地の魔法使い(改)
後半部分を大幅に変えました。
アベルはまじまじと自分の背中から生えた物を眺めていた。翼膜は付け根から縁まで漆黒に染まり、光を絶てば闇に溶けていきそうだった。尖端に飛び出したドラゴンを彷彿とさせる巨大な爪は、人間の手でいうと親指に位置し、人差し指、中指、薬指、小指にあたる骨格は露出せずに翼膜を広げている。構造はコウモリのそれと似ていたが、大きさや逞しさは比にならなかった。
軽く翼に力を入れると、力を入れた関節が曲がり翼も曲がった。しかしその骨格はアベルには従来存在しないものであったため、思い描いた動きができなかった。アベルはむきになって雛鳥のようにばたばたと翼を羽ばたかせた。
「うう……」
ちょうどその時、テッサが目を開けた。慌てて翼を隠そうとした。しかしどうすれば隠れるのか、そもそも戻せるのかもどうかもわからなかった。
「アベル……?」
青色の瞳に、漆黒の翼が映った。アベルはテッサの正面を向いたが、アベルの背丈の二倍もある翼を体で隠しきることは物理的に不可能だった。
「その翼、もしかして……吸血鬼?」
アベルはこの先テッサがとるであろう敵対的、或いは恐怖的な態度を受け止める覚悟を決めた。いつかの女騎士の時のように。
「……ありがとう」
「え?」
蚊の鳴くように発せられた声は、予想外の感謝だった。
「俺を怖がらないのか? 憎まないのか?」
「正直言って、ちょっと怖い……けど、あなたが助けてくれたとしか思えないから」
「俺は悪魔なんだぞ? どれだけ善意を示しても、どれだけ善行を重ねても、悪であることに変わりはないんだぞ?」
アベルは禍々しさを主張するかのように翼を広げて見せたが、テッサの視線はアベルの目を捉えて離さなかった。
「じゃあ、天使ならどれだけ悪行を重ねても善であることに変わりはないの?」
「それは……」
アベルは言葉に詰まった。彼女の言うことを認めたと言うよりは、始めから自分の意見に確信が持てなかったのだ。だが彼の心境はどちらかと言えば光が差していた。
アベルは自身が悪魔であることに納得しようと努めているが、心のどこかには善なる物があると信じていた。しかしそれはアベルだけで考えても決して探し得ない物であるため、彼は求めていた。それを見つけ当ててくれる者を。善や悪と言った「評価」は周りが決めるものなのだから。
もしかしたら目の前の少女がそうかもしれないという期待。少女が突如ラシェルとなってアベルに剣を振るうことへの恐れ。共存するかのように見えた二つの感情だが、こう言った葛藤の場合、体感した方に重さが増すというのが常であり、アベルもその例外でなく、天秤は後者に傾いた。
「だが、吸血鬼が吸うのは生き血だぞ。死んだら生き血が飲めなくなるとは考えなかったのか?」
「そうかもしれない……でも、わたしは……アベルが悪い人とは思えなかった……それだけ」
「どうして、どうしてそう思った?」
アベルはテッサの肩を掴んだ。彼は少女の瞳に映る、己の光を探していた。
「痛い痛いっ」
「す、すまん」
アベルは思ったよりも力が入っていたことに気付き、手を外した。テッサは逸れた視線を戻し、口を開いた。
「あなたは……」
その時、アベルの背後で枝葉をへし折る乾いた音がした。アベルは振り返った。ゴーレムが落下していた。ゴーレムの両足、両手が地に着いた瞬間、轟音が森中に響き渡った。アベルは剣を抜いた。
「テッサ、全力で村へ逃げろ」
「でも」
テッサは震える声で躊躇の意を告げた。無理もない、とアベルは思った。一度体感した恐怖と同じ道筋を辿ることは、卓越した勇気が必要である。
「さっきのゴーレムは誰かに見られた時のための対処策だ。こんな所にまで用意する意味もなければ、魔力的な余裕もない。今度こそ大丈夫だ。逃げろ」
アベルが話す間にも、ゴーレムはゆっくりと上半身を上げていく。頭部に二つ埋め込まれた眼が鈍く光った。
「わかってる。わかってるけど……」
テッサは弱々しい力でアベルの服の裾を掴んだ。アベルは己の中に渦巻く闇と光の仕切りを外し、それらを激しく入り乱れさせたまま叫んだ。
「行かないとてめえの血を一滴残さず絞りつくしてやるぞ、小娘!」
そう言って、テッサを突きとばす。その間にゴーレムは粘土の体を持ち上げ、地を蹴り、アベルに向かって突進した。
(避けたらそのままテッサの方へ行く! ここでやるしかない!)
