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「妹としては」

 目を覚まし、すぐ傍に置いてあった時計で時間を確認するとまだ七時前だった。

「早すぎるだろ……」

 今日は五月三日。水曜日であるため、球技大会の分も数えれば一週間も学校を休む計算になる。これだけ休みをもらっても普段なら暇を持て余すだけなのだが――


「やべ、どうしよう」


 昨日の自分は一体何を考えていたのだろうか。なぜナチュラルに月夜を買い物に付き合わせる約束ができたのか分からない。誘った時は妙な興奮状態にあったかもしれないが、冷静になってみれば信じられない行動をしてしまったことに気付く。


「と、とりあえず起きるか……」

 このままうだうだとしていても仕方ないので、大樹は諦めて布団から抜け出す。


 大樹が住んでいるのは高層マンションの七階で、その立地や内装からして決してやすくない物件であることがわかる。自室から出た大樹を待ち構えていたのは、これまた広大なリビングと、


「あ、大ちゃん……おはようございます……」

 ソファに腰掛け、窓から射しこむ朝日を浴びている母の姿だった。

「おはよう、母さん。何してるの?」

「気持ちがいいので、日向ぼっこです」

 そう言って、大樹の母はあくびを漏らした。


 ……大樹が、こんなマンションに住んでいる理由。それは、大樹の母がいわゆるお嬢様というやつだからだ。

 大樹の母の父、つまり大樹にとって祖父にあたる人物が起ち上げた会社は幅広い分野に進出し、今では誰もが名前を知っているほどの大企業に成長した。このマンションも、実は祖父の会社の系列が管理しているものらしい。

 そんな祖父は多忙の身であり、祖母もその付き添いで家を留守にすることが多く、母は幼少時代を祖父たちが雇った御手伝いさんと過ごした。

 だから……なのかは大樹にも分からないが、そんな経緯であるため母は家事全般が全く出来ないという、子供を持つ者として致命的な弱点がある。ゆえに学校があろうが部活があろうが、家のことは大樹が何とかするしかないのである。


「母さん、何か食べるー?」

「うーん……。あ、お父さんが送ってくれた紅茶があったはずなので、それを。あとそれに合うお菓子も欲しいですね」

「……相変わらずお嬢様って感じだな」


 大樹の皮肉を言ったにもかかわらず、母は「えへへー、照れますよぉ」と、何やら違う解釈をしていた。こういうことにも、もう慣れた。

 気を取り直し、紅茶の葉を探すため大樹はキッチンへ向かう。


「ん?」

 キッチンに付けられた収納棚に先客がいる。がさがさと音を立てながら四つん這いになって棚を漁る人物の尻に軽めに蹴りを入れる。


「紗季、少しどいてくれ」

「んぐ」

「ん?」


 今、少し妙なうめき声が聞こえたような……。


「おい、紗季、顔を出せ」

「むぐ、んぐぐ!」

 尻を小刻みに振り、反抗の意思を見せる紗季。大樹は人差し指と中指を立てて両手を合わせる。そしてそれを尻に向ける。


 ……背後に危険が迫っていることを感じ取ったのか、観念したように出てくる妹。ぼさぼさに跳ねた寝癖がそのままになっているが、くっきりとした二重のせいか、凛々しい顔つきに見える。そしてその口元にはスナック菓子が咥えられていた。


「朝から何食ってんだよ」

 大樹は菓子を取り上げる。

「お腹減って」

「だったら何か作りなよ」

「お兄ちゃん、何言ってるの? 私がそんなこと出来ると思うの?」


 ひどく冷めた目で軽蔑するかのように言い放つので、それが自虐であることに気付くのに少し時間がかかってしまった。


「………」

「………」

 拳を固く握りしめ、大樹はそれを紗季の頭上にもっていく。

「お兄ちゃんの作るホットケーキが食べたいなあー。すごくおいしいからなー」

「………」

「………」

「……少し待ってろ」

「はーい」


 すごく白々しいセリフを棒読みされたが、まさか大樹も本気で実の妹に拳骨(げんこつ)を喰らわせる気はない。こんなやり取りも、篠原家では定番になっているので大樹もさっさと紗季に食事を用意することにした。


「紗季、今日は塾か?」

「そうだよー」

「……了解」


 ということは、ゴールデンウィークに入ったばかりだというのに大樹の身が忙しくなりそうである。一つ下である紗季は来年の受験に備え、本格的な勉強を始めている。家事全般が大樹の役目なので、食事も毎朝用意しなくては……。そして自分の妹として、ぜひこの逆境を乗り越えてほしい。


「なんか喉渇いたなー」


 紗季はそんなことを言いながら冷蔵庫を開け、中を物色し始める。しばらくして目当てのものが見つかったのか、紗季はあの有名な乳酸菌飲料を取り出す。ラップがされたままのそれを、懸命に剥がそうとするが……上手く出来ないらしく大樹に手渡した。ささっと剥がしたラップを捨てて紗季に返しつつ、大樹は紅茶を淹れ始める。紗季はコップを取り出し、そこになみなみと原液を注ぐ。そう、原液である。本来水で薄めなければならないそれを、コップ一杯分も用意していることを訝しんだ大樹が、紗季に制止をかけるには時間が足りなかった。


「ちょっ――」

「ぶっふう!?」

 すごくむせていた。当たり前である。

「バカ!! そのまま飲むやつがいるか!! 水で薄めるんだ!!」

「濃い……どろどろとねばっこい白濁液が押し寄せて……なんか私汚(けが)された気分……」

「お、おう……お前のことだから意味わかってなくて言ってるんだよな……?」

「どれくらい足せばいいの? 水」

「んー、好みでいいと思うけど……同じ量くらいで混ぜてみたら?」

「わかった」

「ちょっと待て!! なんでそのコップに同じ量の水入れようとして――こぼれる、こぼれる!! っていうかもうこぼれてる!! お前もう何もすんな!! あー、もう濡れてるじゃん……着替えてこいよ……」

