「すげえ面白くなってきたな」
まずい、まずい、まずい。
心臓の鼓動がバクバクとうるさい。
「篠原くん……」
月夜は大樹を認めると、独り言のようにそう漏らした。どこか申し訳なさそうな表情に見えるが、どうしたのか大樹には分からなかった。
「ごめんなさい……あなたにこんなことをさせてしまって」
「あ、あ、いえいえっ! そんなっ、全然手間じゃなかったですし、まさか本当に結城さんがなってくれるとは思ってなかったんで……」
月夜から顔を隠すために、かなたの方へ体を向ける。
「教頭先生にこの旨を伝えたら、二つ返事で了承されましたよ。そこを朝日さんが偶然聞いていたんです。ね?」
かなたが確認するように問いかけると、彼女の方を向かずに月夜は小さく頷いた。
そこで「ほえーっ」と感嘆するような呟きが後ろから聞こえてくる。
「すごい……本物の朝日月夜だ……こんなに近くで見たの初めてかも」
「朝日月夜ってお前のことか。……思っていたよりもずっと綺麗だな」
先輩方二人に大樹は尋ねる。
「先輩たち、知ってたんですか?」
「知ってるも何も、すごい有名人だよ! 去年からミス藍咲に選ばれてたし、可愛いだけじゃなくて運動も勉強も出来るんだよね!? うわーっ、すごい! 握手してもいいかな!?」
ぱたぱたと月夜に詰め寄った紅葉が勝手にその手をとる。月夜は謙遜したように「どうも……」と返答する。相変わらず大樹以外には感情の変化がほぼ皆無だった。
それにしても、中学でもそうだったが月夜は安定の超人ぶりだ。上級生にまで名前が知れ渡っているとは……。
「それに、モテるんだよな、確か。クラスにもお前に振られたやつを何人かいるし」
「そ、そうなんですか!?」
大樹は素っ頓狂な声をあげる。
だが、落ち着いて考えてみれば全然不思議なことではなかった。これだけの美貌を持つ月夜に、引き寄せられる人間がいるのは当たり前なのだ。月夜が大樹にそういう恋愛事情を話さなかった、だから知らなかった、それだけのことだ。
ただ――
神谷の言葉を聞いたとき、形容しがたい――それでも言葉を尽くすなら、落ち着かない、落胆、嫉妬……それらに近い感情が大樹に芽生えた。
「なんだお前、いきなり。……、まさかさっき言ってた先輩って――」
「せ、センパイ! や、やっぱりセンパイってすごいですね!」
何かに気付いた神谷に発言の機会を与えないために、その言葉を遮る。
「そ、そうかしら……ありがとう」
大樹の賞賛の言葉は素直に受け取るのが朝日月夜。さきほどの紅葉への対応との違いを、果たして本人は自覚しているのだろうか。月夜のことはともかく、紅葉は自分との落差に気付き違和感を覚えていた。
「んん? なんでー?」
「おいおい、これは……」
神谷は冷たく笑みを浮かべる。まるで悪戯を思いついたと言わんばかりのその微笑みは少しだけ楓に似ている気がする。同じ種類の笑み、というか。
「なあー、朝日。やっぱり彼氏とかいんのー?」
間延びした神谷の言葉は、面白半分で言っているものだと窺えた。
月夜は怪訝な表情で眉をひそめると、突き放すような口調で、
「いませんけど……もし、そういうつもりならお断りします」
「いいや、違うよ。彼女いるし。……へえ、いないの」
神谷の意地の悪そうな笑みは保たれたまま。
大樹は月夜の言葉を聞いて胸を撫で下ろす。
「――そういうのは興味ありません」
これ以上の追及は許さないとばかりの拒絶の意思を月夜は示す。
普段の無表情キャラな月夜と違い、明確な敵意を感じてしまい大樹は萎縮する。大樹の見えないところで、月夜はこうして幾度と男子からの交際を断ってきたのだろうか。異性にあまり縁のない大樹には想像がつかない話だが、周りの注目を集めてしまうのも度が過ぎれば問題が伴う。その悩みをずっと月夜は抱えてきた。
――だとしたら。
やはり、この気持ちは育ててしまわない方が良さそうだ。自分がこんなことを考えたせいで、月夜との関係性にヒビが入ってしまうのは避けたい。
大樹はそう決意する。
だが、大樹は気付かなかった。
月夜が神谷にそう言い放ったとき、彼女は大樹の存在を気にしていたことを。
「ところで……」
そこで神谷は言葉を切り、意味深に大樹をちらりと盗み見る。
「今、篠原の好きなやつの話をしていたんだが」
「なっ……!」
大樹は息をのむ。さっき話していた『先輩』が誰の事なのか、おそらく神谷は見抜いてしまったのだろう。まさかここで暴露する気なのか?
ちょっとそれは洒落にならない……!
「神谷せ――」
大樹はそこで言葉に詰まる。おそらくこの場にいた全員――月夜以外が今の光景に目を疑ったはずだ。
月夜は一瞬で神谷に肉薄する。長い黒髪が乱れ、広がるように舞う。誰もが押し黙る中、ゆっくりと、そして逡巡するように月夜が言葉を紡ぐ。
「……誰」
「……あれれー? 朝日さんはこういうのに興味なかったんじゃなかったのかよ」
なんか、神谷の言い方がわざとらしいのが気になる……まるで月夜をからかっているようなそれだ。
月夜がさらに詰め寄り、その分神谷が仰け反る形になる。
「別に……ただ、なんとなくです。後輩なので」
「それで今の動きはねえだろ……。お前、やっぱり――」
何かを言いかけた神谷の口を塞ごうと月夜の手が伸ばされる。だが神谷は体を横に倒してそこから逃れると月夜から距離をとった。
「こ、ここでそれ以上言ったら許しませんからっ!」
「やっぱり本当なんだ? すげえ面白くなってきたな、篠原!」
突然そう言われてもどう反応していいか分からない。というかさっきからこの二人の会話も分からない。
月夜は赤い顔で神谷を追いかけているし、その神谷はこの決して広くはない相談室の中で月夜の追撃を上手く避けている。月夜がここまで感情を剥きだしにするのは珍しい――というか長い付き合いの大樹でも見たことがない。
この神谷という先輩……何者だ?
