現世、即ち安らぎの地
第5章 現世、即ち安らぎの地
第1節 世界を救った翌日も変わらぬ安アパートの日常、相田悟は英雄ではなくただの酒飲みとして朝を迎える
【相田視点】
Aランクダンジョンの最深部で死の王を成仏させ、都市を呪いから救った翌朝。
世間のネットやニュースでは「謎の光り輝く拳を持つ男」「現代の聖人、ついに世界を救う」といった話題で持ちきりになっていた。
しかし、当の相田悟は六畳一間の安アパートで、チュンチュンと鳴く雀の声と共に、万年床の中でゆっくりと目を覚ました。
「んぁ……頭痛い……」
昨晩、アパートに帰ってから麗華と共に「帰還祝い」と称して安酒を飲みすぎたため、相田は軽い二日酔いの頭痛とダルさに悩まされていた。
加えて、ぼんやりとした頭で現実を思い出す。来月の家賃の更新、通帳の心細い残高、そして自分が無職であるという現状。
(また就活しなきゃいけないのか……履歴書書くの面倒くさいな……そもそも受かるのか……?)
世界を救った英雄らしからぬ、どこにでもある日常のネガティブな感情がフツフツと湧き上がってくる。
だがその時、枕元に鎮座していた灰色の毛玉がポフンと跳ねた。
毛玉は相田の頬にすり寄ると、二日酔いの不快感や将来への不満を、スゥーッと大口で吸い取っていく。
『微かに残る頭痛も、日常の幸せを彩る良いスパイス(ツマミ)なんだぞ。今日もいい一日だぞ』
毛玉の優しげな声と共にネガティブが変換され、相田の体の中に心地よい目覚めの活力が満ちていった。
「そうだな。とりあえず起きて、美味いもんでも食うか」
相田は英雄ぶることもなく、ただの酒飲みとしてマイペースに布団から這い出した。
洗面所に向かい、鏡を見る。そこには、かつての死相がすっかり消え去った、少し顔色の良い無職の青年が映っていた。
「よし、今日は何をツマミにしようか」
前向きな気分で冷蔵庫を開けるが、昨晩のうちに備蓄を全て食い尽くしてしまったため、中身は完全に空っぽだった。
「買い出しだな」
相田はヨレヨレのTシャツとジャージという、最強の社畜(元)のオフスタイルに着替えた。財布とスマホをポケットに突っ込み、玄関のドアを開ける。
「おはようございます、師匠!!」
ドアを開けた瞬間、ビシッとした声が響いた。
完璧なメイクと清楚なワンピース姿でありながら、背中には巨大なハルバードケースを背負った弟子・神宮寺麗華が、直立不動で待機していた。
「……おはようございます、麗華さん。朝からその装備、通報されますよ」
相田は苦笑しながら、平和な一日の始まりを受け入れた。
第2節 スーパーの特売品を巡る静かなる戦い、そこで見つけた日常の些細な幸せこそが至高の贅沢である
相田は、要人警護のように三歩下がって周囲を鋭く警戒する物々しい麗華を連れて、近所のスーパーへとやってきた。
スーパーに足を踏み入れた瞬間、相田の目は真剣な勝負師のものに変わった。
真っ直ぐに向かったのは、賞味期限間近の惣菜や傷んだ野菜が並ぶ「タイムセール」のワゴンだ。こここそが、相田にとっての主戦場である。
「む……このアジの刺身、少し色が悪いか……?」
相田が半額シールの貼られたパックを手に取り吟味していると、肩に乗った毛玉が囁いた。
『腐りかけこそ至高だぞ。腹を壊すかもしれないというスリルを楽しめばいいんだぞ』
「なるほど、生姜をたっぷり乗せればいけるか」
相田が適当な後押しを受けてパックをカゴに入れようとした時、横からスッと手が伸びてきた。
「師匠、こちらをどうぞ! 私のお持ちのカードで精算いたしますので!」
麗華が恭しく差し出してきたのは、五千円は下らない最高級和牛のパックだった。
「いけません、麗華さん」
相田は即座にそれを制した。
「それは脂が多すぎて胃もたれします。それに、限られた予算で苦労して手に入れたこの半額のアジの方が、酒のツマミとしての精神的な栄養価が高いんです」
相田のこの発言は、単なる金欠と小市民的感覚から出たものに過ぎなかった。
【麗華視点】
(なんと……!)
