2、森の薬師
ルシアンがエレノアと出会ったのは、今から数年前のことだった。
ルシアンは森の奥にある小さな家で、一人暮らしをしていた。
家の周囲には野菜畑と薬草畑が広がり、裏庭には大きな樫の木が立っていた。樹齢は数百年にもなるという古木で、太い枝を広げ、家を守るように佇んでいる。
ルシアンは毎朝、夜明けとともに起きた。そして、裏の井戸で水を汲み、顔と体を洗う。天気の様子を見て薬草に水をやり、葉の状態を確かめ、必要なものを摘み取る。乾燥させた薬草を調合し、薬を作り、町の市場の片隅で売る。売り上げを得たら、週に一度は肉と乳製品を買い、家路へとつく。それが、毎日の暮らしだった。
ルシアンには両親がいなかった。幼い頃に両親を亡くしたルシアンは、祖父母に育てられた。しかし、その祖父母も彼が成人する頃には相次いで亡くなり、以来、ずっと一人で暮らしていた。以来、ルシアンはずっと一人だった。寂しくないと言えば嘘になる。けれど、彼には受け継いだ仕事があった。
母も、祖父母も、ドルイドだった。森の草木を知り、薬の調合を学び、自然の力と共に生きる者たち。ルシアンも幼い頃から、その教えを受けて育った。
薬草の見分け方。傷を癒やす軟膏や、熱を下げる薬湯の作り方。毒草の扱い方。そして、文字では残されず、口伝で受け継がれてきた古代語。かつて栄え、今は滅びた超文明大国の知識や、ドルイドだけに伝えられてきた秘術の数々。
祖父母は、彼に何度も言い聞かせた。
「自分の知識を、誰かを傷つけるために使ってはいけないよ」
その教えを、ルシアンは守っていた。それに、彼が作る薬は、非常によく効いた。町の医師たちが匙を投げた病人でさえ、彼の薬で回復することがあった。祖父母が長年改良してきた薬を、ルシアンはさらに研究し、自分の虚弱な身体を使って効果を確かめてきた。だからこそ、祖父母が作り、売っていた薬より、彼の代になってから、売り上げは飛躍的に上がった。ただし、誰もが彼を歓迎していたわけではない。特に、薬売りの商会から。商会の薬より安く、しかも効果が高い薬を売る彼は、薬の商人たちにとって目障りな存在だった。そのため、彼の露店は、市場の中心街から外れた末端の場所に追いやられていた。それでも、しっかりと客は来ていた。ルシアンは、それでよかった。固定客がいる。それだけで、食つないでいくことは十分可能だったし、僅かながらも、毎月貯金もできていた。
時代は、魔女狩りが隆盛を極めていた。神の教えに反すると疑われた者。異端の知識を持つと噂された者。隣人から恨みを買った者。そんな人々が密告により、次々と異端審問官に捕らえられ、裁かれ、火あぶりにされたり水に沈められたりしていた。
ドルイドの知識など、疑いを招くには十分すぎた。だからルシアンは、目立たぬように暮らしていた。発言力の強い古参の異端審問官の中に、病の家族の為にと、彼の薬を定期的に買い求める者がいたので、ルシアンはなんとか逮捕されずに済んでいた。
彼の家には、祖先代々受け継がれてきた、背表紙で殴ったら人が死ぬほどに分厚く重い、貴重なグリモアが一冊あった。いくら異端審問官が見逃してくれているとはいえ、家の中に置いておくのは憚られた。古い書物には、薬草の知識だけではなく、今では禁忌とされる儀式や、異端と見なされかねない古代の呪文も記されていたからだ。彼はグリモアを、僅かな全財産と共に裏庭の樫の木の下に、箱に入れてから埋めて隠した。亡くなった家族から受け継いだ、何よりも大切なものだった。
ルシアンは自分の暮らしに満足していた。極力誰にも迷惑をかけず、森の恵みを受け、作った薬で人を助ける。いつか、気の合う女性と出会い、小さな家庭を築けたらいい。そんな夢を、心の片隅に抱いていた。その夢が、まさか一人の少女との出会いによって現実になるとは、思いもしなかった。
※
その夜、眠っていたルシアンを叩き起こしたのは、一人の若い娘だった。『薬師さん、助けて!!お願い、どうか助けてください!!』という叫び声と、壊れんばかりに叩かれる扉の音に、ルシアンは飛び起きた。
「な、何事ですか…?」
「お願いです!!母を…助けて…くださいっ…!!」
ランプ一つを掲げ、夜道をかけてきたであろう少女は、息の上がった声でルシアンに向かい、玄関先で深々と頭を下げた。金色の髪を後ろでハーフアップにまとめ、質素な服を着ている。身なりは整っていたが、手には農作業でできた小さな傷がいくつもあった。
ルシアンは彼女を知っていた。なにせ、町でも美人だと評判の娘だった。豪農の娘だとも聞いていた。それなのに、彼女は召使いに頼ることもなく、自分の足で森までやってきたらしい。彼女は息を整え、驚いているルシアンに向かい話し始めた。
「母が、一週間前から熱を出していて、どんどんひどい状態になって…。今は高熱を出しているんです。町の医師にも診てもらいましたが、よくならなくて……原因不明だから、父も私も、医師から覚悟をしてくださいって言われてしまって……」