アベルは助走をつけて跳躍し、空中で体をねじった。翼をゴーレムの肩にかすめさせながら、バスタードソードをゴーレムの額に突き刺した。ゴーレムは頭から下へと順に形を失った。
アベルは残骸の上に立ち、魔法使いが居た頂上を見上げ、翼を展開した。一度羽ばたくと風が発生し、二度目となるとより風速が増した。三度、四度と羽ばたかせ、五度目でアベルの足が地を離れた。しかし、重心を保ちながら浮上することは難しく、早く上がらなければ、という気持ちに反し体はぐらぐらと不安定になっていた。
「アベル! 何処へ行くの!?」
「魔法使いを倒す! お前は逃げろ!」
アベルは徐々に安定感を得ていた。空中で垂直に立ち、羽ばたく度に上昇した。テッサは祈るように両手を組み、彼を見つめていた。
「あなたを置いて、逃げられるわけないよ……二度も、命を救ってくれたのに……わたしの方からは何もしないなんて……エルフの誇りに、反するから……」
アベルの高度は遂に木を越え、眩しさに半開きとなった眼に、茶色いローブが映った。
羽ばたく回数を増やし、山頂へ向かって急上昇する。
崖の縁に立ちアベルを見下ろしていた魔法使いは飛んで来るアベルの方へ手をかざした。すると付近の地面から大きな岩が出て来、魔法使いの頭上で浮かんだ。そしてそれらは「発射」された。岩は三位一体となり、ボウガンの如きスピードでアベルへ向かった。
(避けられない!?)
上昇することしか知らないアベルにとって、これほどまでの範囲の攻撃をかわす技術はなかった。いや、技術があったところでそもそも避けられるものなのか。
アベルが直撃を覚悟した時、突風が起こった。突風は岩を避けようとする翼の羽ばたきと同調し、飛距離を生んだ。岩はアベルの横を通り過ぎ、木枝を折りながら落ちて行った。
アベルは下降して森の中に入り、考えた。先ほどの回避は、たまたま起きた突風に助けられた偶然だ。もう一度あの岩石が襲って来た時、再び避けられる自信はない。
(ここは、引くべきだ)
アベルは己の行為を悔やんだ。翼が発現してから10分と経っていないまま空中戦を挑むのは無謀だし、そもそも魔法使いに戦いを挑むことからして愚かだった。アベルが危惧していたのは村に帰った時再び襲われるというものだったが、村で殺人が行えるのならばわざわざオーギュストが王都へ行った時を狙う必要もない。村の狭さやサーチの魔法、どれが直接的な理由かはわからないが、とにかくエルフの村での殺人は不可能なのだ。
(くそ、くそ。こんなんじゃ駄目だ。全然駄目だ)
アベルは自分をぼこぼこに殴りたい気持ちになりながら着地した。
「アベル!」
顔に泥をつけたテッサが駆け寄って来た。
「テッサ……もしかして、お前が助けてくれたのか?」
「風の魔法。これで、借りは一つ返せたかな。でも、借りとかは関係なく、あなたが無事で良かった」
「……ありがとう」
それしか言えなかった。テッサは優しげな笑みを浮かべた。全てを温かく包み込むような、女神のような笑みだった。
「でも……安心するのはまだ早い。早く逃げないと、奴はすぐに追ってくる」
「そうだな。急ごう」
二人は足を揃えて走り出した。
「なあテッサ……本当に、俺と居ていいのか?」
走りながらアベルが問う。
「いい」
「でも、周りが何と言うかわからないぜ」
「誰にも言わない」
「……ありがとう」
テッサはアベルから顔を反らしたため、彼女がどんな顔をしているのかアベルにはわからなかった。
「……さっきは言いそびれたけど、わたしがあなたを良い人だと思ったのは、あなたが……」
そこまで言った時、二人の背後で地鳴りのような音が響いた。何度も響く音は、徐々に二人に近づいて来ていた。
「本当に追って来ていたのか。しつこい奴だ」
アベルは立ち止まった。テッサも彼に合わせて立ち止まる。
「また、わたしだけを逃がす?」
「……勝手にしろ」
「わたしは絶対に死なないから、あなたも絶対に死なないで」
「ああ」
アベルは剣を抜き、数百メートル先で突進して来るゴーレムを睨んだ。アベルが深夜に全力疾走しても敵わないほどの、驚くべきスピードだった。ゴーレム自体は今までのものと同じだったが、唯一異なる点を挙げるとすれば、額に羊皮紙がないことだった。
「羊皮紙がない!? と、いうことは……ユニオンか!」
テッサは小さく頷いた。
「アベルに岩を撃った後、ゴーレムが崖を滑り降りていた。あの重量とあの傾斜なら、凄まじいスピードが出る。でもそんなゴーレムの上に乗ったまま、無事に下りられるはずがない。だから、ユニオンの魔法でゴーレムと結合したのだと思う」