麗華は和牛のパックを持ったまま、雷に打たれたような衝撃を受けた。
(限られた予算で苦労して手に入れるからこそ、価値がある……。これはつまり、物質的な価値や表面上の豊かさに惑わされず、モノの本質を見抜く心眼を持てという『清貧』の教え!)
どこまでも俗世から離れ、精神の充足を第一とする師匠の気高さに、麗華は胸を打たれた。
「勉強になります、師匠!」
麗華は和牛をそっと棚に戻し、懐から手帳を取り出してそのありがたい教えを一言一句メモに書き留めた。
【相田視点】
周囲の主婦たちが怪訝な顔でこちらを見ているが、相田は全く気にせず、予算内で最高のツマミを確保することだけに全力を注いだ。
買い物を終えた二人は、近くの公園のベンチに座った。初夏の心地よい風が吹き抜けていく。
相田はビニール袋から缶ビールを取り出し、プシュッと小気味良い音を立てて開けた。
昼間から飲む、ほんの少しの背徳感。
冷たい液体を喉に流し込むと、五臓六腑にアルコールが染み渡っていく。
「……ふぅ。生きてるって感じがするな」
相田は深い充足感に浸りながら目を細めた。
世界を救うような巨悪を倒すことよりも、「今夜の晩酌のアテをどうするか」と真剣に悩むこと。それこそが、相田にとっては何よりの平和の証であり、至高の贅沢だった。
第3節 生きることは苦痛であり快楽である、膝上の毛玉と共に語られる相田独自の人生哲学
公園のベンチで、相田の膝の上には毛玉が丸くなっていた。ゴロゴロと喉を鳴らすような振動が伝わってくるが、当然、隣に座る麗華には相田が虚空に手を置いているようにしか見えていない。
麗華は自分の缶ビールを一口飲むと、少し真面目な顔で相田に尋ねた。
「師匠は……これから先が、怖くないのですか?」
「これから先?」
「はい。無職の生活のことや……また恐ろしい魔物の脅威が現れるかもしれない未来のことです」
悟りを開いた聖人のような、達観した答えを期待している麗華の瞳。
だが、相田はあっさりと首を振った。
「そりゃ怖いですよ」
「えっ?」
「お金がなくなるのも怖いし、痛いのも嫌です。またあのブラック企業みたいなところに就職しなきゃいけないと考えると、普通に吐き気がしますよ」
相田は、等身大のネガティブな不安を素直に吐露した。
驚いて目を瞬かせる麗華に対し、相田は膝の上の毛玉を優しく撫でながら言葉を続けた。
「でもね。生きるってのは、基本的に思い通りにいかないし、苦しいことの連続です」
『恐怖も不安も、甘いケーキを引き立てる苦いコーヒーみたいな味付けなんだぞ』
相田の脳内で、毛玉が不安を変換して囁く。相田はそれを自分なりに翻訳して口にした。
「その苦味(理不尽)があるからこそ、この一本のビールが死ぬほど美味いんですよ」
相田は手にした缶ビールを軽く揺らした。
「昨日のリッチとの戦い……あの極限のストレスがあったから、今こうしてベンチでダラダラするのが最高に気持ちいいんです」
相田は、しぶとい大人の生き方を説くように微笑んだ。
「苦しみから逃げるんじゃなくて、苦しみを肴にして酒を飲む。それが、私の流儀かな」
【麗華視点】
麗華は息を呑んだ。
彼女はずっと、自分の弱さや苦しみを「悪」とし、それを消し去るために強さを求めてきた。
だが、師匠は違う。
自らの恐怖や不安を包み隠さず認め、全てを受け入れた上で、それすらも人生の味わいとして楽しんでいる。
(なんて……なんて深く、果てしない器の大きさ……!)
