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深層、死の王に説教する

第4章 深層、死の王に説教する


第1節 地下深くで囁かれる甘美な死への誘いと、それをただの営業妨害と断じる元社畜の不機嫌な晩酌事情

【相田視点】

 相田と麗華の二人が足を踏み入れたのは、上級冒険者すら立ち入りを躊躇うAランクダンジョン「奈落の摩天楼」の最深部、地下百階層だった。

 そこは、現代日本の廃墟をそのまま切り取ったような不気味な空間だった。崩れ落ちたビル群、錆びついた鉄骨、そして地面を這うように漂う灰色の霧。

 その最奥、朽ちたビルの屋上に設えられた玉座に、一体の魔物が君臨していた。

 ボロボロのローブを纏い、骸骨の顔を持つ「死の王(リッチ)」だ。

 リッチが手にした杖の先端からは、どす黒い波紋が絶えず広がり、ダンジョン全体へと浸食していた。

『……疲れ果てた者たちよ。眠りなさい。生は苦しみ。痛みもない、永遠の安らぎへ……』

 脳に直接響くその声は、強力な精神汚染だった。

「生」への執着を削ぎ落とし、ただ安らかな「死」を受け入れさせる、甘美で恐ろしい呪い。

 強さを求めて常に気を張っていた麗華も、その誘惑に抗いきれなかった。

「ああ……そうですね。もう、頑張らなくていいのなら……眠り、たい……」

 彼女はうわ言のように呟き、ハルバードを取り落として膝をつきかける。

 相田自身も、その呪いの波紋を浴びて一瞬、思考がネガティブに流されそうになっていた。

(確かに、死んじゃえばもう働かなくていいんだよな。毎朝起きる必要もないし、家賃の心配もしなくていい。それって……すごく楽かもな……)

 労働の辛さから逃避し、永遠の安息に身を委ねようとしたその時だった。

 相田の胸の中で、毛玉が勢いよく脈打った。

『ダメだぞ、相田! そんなふにゃふにゃした諦めの感情、僕が全部食べてあげるぞ!』

 毛玉はバクンッ! と大口を開け、相田を包み込もうとしていた「諦めと逃避の感情」を極上のエサとして一瞬で食らい尽くした。

『よく考えるんだぞ! 死んでしまったら、安酒の喉越しも、美味しいカニの味も、一生味わえなくなっちゃうんだぞ!』

 毛玉によって、相田のネガティブな逃避感情は「生存と晩酌への強烈な欲求」――すなわち、ポジティブな怒りへと一気に変換された。

「……はっ!?」

 我に返った相田は、コンクリートブロックに腰掛け、ちょうどワンカップ大関の蓋を開けようとしていた手をピタリと止めた。

 周囲に充満するリッチの「諦めの空気」。そのせいで、せっかくの酒の味が湿気て不味くなることに気がついたのだ。

「……おい」

 相田は猛烈に不機嫌になった。

 彼にとって、一日の終わりの至福の時間を邪魔されることほど腹立たしいことはない。この骸骨がやっている精神干渉は、相田にとっては単なる「悪質な営業妨害」でしかなかった。

 相田はゆっくりと立ち上がり、玉座のリッチをビシッと指差した。

「おい、そこの骨。俺の晩酌の空気が悪くなるだろうが。その湿気た放送を今すぐ止めろ」

 それはまるで、居酒屋で管を巻く酔っ払いが、店員にクレームを入れるようなテンションだった。


第2節 死こそが救済と説く骸骨の王に対し、生きて苦しむことこそが嗜みだと主張する相田の平行線な問答


 リッチの虚ろな眼窩に、青白い炎が怒りのように揺らめいた。

『……ほう。我が安息の波動に抗うか。なんと愚かな人間よ』

 リッチが杖を振り上げると、空間が歪み、腐った騎士やスケルトンなど、無数のアンデッドが召喚され、相田たちを取り囲んだ。

『生は老いと病の連続だ。苦痛に満ちた肉体の檻から解き放たれ、ここで無に帰すことこそが慈悲ではないか?』

 もっともらしい理屈を並べ立てるリッチ。限界社畜時代の相田なら、あるいはその言葉に深く頷いていたかもしれない。

 だが、今の相田は違う。胸に潜む毛玉のおかげで、「苦痛を極上のスパイスにする術」をすっかり身につけているのだ。

「慈悲だと? 笑わせるな」

 相田は鼻で笑った。

 背後から襲いかかってきたアンデッド騎士の剣を、振り向きもせずに素手でガシッと受け止める。毛玉のエネルギーで強化された相田の皮膚は、鋼刃すら通さない。

「痛いのも、辛いのも、理不尽なのも、全部『生きてる証拠』だろ」

 バキィッ!