彼女の青い瞳には、強い心配と、母を失うかもしれない恐怖の色が浮かんでいた。
「あなたが作る薬なら、母を助けられるかもしれないと聞きました!!」
ルシアンは、彼女を見つめた。
「……医者が匙を投げたんですね?」
「はい……」
彼女は今度こそ泣きそうな表情になった。
「ならば、分かりました。僕が直接伺います」
ルシアンは寝巻の上に外套を着こむと、いつもの薬箱を背中に背負った。そして、二人で家を出て、扉に鍵をかけた。ランプで前を照らしながら小走りする彼女の後を追う。
「案内します。有難うございます、薬師様!!」
「…まずは、症状を教えてください」
ルシアンは彼女の後を追いながら、矢継ぎ早に質問した。
「咳や痛みはありそうでしたか?水分や食事はとれていますか?意識はありますか?」
「ええと…」
ルシアンの質問に、娘は次々に答えていった。
「あの……母は、治りますか?」
「何とも言えません。でも、僕にできる限りのことはします」
森を抜けて屋敷のある地区へと着くまで、一時間ほどかかった。
「パパ!!薬師様が来てくださったわよ!!開けて!!」
「え!?まさか我が家に来てくださったのか!?」
屋敷の扉は開けられた。ルシアンは丁重に娘の母親のもとに案内された。
脈を取り、意識の状態と呼吸を確かめた。母親は、高熱に浮かされ、口を開けて苦しそうに息をしていた。
ルシアンは父親に、いつから水分を取れていないのか、熱以外の痛みや発疹はないのかを聞いた。その後、母親を見守る娘と、父親の視線を受けながら、ルシアンは仕事に取り掛かった。薬箱の引き出しから薬草を数種類取り出し、手早く調合すると、小さな麻袋に入れて「これを煎じて、少しずつ飲ませてください。ただし、お母様の意識がはっきりしていて、自分で飲み込める場合に限ります。意識が朦朧としているときや、飲み込めないときは、決して無理に飲ませないでください。今夜の分と、明日の昼までの分を用意しました。それ以降の分は、明日の昼過ぎに、もう一度様子を見に来ますので、その時にお渡しします。それから、額に濡れタオルを当ててください。首の両側にも太い血管が通っています。そこも冷やしてあげてください。お母様が少しでも楽になるように。寒がるようなら外してください。それから、塩と砂糖を混ぜた病人に飲ませる水の作り方を説明しますので、こまめに飲ませてあげてください。何か書くものをください」と、告げ、娘に渡した。
その言葉を聞いた途端、彼女の顔に安堵が広がった。瞳は潤んでいた。
「ありがとうございます…!!」
彼女は、まるで大切な贈り物を受け取ったかのように、薬草の入った布袋を手にして、何度も頭を下げた。
その笑顔を見たとき、ルシアンは不思議な気持ちになった。この娘は、自分がどんな人間なのか、ほとんど知らないはずだ。森に一人で暮らす薬師。両親も祖父母も亡くし、親しい友人もいない、少々変わり者の自分。それでも彼女は、何の偏見もなく彼に助けを求めてきた。自分の知識を恐れることも、怪しむこともなく。ただ、母親を救いたいという一心で。
いやいや、分かるとも。なにせ町医者にも見放されたなら、こんな森の中で隠遁する薬師を頼りたくもなるよな、と、そう結論を出した。しかし、召使もつれずに、まさか若い娘がこんな深夜に走って、たった一人で来るとは。その勇気は凄いと思った。
「……お名前を伺っても?」
ルシアンが尋ねると、彼女は微笑んだ。
「エレノアです。エレノア・アシュフォード」
「僕はルシアンです」
「ルシアンさん。このご恩は忘れません」
「それを言うのはまだ早いですよ」
ルシアンは、召使が急いで持ってきた羊皮紙と羽ペンで、脱水を防ぐための飲み水の作り方を書いた。エレノアは、ルシアンに向かって右手を差し出した。
「これは診察代です」
彼女の手には、大金貨が二枚握られていた。
「申し訳ありません。大金貨ではお釣りをお返しできません。診察代は銀貨でいただければ……」
「いえ、夜分にわざわざ来ていただいたのですから。どうかお受け取り下さい。それでは、母を看病しますので!パパ!桶に水とタオルを!!それから、このお水を作って!!」
「あ、ああ…!!」
父親は側にいた召使に指示を出した。
ルシアンは娘が差し出した大金貨を「……では、大金ですから、大事に使わせてもらいます。ありがとうございます」と、恐縮しながら受け取った。彼女の手は、小さく、少し冷たかった。
「薬師様も、こんな時間に申し訳ありません。お疲れでしょう。お茶を用意させますから、少し休んでください」
「…いえ、僕は眠らないと調子を崩すので、せっかくですがお暇します。では、僕はこれで。…お母様が回復するよう、お祈りしています」
ルシアンは家へと帰った。




