すため、大神は訝しんで声をかけた。
大神は自転車通学だったようで、今は大樹の歩調に合わせるためにサドルに乗ってはいない。大樹を無理に走らせようとしないあたり、案外この男は分別があるみたいだ。
「家、近いの?」
「卒業する前に、こっちの方に引っ越した。ぼろいアパートだけど」
ただ前を見つめたまま、大神は淡々と話す。素っ気ないその態度から、あまり触れてほしくない話題なのだと直感した。仮にもあんなマンションに住んでいる自分の話を聞かせてしまったら、不愉快に思うかもしれない。大樹は口を閉ざした。
自転車だったらもっと早く到着していただろう、歩いたら二十分もかかってしまった。そこは結構規模の大きいスポーツセンターで、大樹も名前だけは知っていた。広い面積のグラウンド、体育館、プール、果ては弓道場まで、本当に多彩な設備が揃っていることで有名なところだ。プロが指導する教室や地域交流のイベントも定期的に開かれ休日になると人で溢れる。
「自転車停めてくる。先に受付に行ってろ」
「はいよ」
だが平日の、しかもこの時間帯となるとその限りではなくすぐにコートを確保できた。バドミントンをする人は誰もいないようで、体育館の奥側でバレーボールしている中高年が数名見られた。
「って、ん?」
「なんだ」
ここに来て重大なことに気付いてしまった。
「俺たち二人じゃシングルスしか出来ないな」
「そうだな。だからシングルスをしよう」
てっきり、ダブルスのための練習だと思っていたのだが違ったようだ。
もしかして始めからそのつもりだったのか……?
「なあ、大神まさか――」
「今ここで」
大神の声は決して大きくないにもかかわらず、大樹が思わず口を噤んでしまうほどに力強かった。
「本当の決着をつけよう。もう調子は取り戻しただろ」
珍しく大神は笑った。いつかに見せた獰猛な笑みだった。
「お前はいつもそうだった。その時の試合で勝っても、次に戦うときは必ず俺を超えてきた。マジで毎度驚かされたぜ。どうやってんだ」
その聞き方は答えを期待しているものではない。ただただ、今を楽しんでいるようだ。
「……お前のスマッシュは俺が見た選手の誰よりも凄かった。お前と初めて試合をして負けたとき、どうしても勝ちたいって思った」
今でも、その時のことをよく覚えている。
学校の先輩やコーチのそれと全く比べものにならないほどの炸裂音とその重さ。当たったラケットから電気が走ってきて右腕が震えた。正直、当時はそんな出鱈目なスマッシュがこの世にあっていいのかと怖くなった。だが、その恐怖も次第に闘争心に変わった。その気持ちが芽生えたからここまでバドミントンにのめり込めたのだ。
「お前との試合は楽しい。面白すぎる」
言葉を重ねる度にだんだんとこみ上げてくる感情は大樹を高揚させた。やがて足が震えてきたが、それは萎縮したからではない。武者震いというやつだ。
そう、今から始めるのはただの練習試合なんかじゃない。もうそんな枠では収められない。
「ならとっととやるぞ」
これは、決闘である。
来年も、どうかよろしくお願いします!