「ちょ、ちょっと二人ともやめてください……! 鬼ごっこなら外で……!」
相談室の管理人として、かなたが苦言を呈する。神谷それを聞くと、月夜を躱しながら窓の方へと向かう。
「だ、だから! ここは二階なんですってば!! そこから落ちたら怪我して――朝日さんまで!?」
今の月夜は、神谷が窓から飛び降りるくらいでは躊躇わなかった。それほどまでに興奮している状態だったのだ。
慌ててかなたが窓の下を見ると何の問題もなく鬼ごっこを継続する二人の姿が。
「あの……」
かなたは眉間を押さえながら。
「もしかして、ここから飛び降りてもそこまで危険ではないのでしょうか……?」
いいえ、絶対危ないと思います。
◆
その後。藍咲学園でこんな噂が流れた。二人の男女が追いかけっこをしていたという。
一人はあの有名な、朝日月夜。彼女は憤怒の形相で前を走る男を追っていた。そしてその男は、月夜ほど有名ではなかったが実に整った容姿をしており、学園の女子生徒は彼に一目惚れした者も多いらしい。イケメンと美女……一体彼らの関係性とは何なのか。学園はそれを探る話題で持ちきりだった。
「何やってんだろ、あの二人……」
今日の授業も全て終わり、放課後になる。大樹はラケットバッグを背負い、教室を出る。ちらほらと、今の噂を話し合っている生徒の姿が目立つ。
「ねえ、そのイケメンって神谷さんだよね。きっと」
隣を歩く楓は部活動に所属していないためこのまま昇降口へ向かうらしく、二人はそこまで道を共にすることにした。
「なんだ、知ってたのか? あの人のこと」
「何度か顔を合わせたからね。紅葉さんとも。私としては大樹が二人を知っていることにびっくりだけど」
「球技大会のときに、偶然」
「ねえ、それより二人の噂のこと、何か知ってる?」
「いや……よくわからん」
これ以上自分で考えていても、答えは出そうにない。月夜に会ったときにでも聞けばいいか。
「ところで大樹……」
「ん?」
「朝日先輩をかけて勝負すんの?」
「あ……」
そういえば忘れていた。今日、おそらくこれから芝崎と対戦することになるはずだ。実際、彼の実力はどれくらいだろう。朝の会話では大神を軽く見ていた節があったが、まさか大神以上か……? 確かなことは一軍に入っていたということ――
「や、やばい。なんか緊張してきたかも」
胸に手を当てて、動悸をおさえようとする。
楓はさっきから笑いを噛み殺しながら、続ける。
「まあ頑張って」
「おう……練習の成果も見せたいしね」
そのためにこの重い体を引きづっているのだから。
廊下を渡り終え、二人がそこで別れようとした時、上の階から誰かが下りてきた。
「あ……」
大樹と同じようにラケットバッグを背負った月夜が現れる。
どうにも今日は、タイミングの悪いときばっかりに月夜と遭遇してしまう。
「じゃあねー、ばいばーい」
楓が軽く手を振ってその場から立ち去る。正直、今だけはもう少し楓にいてほしく思ってしまい、大樹は次第に小さくなっていく後ろ姿を未練がましくずっと見ていた。
「……森崎楓さんだったわね」
月夜の問いに頷く。
「仲良い?」
「う~ん……向こうがどう思ってるかは分かりませんけど、俺の中では今のところ一番仲が良いですね」
「……昼に言っていた好きな人って、あの子?」
思わずむせてしまった。見当違いにも程がある。
「全然違いますよ!」
「そう……なの? じゃあ誰?」
「それは……」
誤魔化そうとしたが、予想以上に月夜は真剣な顔つきだった。どうしてこんな顔をするのだろう。この人は恋愛に興味がないはずなのに。
こんなにも悩んでいるのはあなたのことです、とは絶対に言えない。そもそも自分の本当の気持ちを分かっていないのだ。だから、余計なことは言わない。
「……すいません、内緒です。ちゃんと伝えるのは、その人にしたいですから」
目の前にその人物がいるのだが、こう言った方が都合がいいだろう。案の定、月夜はそれ以上聞いてこなかった。
「そう……」
残念そうに呟く。そんなに知りたかったのだろうか……?
気まずいので話題を変えることにした。
「あの、センパイ」
「うん」
「神谷先輩との鬼ごっこの原因は一体何だったんですか? いきなり始めましたよね」
月夜は目をぱちくりと瞬きを繰り返し、おそるおそる尋ねてきた。
「わ、わからなかったの?」
「え、はい」
「本当に?」
「本当に」
月夜は口元を真一文字に結び、しばらくそのままで固まった。やがて躊躇うように口を開いた時には、
「内緒」
「え?」
「私も、内緒にする」
「そう、ですか」
「……部活行こう」
何だったか教えてくれなかったが、部活という単語を聞いて現実に戻される。
今はとにかく、不甲斐ない試合をしないようにしなくては……。




