第10話 禁足地の蛞蝓
禁足地は整備されていない山の奥にある。
リータも静夏もすいすいと山道を進んだが――伊織は途中で派手にバテた。
肩で息をするのは当たり前、両足は鉛のように重く感じる。
前世でも学校行事で軽い山登りをしたことはあるが趣味で登ったことはなく、平地と比べるとこんなにも体力を持っていかれるものなのかと伊織はカルチャーショックを受けていた。
情けないぞ、と両足に鞭打って一歩一歩確実に進んでいく。
本当に倒れてしまうほどの限界を迎えない限り、静夏が手を貸そうとしないのも今の伊織にとってはありがたかった。
そして、ある地点から景色の雰囲気が変わった。
柔らかな草花が姿を消し、固い葉を持つ植物でさえ葉の筋を残して禿げているものが目立ち始める。
代わりに地面のそこかしこがキラキラと光っているのが見えた。
「これはナメクジの這った跡だ」
静夏が光る跡をじっと見つめながら言う。
這った跡だけでも大きいとわかる代物だった。
しかし幅を見る限り、情報にあった魔獣のサイズと比べれば可愛いものである。
「これって探してる魔獣のものじゃないのかな?」
「ああ、先ほどミルバが言っていた眷属かもしれない」
魔獣の中には眷属と呼ばれる存在を使役する個体がいる。
その眷属は大抵が魔獣と似た性質を持っているらしい。
それを聞いた伊織は大きいナメクジがわらわらと這っている様子を想像してゾワッとした。巨大なものが一匹だけならまだいいが、集団で群れている様子はあまり見たくない。
そんなことを考えていた時だった。
「!?」
ばきばきと木の倒れる音が奥から聞こえる。
まだ倒れていない木々の軋む音がまるで悲鳴のようだ。なにか巨大なものが緩慢に動いていることが空気から伝わってくる。
伊織が静夏を見上げると、静夏は視線を返して頷くなり走り始めた。
向かう先には器用に木から木へと跳び移る女性の姿があった。
その姿を視界に捉えたと同時に、伊織は女性の向こうに見上げようとすると喉仏を晒してしまうほど巨大なナメクジがいることに気がつく。
ナメクジは体表に幾何学模様を浮かび上がらせ、六つある山羊のような目を巧みに使って女性の位置を捉えていた。
追われる女性に向かってリータが叫ぶ。
「お姉ちゃん!」
「あれが……!」
女性――ミュゲイラは明るい橙色の髪をポニーテールにしており、一見すると薄茶色の髪を持つリータとは似ていなかったが、瞳は同じ赤い色をしていた。
露出の多い引き締まった体だ。
腹筋は見てすぐにそれとわかるほど割れている。
静夏が逆三角形の超人体型なら、ミュゲイラはくびれのある柔らかなシルエットを保ちながら筋肉をつけた女性ボディビルダーのようだった。
そんな彼女の長い耳には小さな花の意匠が連なったピアスが見える。
姉を発見したリータは駆け寄る――ことはせず、代わりに両手の間から現れた緑色の炎を引き伸ばし、素早く弓矢の形に成形すると獲物を狙うように構えた。
目は完全に狩人の目だ。
「お姉ちゃん、なにを勝手なことばっかりしてるの!!」
「っちょ、リータさ……」
伊織の目の前でリータは矢を放つ。
それはナメクジではなくミュゲイラに向かって豪速で突き進み、彼女の鼻先を掠めて木の幹に突き刺さるなり瞬時にボウッと燃え上がって消える。
残された黒い穴を凝視したミュゲイラは矢の放たれた方角を視線で追い――ぱっと歯を見せて笑った。
「おお、リータ!」
「嬉しそうに笑わないでよ! どれだけみんなに迷惑かけたと思ってるの!?」
「みんなビビりすぎなんだよ、要は眷属に邪魔させなけりゃいいわけじゃん! ほらこれ、先に山の洞窟で採取してきた火の魔石! こいつで眷属を蹴散らせば……」
「山火事になったら大変でしょ!」
懐から取り出した赤い石を自慢げに見せびらかしていたミュゲイラは「あ」と両目と口を開いた。リータの指摘を聞いてやっと、である。
伊織は冷や汗を流す。
悪い人ではないようだが、たしかにリータの言う通り脳筋で短絡的らしい。
「でも大丈夫だって! あたしが逃げ回ったから奴の体力も削れただろうし!」
「よく見てよ、余計に怒ってるしバテてない! とにかく降りてきて!」
ナメクジの魔獣が狙っているのはミュゲイラだ。
このまま逃げ回っているうちにミュゲイラが不利な場所へ入ってしまう可能性もある。回避や逃亡が自由にできない場所に追い込まれれば一巻の終わりだろう。
しかしミュゲイラに危機感はないようだった。
「そこまで心配すること……な、い……、?」
ミュゲイラが両目を大きく見開いたのはその時だ。
そのまま意思に反して視線が釘付けになった様子でミュゲイラは静止した。
このままじゃナメクジに追いつかれるのでは、と伊織が焦った時には彼女は木の幹を蹴っており、リータ、そして静夏の目の前にズダンッと着地する。
「えッ、えええぇっええええ!! リ、リータ!! なん、なんだよこのスゲー筋肉の人っ……マジすげー! やべー! 凄いもん見た!!」
ミュゲイラが語彙力をなくして慌てふためきながら見ているのは静夏だ。
これはもしや母さんの説得が想像以上に効果的なのではないか、と伊織は固唾を呑んで見守る。