「はーい」


 紗季が去ったキッチンで大樹は文字通り頭を抱えた。いつものことであるが、やっぱり紗季は頭が足りない。だがあの母親の娘だという血の繋がりは妙に強く感じる。こんな愚妹を受け入れてくれる学校があるのか本気で心配になってきた。一通り現実逃避を終えたところで、大樹は床の水を拭き取った。

 気を取り直し、紗季の所望通りにホットケーキを作ることにする。母の実家の御手伝いさんの助言を受けてどうにか作れるようになった一品である。大樹の料理のバリエーションは非常に少ないが、ホットケーキは紗季がよくリクエストするためいつの間にか上達していった。最近では本当に美味しそうに食べてくれるので大樹としても作り甲斐がある。

 最後に蜂蜜を垂らして完成である。紅茶も用意出来たし、早く出してしまおう。


「お兄ちゃん、出来た?」

「おう、さっさと食って――」

 振り返った大樹は、紗季の姿を見て絶句した。塾に通う紗季は、毎日服装を考えるのが面倒だからと時々制服で出掛けていくことがある。黒色がよく生えるセーラー服で紗季には本当によく似合っているのだが……。

「何故前後が逆なのか……?」

「うん? ……あっ」

 今まさに気付いたような言い方だ。その場で上の服を脱ぎ、前後を逆転させてもう一度着直した。その間、大樹は紗季を見てしまわないように視線を床に落としていた。……別に照れているわけではない。

 そして何事もなかったかのように紗季は大樹の横を通り過ぎて――


「あと、靴下を片方忘れているからな?」

「!?」


 大樹が指摘すると紗季は自分の足元を確認し、膝下までの紺の靴下が右足にしか装着されていないことに気付いた。その動揺ぶりはさっきとは比べものにはならない。「え、うそ、なんで……」と繰り返し、顔を赤くしていた。その落差に違和感を覚えた大樹はひとつの可能性にたどり着いた。


「なあ、お前。ひょっとしてさっきのわざとか?」

「え!? ななな、何言ってるの、お兄ちゃん、そんなわけないしっ」

 ダウトだ。

「あれか、俺の目の前で制服脱いでどんな反応をするか楽しもうとわざとボケてみたけど、うっかり本気でミスっちゃったから恥ずかしいんだな?」

「い、いやいやいや!! 違うって」

「と言いつつ、顔がひきつってるぞ? ついでに俺に解説されたから余計に恥ずかしいんだよな?」

「な、なんの根拠があって……」

「だって、お前、本気で否定するときはもっと癇癪起こすじゃないか」

 呆気なく論破された紗季は顔を真っ赤にしながら、ホットケーキの皿を奪い去るかのように持っていきリビングに入っていったが、部屋との段差に躓いて「うにゃあ!?」と盛大に転んでいた。

「………」

 我が妹ながら残念過ぎる。頭痛がしてきた。ちなみにホットケーキは無事のようである。


 家族での食事が済むと、紗季の出発しなければいけない時間が迫っていた。のんきに「いってきまーす」と言って出て行こうとした紗季を慌てて止める。そんな寝癖がひどい状態で表に出すことになれば家族の恥になるのでやめてもらいたい。


「ほら、髪やってやるからさっさとこい」

「む。急いでるんだから早くしてよ」

「だったら自分でやれよ!!」


 文句を言いつつも、紗季の髪に櫛を通していく。これも篠原家では日常的に見られる光景なのではあるが、来年高校生になる妹が兄に自分の髪を触らせているあたり、紗季はちっとも兄離れが出来ていない。もしかしたら、大樹は将来をずっと母と妹の面倒を見続ける人生で終えるのではなかろうか。案外、そうなりそうなところが本気で怖い。


「お兄ちゃん、なんか今日は用事でもあるの?」

「おう。今日はバドミントン用具一式を揃えにいく」

「え、ぼっちで?」

「違うわ!」

「付き合ってあげようか?」

「だから一人じゃない!!」


 聞き捨てならない。確かに大樹は自分でも交友関係が広いとは思わないが、それでも友達くらい普通にいるし遊びに出掛けることも……。


「あれ? あんまりないような……」

「あんまり、じゃなくて一回もないでしょ。というか、バドはやめたんじゃなかったの? お兄ちゃん」


 家族は、大樹が中学時代にどんな経験をしたのかを知っている。だから、紗季にとっては再びバドミントンを始めようとする大樹の気持ちが分からない。また傷つくことになるかもしれない。そんな考えが紗季の顔色に如実に表われていた。

 それを見た大樹は、安心させるように小さく呟いた。


「思い出しちまったから。バドミントンの面白さを。好きだって気持ちも」

「……ふーん」


 まだ紗季は何かを言いたそうな態度を貫いていた。やがて髪も整い終え、紗季は鞄を持って玄関へ向かう。


「じゃ、いってきます」

「おう。いってらっしゃい」


 紗季が外に出て、扉が閉まる。……と、思いきや、少しだけ扉を開いて半分顔を覗かせながら、


「早く月夜さんを紹介してほしいですよ、妹としては」

 そんな言葉を残して、今度こそ扉が完全に閉まった。


「まったく、あいつは……」

 普段はどうしようもない馬鹿なのに、どうしてこういうことには鋭いのだろう。


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