 相田は騎士の剣をあっさりとへし折り、そのまま無造作な裏拳で兜ごとアンデッドを粉砕した。

「残業代が出ない? 上司がクソ? そんな理不尽な現実の中で、いかにして安酒を美味く飲むか工夫する。それこそが人生の醍醐味だろうが!」

 相田の口から飛び出したのは、ブラック企業で鍛え上げられた泥臭い社畜精神だった。

「死んで楽になるなんて、サビ残から逃げるような甘えだ。そんなやつに、美味い酒を飲む資格はねえ!」

『理解不能だ……! なぜ自ら、そのような茨の道を歩もうとする?』

「茨じゃない。これは全部ツマミだ」

 相田はカラカラと笑い飛ばした。そして、玉座に座ったまま動こうとしないリッチを、忌々しげに睨みつける。

「だいたいお前、さっきから座りっぱなしで部下にばかり働かせてるな。そういう、仕事をサボって部下と一緒に楽に(死に)なろうとする奴は、悪い管理職の典型だ」


【麗華視点】

 朦朧とする意識の中で、麗華は師匠である相田の言葉を聞いていた。

「死んで楽になるなんて甘え……仕事をサボって楽に……」

 ハッと目が覚める思いだった。

 そうだ。自分は強くなるという使命を途中で投げ出し、この骸骨の甘言に乗って「職務放棄」しようとしていたのだ。

「ああっ……死への逃避は、職務放棄と同じなのですね、師匠!」

 麗華は激しく勘違いしながらも、感動で打ち震えた。

 どんな過酷な状況にあっても、生きて現実に立ち向かう。それこそが、師匠の説く『味わう強さ』の真髄。

 麗華は慌てて懐から手帳を取り出し、フラフラしながらも必死にそのありがたい教えをメモに書き留めた。


【相田視点】

「さあ、業務改善命令だ。そのふざけた根性を、俺が叩き直してやる」

 相田は拳を構え、玉座のリッチへとズンズンと歩み寄っていった。


第3節 光り輝く拳による物理的な説教、それは逃避を許さぬブラック上司よりも厳しい現実への引き戻し


『おのれ……愚か者が! 死の冷たさに抱かれよ!』

 激昂したリッチが絶叫し、空間を凍らせるほどの絶対零度の冷気を纏った氷の槍を、無数に出現させた。

 それが一斉に相田へと降り注ぐ。

「死んで楽になるのは、退職(寿命)してから言え! 俺たちはまだ現役なんだよ!」

 相田は叫びながら、飛来する氷の槍をまるで居酒屋の暖簾をくぐるように無造作に払い除け、真っ直ぐに前進した。

 相田の心にある「理不尽な上司(リッチ)に説教したい」という強烈な怒りを、毛玉が瞬時に変換する。相田の右拳が、眩いほどの金色の光を放つ物理的な「質量」を持った。

 ドォォォォンッ!!

 相田の拳が、リッチの周囲に張られていた概念的な死の障壁を、ただのガラス窓のようにあっさりと粉砕した。

「極楽ってのはな、死んだ後に行く場所じゃない! 今ここ、この泥沼のような現実の中に、自分で作るもんだ!」

 相田はリッチの胸倉(ボロボロのローブ)をガシッと掴み、強引に引き寄せた。

「歯を食いしばって生きろ! そして美味いものを食え!」

 相田の強烈な右ストレートが、骸骨の顔面にクリーンヒットした。

 メキィッ!