麗華の胸に、さらなる尊敬の念が込み上げてきた。師匠の隣にいるだけで、自分の抱えていた悩みがちっぽけなものに思えてくる。
「深すぎます、師匠。私、一生ついていきます!」
麗華はビールの空き缶を両手で握りしめ、目をキラキラと輝かせた。
第4節 死ぬためではなく生きるために明日もダンジョンへ、配信終了と共に訪れる新たな日々の始まり
【相田視点】
夕暮れ時。
アパートに戻った相田は、買ってきたアジの刺身をテーブルに並べ、久しぶりに配信アプリを起動した。
タイトルは『ただの晩酌雑談』。
配信開始ボタンを押した瞬間、数万人の視聴者が一気に雪崩れ込んできた。
【視聴者視点】
『待ってました!』
『英雄の帰還!』
『リッチ倒したってマジ!? ニュースになってたぞ!』
『世界を救った聖人、ついに降臨!』
コメント欄は、熱狂と賛美の嵐で瞬く間に埋め尽くされた。画面の向こうの視聴者たちは、伝説となった男の言葉を今か今かと待ち構えていた。
【相田視点】
だが、相田はいつものようにマイペースだった。
「どうも、相田です。なんか英雄とか言われてますけど、私はただ晩酌の邪魔をして喧嘩を売ってきた骸骨を黙らせただけなんで、気にしないでください」
相田があっさりと英雄扱いを否定すると、カメラに向かって買ってきたパックを見せびらかした。
「それより見てください。今日は半額のアジの刺身です。生姜をたっぷり乗せると、これがまた最高に美味いんですよ」
相田は嬉しそうな顔で刺身を口に放り込み、ビールをグイッと飲んだ。
【視聴者視点】
『wwwww』
『世界を救った翌日に半額のアジ食ってて草』
『ブレなさすぎるだろこの人』
『でも、めちゃくちゃ美味そうに食うな』
画面に映るその姿は、神格化された英雄などでは決してなかった。どこにでもいる、幸せな「ただの酒飲み」だ。
視聴者たちは、その気取らない等身大の姿に強烈な親近感と癒やしを覚え、コメント欄は温かい笑いに包まれた。
【相田視点】
「さて、明日はどうしますかね」
相田は独りごちて、視聴者の前で普通に現実的でネガティブな悩みをこぼした。
「貯金もないし、家賃の更新月も近いんですよね。就活もしなきゃいけないかもしれないし、面倒だなあ」
ため息をつきつつも、相田の顔にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
「まあ、とりあえず明日はまたダンジョンに行きますか。美味い肉が落ちてるかもしれませんしね」
【視聴者視点】
その言葉に、視聴者たちは深いカタルシスを感じていた。
死に場所を探すためでも、世界を救う大義のためでもない。
「明日の糧を得るため」「最高の晩酌を迎えるため」に、彼はまた明日も戦うのだ。どんなに理不尽な現実があっても、この男が美味そうに酒を飲んでいる限り、世界は大丈夫な気がする。
【相田視点】
相田の肩によじ登った毛玉が、プルプルと嬉しそうに震えた。
『この世は巨大な宴会場だぞ。欲望の赴くままに、美味しく生きていくんだぞ』
「ああ、そうだな」
相田は誰にも見えない相棒の言葉に頷き、カメラに向かって手を振った。
「それでは皆さん、良い夜を。明日もまた、美味い酒が飲めますように」
相田は配信終了のボタンを押した。
プツン、と画面が消え、静寂が戻る。
「師匠! お醤油のおかわり、買ってまいりましょうか!?」
キッチンの方から、弟子の元気すぎる声が聞こえてくる。
膝の上には、相田の不安を吸い取ってくれる毛玉の確かな温もりがあった。
相田は畳の上に大の字になって寝転がった。
これからの人生も、きっと理不尽で面倒なことばかりだろう。だが、その苦味も渋味も全部飲み込んで生きていけばいい。
新たな人生の始まりを心地よく噛み締めながら、相田悟は安らかな眠りについた。
――完




