16.竜姫、病にかかる
そろそろ春に近づこうかという時期である。この時期は、まるで極寒の冬を思い出すかのように一気に気温が下がり、吹雪くこともある。このことからこの時期は『冬神の忘れ物』と呼ばれていた。
特に冬の終わり、春の始まりを予告する強風と重なるとそれこそ真冬よりも冷たい日を過ごすことになる。こうなると『狼の冬』とも表現される。凍結、壊死した体がまるで狼に食い千切られたかのように酷い有様となるからだ。人間の間では冬で飢えた人狼の王がこのような天候をもたらすとも噂されていた。
『酷い話です。私は人狼の王を父に持ちますし、父は天候くらい変えるだけの魔力を持ちますが冬のせいで飢えたことはありません』
ハティはその噂を聞いて、ぷんぷんと毛を逆立てながら怒っていたのをヴェルは覚えている。それをレギスがからかって、ハティに噛みつかれたのもいい思い出だ。
事件が起きたのは、そんなある寒い日のことだった。
「あうぅ~」
「どうしたのかしら」
フレイアはエイルを前にして困惑していた。エイルも離乳食を食べる時期である。麦と山羊の乳を煮込んだ粥や果物をフレイアは与えていた。普段はエイルは椀一杯の粥を食べるほど食いしん坊であった。
だが、どうしたわけか、この日は匙2,3杯しか口につけなかったのだ。
「熱は・・・」
フレイアはエイルの額に手をあてるも、平熱である。
「・・・というわけなんです」
フレイアはそれをすぐさまヴェルに報告した。もちろん、フレイアの今の身分はエイルの世話によって得られているものであるのだから、エイルの異常はすぐにヴェルたちと共有する。それに加えて、フレイアは一年過ごすうちにこのエイルという赤子が自分の息子であるグレンと同じぐらい可愛く思えたのだ。
「人間の赤子であれば、一時的に食べることに飽きる時期もあると聞いたがどう思う。オルゴ―?」
オルゴ―に話を振るヴェルであるが、実際、ヴェルもある程度赤子の健康については本で勉強済みである。
「食欲もないが、熱もないとなればしばし様子をみるといいと思うがのぉ。
と言っても、赤子は常に気をつけねばなるまい。
しばし、寝ずの番をつけて様子を見るのがええじゃろう。
あとはミネヴァに赤子の薬を調達させるとかかのう」
「では、ミネヴァにはハティを送ろう。
カミラとスコルにはフレイアと一緒にエイルの番をしてもらう」
「あとは、念のためじゃ、グレンはエイルと離して寝るように。
まあ、ワシの術があるから、精々ベッド二つ分くらい離しておけばええじゃろう」
―――
事態が急変したのは、それから三日後であった。
エイルは相変わらず食が進まなかった。それでも発熱はなくよく寝ていてたため、一同は心配ながらも見守るだけだった。
その夜のことである。
「フレイアさ~ん、どうですか~?」
静かにエイルの部屋に入ってきたのは、ミネヴァであった。ハティの知らせを受け、ちょうどこの日の昼にヴェルガルドについていたのだ。そうは言っても、今年は『狼の冬』であるため、着いたときは毛皮のコートが針のように凍り付き、彼女自身も衰弱していた。そのため今の今までずっと休んでいたのだ。
「あぁ、ミネヴァさん、エイル様は今はすっかり休んでいますよ」
エイル、そしてフレイアの小屋は未だにヴェルのテラスにあった。だが、その大きさや強度で言えば一年前の比にならない。まるで雪山の丸太小屋が城の中にそのまま移設されたかのような不思議な光景である。その内部はオルゴ―やカミラがかけた魔法により不思議と暖かった。
その小屋は10人ほど入っても余裕があるくらいであるが、今はフレイア一人が佇んでいた。ちょうどスコルとカミラの交代時間だったのだ。カミラはこの時期は活力が衰えるので来るまではしばらくかかるだろう。
入り口にかけられたカンテラからわずかに届く光に照らされたフレイアには疲れの色が見えた。
「フレイアさん、あんまり寝ていらっしゃらないです?」
「そんなこと・・・いえ、そうかもしれませんね。
この子のことを思うと、眠れなくて」
そう言って、フレイアは暗闇の中、眠っているエイルに視線を注ぐ。
「きっとご飯を食べられないのには訳があるはずなんですけれど、この子にはまだそれを表現できないのが何よりも悔しいのです」
「フレイアさんはお優しいのですね」
忍び足で歩いて来たミネヴァはフレイアの近くに椅子を置いて座る。
「でも、わたしもこの子のおかげでずいぶんと儲けさせ・・・ヴェル様に目をかけていただいておりますので。
フレイアさんの気持ちは少しくらいはわかるつもりです」
ミネヴァはこの一年間、エイルのためにいろいろな物品をヴェルへ納めてきた。そのおかげがヴェルに支払わなければならない金もそれなりに免除してもらい、その懐はかなり温かかった。
「早く良くなっていただきたいものです」
「そう、そうね」
とフレイアがエイルの白い髪を掻き上げたときである。
「こふっ・・・」
エイルが小さな咳をした。それは赤子のげっぷのような微かなものだった。だが、
「こふっ・・・こぶ・・・ごっぷ・・・」
それは連続した咳へと変わり、ついには湿り気を含んできた。
「・・・エイル様・・・っ!?」
「いけないです、これぁ吐き戻しです!」
ミネヴァは素早く動いた。エイルの下あごを開かせ、胴体を持ち上げた。気管に吐しゃ物を詰まらせないための処置である。
「ごぷぅ・・・□□□□□□ッ・・・!」
音にならない湿った水音ともに、エイルが嘔吐した。殆ど胃にものが入ってないにしては多い量であった。
「・・・これはっ・・・!
フレイアさん、グレンは大丈夫ですか!?」
「え、ええ・・・!
オルゴ―さんの魔術で守られているから」
「わかりましたです!
では、治療術と医術に詳しい人・・・オルゴ―さんを呼んできてください!」
「は、はい・・・!」
フレイアが飛び出すと、テラスの小屋の異常に気が付いたのかヴェルが飛び出したフレイアにいくつか言葉をかけていたが、殆ど言葉にならない声で返したフレイアはそのまま去っていってしまった。
「ミネヴァ、何があった」
壁を震わせるようなヴェルの声が小屋に響く。ミネヴァはエイルの吐しゃ物を彼女の顔からふき取りながら、震える声で返した。
「エイル様が、吐き戻したです」
「・・・なに・・・!?」
その声はミネヴァもはっとするほど、深く複雑なものであった。
「まだ、吐き戻しただけなので、落ち着いてください、です」
ミネヴァは自分の声が震えていないか、焦って訛りがでていないか、確認しながら言葉を紡ぐ。
きっと今触れているエイルが熱く感じるのは自分の焦燥で火照った体のせいだ。痙攣しているように見えるのは自分が立ち眩みをおこしているせいだ。発疹は食べていないせいで体の栄養バランスが崩れたせいだ。
ミネヴァは最悪の過程を都合のいいほうへ認識しようと努力した。
だが、今片づけている吐しゃ物の赤いもの・・・エイルの吐き出したものに混じった赤い赤い血の固まりだけは自分自身を誤魔化すことができなかった。
「吐き戻しただけ、です」
ミネヴァは震える声でもう一度返した。暖かいはずの部屋で彼女はその身をぶるぶると震わせていた。