 アンデッドであるリッチは、本来痛みなど感じないはずだった。だが、相田の光り輝く拳からは、「生きて酒を飲む喜び」という強烈な「生の実感」の情報が強制的に注入されていた。

 殴られるたびに、リッチの脳内(眼窩の奥)に、生前の記憶が鮮烈にフラッシュバックする。

 朝早く起きて働く苦労、怒られた時の悲しみ、そして……仕事終わりに飲んだ、あの冷たいビールの圧倒的な美味さ。

『や、やめろ……! 生の苦しみを……思い出させないでくれ……!』

「思い出せ! それが生きてるってことだ!」

 懇願するリッチの声を完全に無視し、相田は左フック、ボディブロー、右アッパーと、容赦のない連打を浴びせ続けた。

 もしこの光景を誰かが見ていれば、それはまさに「理不尽なブラック上司にブチギレて、鬱憤を晴らすかのように鉄拳制裁を下すサラリーマン」の姿そのものであり、言い知れぬカタルシスを感じたことだろう。


【麗華視点】

「ああ……なんて慈悲深い……!」

 だが、弟子の麗華の目には全く違って見えていた。

 圧倒的な力を持つ死の王に対し、師匠はただ滅ぼすのではなく、生身の拳で触れ合い、命の尊さ、生きることの素晴らしさを魂に直接刻み込んでいるのだ。

 死者に対してすら教えを説くその姿は、まさに慈悲深い『生き仏』。

 麗華は両手を胸の前で組み、相田の背中に向かってさらに深い崇拝の念を抱いていた。


第4節 輪廻の呪縛を断ち切る毛玉の捕食、そして強制的に成仏させられた死の王の最期

【相田視点】

 相田のタコ殴りを受け、ボロボロになったリッチは、最後の力を振り絞った。

『おのれぇ……ならば、貴様も道連れだ!』

 リッチの体が崩壊し、どす黒い霧となって相田の全身にまとわりついた。

 それは「永遠に続く円環の呪い」。生まれ変わり、また苦しみ続けるという、終わりのない徒労感を対象の魂に直接植え付ける最悪の呪術だった。

 相田の脳内に、「永遠に終わらない月曜日」「延々と続くエクセルへのデータ入力」という労働のイメージが強制的に送り込まれる。

「うおっ……これは流石にしんどい……吐き気が……」

 並の人間なら一瞬で発狂する精神攻撃に、相田も思わず頭を抱えてしゃがみ込みそうになった。

 だがその時、相田の胸から灰色の毛玉が勢いよく飛び出した(相田以外の誰にも見えてはいないが、相田にはその意志がはっきりと感じられた)。

『苦しみは、澱ませずに流して食らうんだぞ!』

 毛玉は巨大な口を開けたような仕草で、相田にまとわりつく黒い霧(最大級のストレス)を一気に吸い込み始めた。

 ズズズズズッ!!

 リッチが放った最強の呪いは、瞬く間に毛玉の中へと吸い込まれていく。

『ぷはーっ。とってもコクがあって美味いぞ。熟成チーズみたいな味わいだぞ』

 毛玉は満足げにゲップをして、再び相田の胸ポケットへと戻っていった。

 自らの最大の呪いを、文字通り「食べられて」しまったリッチの意識が、霧の中で震えた。

『バ、バカな……我が呪いが、喰われた……?』

 完全に戦意を喪失し、絶望するリッチ。

 霧が晴れた空間で、相田はスッと右手をかざした。

「だから言っただろ。お前はただのツマミだって」

 相田の手が、霧の中心にあるリッチの核――黒く濁った魔石へと優しく触れた。

「お疲れ。もう十分だろ。仕事は終わりだ。定時に帰れ」

 それは、かつての相田自身が、誰かに一番言ってほしかった言葉だった。

 相田が指をパチンと弾く。

 その瞬間、リッチを構成していた負のエネルギーが光の粒子となって分解され始めた。

『……ああ。私はただ……帰りたかったのか……』

 リッチの眼窩に浮かんでいた炎が、最後にふっと安らかな形に揺らぎ、そのままスゥッと虚空に溶けて消えた。

 浄化ではない。強制的な退勤(成仏)だった。

 ダンジョンの最深部に、本来の静寂が戻ってきた。

 都市を救うという大偉業を成し遂げたというのに、相田は「ふぅ」と大きく背伸びをしただけだった。

「空気が良くなったし、飲み直すか」

 相田は何事もなかったかのように瓦礫のコンクリートブロックに座り直し、先程中断したワンカップを手に取った。

「麗華さんも飲む?」

「はい! 喜んでお供いたします、師匠!」

 廃墟のダンジョンに、カチンという乾杯の音が響く。

 最強の社畜と、狂信的な弟子。二人の晩酌は、こうして静かに再開されたのだった。

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