「こちらは聖女マッシヴ様よ、噂くらいは聞いたことがあるでしょ?」
落ち着かせる意図を含めながらリータは姉に静夏の紹介をした。
しかしミュゲイラは逆に興奮、もとい大興奮した様子で両手を組む。
「マッ……! 本当に!? さすが筋肉の神に遣わされし聖女、大胸筋なんて芸術にかける熱い血潮をそのまま表現したかのような繊細さと力強さを持ってるし、それらが相反するはずなのに見事に調和してる様子には至高の母性を感じるぞ!」
「なによその語彙力の上下幅!」
ツッコミを入れながらリータは強引にミュゲイラの手を引いた。
「とにかく無茶な真似はやめて。マッシヴ様はお姉ちゃんの尻拭いをするためにわざわざこんなところまで来てくれたのよ」
「あたしの?」
「そう! 勝手に禁足地に入るわ魔獣を怒らせるわ一体どういうつもりなの!? お姉ちゃんのせいで里のみんながどれだけ不安になったか――」
伊織は慌てて「まあまあ」と割って入る。
姉妹と里の住民の問題なら口出しするのは差し出がましいことかもしれないが、ミュゲイラにもなにか理由がありそうだ。
リータだって一方的に責めれば後から後悔してしまうかもしれない。
そんな一心でふたりを宥めながら伊織はミュゲイラを見上げた。
「ミュゲイラさん、魔獣に挑んだ理由は力試しだけじゃないですよね?」
「え、あ……」
「ならちゃんと説明するべきだと思うんです。でも、まずは……」
伊織は静夏を見上げる。
腕組みを解いて静夏はこくりと頷いた。
静夏の視線の先にいるのはナメクジの魔獣だ。
突如予想外の方向へと跳んだミュゲイラを見失ったのか、ジッとその場に佇んでいる――と、そう思った瞬間にイルカの声のような高い音を発して眷属のナメクジたちを呼び寄せた。
周囲の草花を食んで丸々と太った眷属たちである。
その中の一部が伊織を見つけて先ほどと同じ音を発しながら位置を知らせた。
「まずは、魔獣を片付けてからだ」
伊織の言葉を継いだ静夏が地を蹴ってナメクジの魔獣の前へと躍り出る。
すべての眼球でそれを捉えた魔獣は『ミュゲイラではない』と気がついた様子だが、生き物ならすべて敵だと判断したのかすぐに攻撃しようと上半身を反らせた。
頭上から暗く大きな影が落ちる。
静夏は怖気づいた様子ひとつ見せずに五指に力を込めて踏み込んだ。
「ッふん!」
風が巻き起こり、魔獣の反った腹に静夏の拳がめり込む。
しかし――めり込んだと思った拳はぬるりと滑って横へと逸れてしまった。
「む……!」
「ま、マッシヴの姉御! そいつの粘液めちゃくちゃ滑って威力を削ぐんです! だからまずは固そうな眼球を狙って――」
ミュゲイラが慌てて声をかける。
きっと本人も事前に知っていたものの、予想以上に苦戦したのだろう。
だが攻撃は逸れたが拳の触れていた部分からナメクジの腹に波紋が広がり、衝撃で体が横に吹き飛ばされた。擬音にするならグビュンッである。
ぽかんとしているミュゲイラの前で静夏は構え直し、魔獣の消えた方角を見た。
そこにはバキバキに折れた木々の間で蠢く魔獣の姿があった。
「……! すまない、皆」
「え……えっ!? そんなことありません、あの、むしろここまでダメージが通るなんて思ってなくて驚いたというかっ……」
「そ、そうそう! マジかよ、マッシヴ様ってこんなに――」
「木を何本か駄目にしてしまった」
「そっち!?」
「そっちなのか!?」
リータとミュゲイラの声が完全に重なる。
眉を八の字にして申し訳なさそうにしながら静夏はミュゲイラに声をかけた。
「これ以上山に被害は出したくない。ミュゲイラ、手伝ってくれないか」
木を必要最低限しか伐らない里の様子、そして山火事を心配する心、それらを見るとリータたちフォレストエルフは山や森を大切にしていると伝わってくる。
静夏はそれを鑑みて被害を抑えたいと考えているのだ。
ミュゲイラは戸惑った様子で静夏を見遣る。
自分の判断で動くことは多々あれど、こうして誰かに協力を求められたのは初めての経験のようだった。伊織はこの世界で初めてヨルシャミから助けを求められた時のことを思い出してミュゲイラに親近感を抱く。
「手伝い、っつっても一体どうやって……」
「挟み撃ちで同時に攻撃してほしい。力の調整はこちらでやってみよう」
伊織、リータ、と呼びかけながら静夏はふたりを見た。
「眷属を蹴散らし、奴らが我々の邪魔をしないようにしてもらえないか」
「……! も、もちろんです」
「やれるだけやってみる!」
伊織は荷物から木刀を取り出す。
ベタ村から持ってきた武器である。
護身目的なら刃物のほうがいいのだろう。
しかし心得のない者が持ち歩くとなると逆に危険だ。まずは専門的な使い方を覚える必要がなく扱いやすいものを、ということで木刀に落ち着いたのである。
正直言って心許ないが、ここで足手まといになるのは嫌だ。
嫌なら自分なりに頑張ってみせろと伊織は自分自身に言い聞かせる。
「次こそ上手くやってみせよう」
静夏はゴツンッと拳と拳を合わせ、強い眼差しで魔獣を睨みながら言い放った。