ユニオンは魔物と一体化する高位魔法である。つまりゴーレムにユニオンを使えば、魔法使いの意思で、ゴーレムを自在に動かすことが可能になる。それ故に、ゴーレムを操る羊皮紙は不必要となるのだ。
「これは……まずいな」
アベルは剣を収めるとテッサのひざ裏に手を伸ばし、抱きかかえた。
「な、なに?」
アベルはテッサを抱えたまま跳躍した。そのすぐ下で、拳が地面をえぐった。右腕だけが切り離され飛んできていたのだ。テッサは小さな悲鳴を漏らした。アベルは力強く翼を羽ばたかせ、続けざまに飛んできた左腕を避けた。
「あいつは殺るしかないみたいだな。あの走力に遠距離攻撃が組み合わされちゃあ、逃げ切る自信がないぜ。テッサ、奴を倒せる魔法はないか?」
飛びながらテッサに訊く。
「ごめんなさい……わたし、お姉ちゃんみたいに魔法が得意なわけじゃないから……小さな風を起こしたりする以外は、何も……」
「謝ることはない」
アベルはゴーレムの方を向いた。ゴーレムの足元の土が浮き上がり、肩へ付着している。魔法使いと一体化しているため、体の一部が吹き飛ばされても魔力さえあれば再生できるのだ。
(まったくユニオンってやつは面倒な魔法だ。だが、弱点はある。多分、脊髄あたりに本人が入っている。そいつを直接貫けばこっちの勝ちだ。羊皮紙よりも狙いづらいが、狙う価値は大きい)
アベルはテッサを下ろした後、剣を抜き、ての制止も聞かずに全力でゴーレムの元へ駆けた。アベルはゴーレムの股下を滑り抜けた後、素早く体勢を整えて跳躍し、ゴーレムのうなじにあたる部位へバスタードを突き立てた。
その刃は1センチも刺さることなく弾き返された。
(馬鹿な……力の入れ方、刃の角度……どれをとっても完璧な突きだったのに!)
アベルは空中で姿勢を維持したまま、何度も何度も突いては弾かれを繰り返した。バスタードソードの剣先は刃こぼれしてゆき、段々とその切れ味を失っていた。
そうしている間にも腕の再生は続き、第二関節が完成しつつあった。
「くっそおおおおおおおお!」
「無駄だ」
重々しく反響するような声。それはゴーレムから発せられていた。
肘まで出来上がった左腕がアベルを捕らえた。
「ぐっ……!」
アベルは羽虫のごとく吹き飛ばされ、地面を無様に転がった。口に泥が入る。
「私の作ったゴーレムをそのようなナマクラで貫こうなど、片腹痛いわ」
ゴーレムの右腕がこれまでとは比べ物にならないスピードで再生されてゆく。
「やめて!」
テッサが叫ぶと、土の拳はアベルの真上で振りかぶられたまま止まった。
「あなたはオーギュストを殺した。ソレーユも殺そうとした。殺人の禁止という掟を破ったあなたには、死の制裁が科せられる。そこら辺、理解しているの?」
ゴーレムは笑い出した。無表情で笑うさまは、左右違う靴を履いたようなちぐはぐさがあった。
「奴らは既に掟を破った。だから制裁を加えた。それだけのこと」
拳が下ろされる。そこに一切の予告はなく、アベルの足は反応できなかった。
「え……」
テッサが悲鳴を上げる余裕すらもなかった。彼女は茫然自失といった表情で拳を見つめた。その下ではぺちゃんこになった吸血鬼が内臓を土にぶちまけているのだと思うと、たとえようもない絶望感がこみ上げたのだが、砂煙が晴れた頃、片膝をついて拳を受け止めている吸血鬼に気がついた。喜びに涙ぐむテッサだったが、今、生き延びたところでいずれ彼は殺されるのだという事実に気付くのに時間はかからなかった。
「さて、いつまで持つかな」
体重が加えられる。アベルはせめて夜だったらと歯を食いしばったが、たとえ昼であろうと敗北するわけにはいかないのだと己を鼓舞し、残った力を振り絞って拳を押しのけ、その隙に後ろに跳んだ。もう少しタイミングが遅ければ足の指が潰れていただろう。
「ヌウウウッ」
かわされたことが気に障ったか、ゴーレムは続けざまに殴打した。アベルは予め何処に来るのかわかっていたかのようにそれらを避けた。
次第にゴーレムとアベルとの距離は遠のき、ゴーレムが腕を伸ばしても届かない位置にアベルは着地した。
「悪魔どもめ……私たちの平穏を奪う悪魔どもめ……」
ゴーレムは呪文を唱えるかのようにぶつぶつと呟いている。
「俺はともかく……オーギュストやソレーユが掟を破ったってのはどういうことなんだ?」
「貴様が一番よくわかっているはずだろう? 奴らは禁忌を犯したのだ」
「わからん!」
「他種族へのエルフ魔法伝授。この期に及んでとぼけるとは、ある意味肝が座っているようだ」