晩酌配信、世界を癒やす
第2章 晩酌配信、世界を癒やす
第1節 無職となった相田は明日の不安を毛玉に喰わせ、今この瞬間の晩酌代を稼ぐためにダンジョンへ向かう
【相田視点】
退職届を山崎の頭に置き、ブラック企業を辞めてから三日が経過した。
相田の朝は、目覚まし時計の不快な電子音に叩き起こされることのない、静かで神聖なものだった。窓から差し込む朝日に目を細め、ゆっくりと起き上がる。
「あぁ……よく寝た」
しかし、ささやかな幸せに浸っていたのも束の間、現実に戻って机の上の通帳を開いた瞬間、相田の顔からサァッと血の気が引いた。
「残高、三万……」
家賃、光熱費、食費、スマホ代。どう計算しても来月にはマイナスになる。
(このままじゃ、来月には路頭に迷って野垂れ死ぬかもしれない……どうしよう、再就職なんてすぐに見つかるわけないし……)
将来への猛烈な不安と恐怖が、真っ黒な霧となって相田の脳内を渦巻き始めた。
その時だった。
胸ポケットに潜んでいた灰色の毛玉が、ドクンと脈打った。
『未来を憂うなだぞ』
脳内に直接、少し優しげで包み込むようなトーンの声が響いた。
毛玉は相田の胸にぴったりと張り付くと、相田の脳内に渦巻く「将来への恐怖・不安」という黒い霧を、最高のエサだと言わんばかりにズズズッと吸い出していく。
不安と焦燥感をすっかり喰われた相田の心は、突き抜けるような青空のごとき精神状態へと強制的に切り替わった。
「そうだな。まあ、腹が減ったら稼いで、とりあえず今日美味い酒とツマミが楽しめればいいか」
極めて楽観的な思考へと変換された相田は、過去の後悔も未来の恐怖も忘れ、「今、ここ」の晩酌のことだけを考えるようになった。
とはいえ、先立つものがないのは事実だ。手っ取り早く今日の晩酌代を稼ぐ手段はないか。
そう考えていると、毛玉からポンッとあるイメージが脳内に流し込まれた。
昨今のダンジョンブームに乗っかり、登録だけして放置していた探索者用の配信アプリ。これでダンジョンの様子を生配信し、小銭を稼ぐのだ。
「なるほど、やってみるか」
しかし、新しい装備を買う金などない。相田はクリーニング済みの会社員時代のスーツを着込み、百均のナイフをポケットに忍ばせ、ホームセンターの安物リュックを背負うという、およそ探索者とは思えないふざけた格好でアパートを出た。
スマホで配信アプリを立ち上げ、タイトルを『晩酌の肴を探す旅』と適当に入力。コンビニの白いビニール袋を持った覇気のない自撮りをサムネイルに設定する。
『世界は我らの食堂だぞ』
意気込む毛玉を胸ポケットに入れ、相田は最寄りのEランクダンジョン(初心者向けダンジョン)である「地下水道跡」へと足を踏み入れた。
第2節 視聴者困惑のまったり配信、しかし相田の無駄のない動きと戦闘は見る者の精神を強制的に安定させる
「あー、テステス。どうも、相田です。今日は美味しいお肉を探しに来ました」
ダンジョンに入った相田は、自動追従機能のついたドローンカメラを起動し、覇気のない声で配信を開始した。
画面の端に表示される視聴者数は「0」。当然だ。
相田は気にせず歩き出した。だが、地下水道特有の腐臭と、ジメジメした空気、そして遠くから響く魔物の咆哮に、相田の足が止まった。
(うわぁ……やっぱり帰りたい。面倒くさいし、普通に怖い……)
小市民的なネガティブ感情が湧き上がった。
しかし、すかさず毛玉がそのストレスを吸収する。
『大丈夫だぞ。僕が手伝ってあげるぞ』
毛玉が相田の身体を薄く覆うような感覚があった。相田の恐怖心は、毛玉によって「冷静な状況把握能力」と「無駄を省く極限の集中力」へと変換されていく。
再び歩き出した相田の動きは、先程までとは別人のようだった。
背筋は糸で吊られたように真っ直ぐ。水たまりや泥を避ける足運びは、まるで氷の上を滑る舞踏のように滑らかで、一切のエネルギーロスがない異様に美しい所作へと変化していた。
開始から三十分後。
奇妙な脱力感のあるサムネイルに釣られた暇な視聴者が、ぽつりぽつりと集まり始めていた。
相田の視界の端のホログラムウィンドウに、コメントが流れ始める。
『なんだこの配信』
『スーツ? サラリーマンの遭難?』
『タイトルやる気なくて草』
相田はコメントに愛想を振りまくこともなく、ただ淡々と、美しい歩法で進んでいく。
その時、通路の奥から影が飛び出した。
体長一メートルはある巨大ネズミ、ジャイアントラットだ。鋭い牙を剥き出しにして、相田の喉笛に真っ直ぐ飛び掛かってくる。
(デカい! 噛まれたら痛い! 危ない!)
相田は強烈な恐怖を感じた。だが、毛玉に覆われている彼の身体は、意思とは無関係にスッと半歩だけ横にずれた。
ネズミの牙が空を切る。
すれ違いざま、相田はネズミの後頭部に向かって、軽くデコピンを放った。
「お眠り」
パチン、と乾いた音が響いた。相田の指を介して放たれた毛玉の波動が、ネズミの脳に直接衝撃を伝え、生命活動を強制停止させた。
ネズミは空中で糸が切れたように脱力し、ドサリと地面に落ちて即死した。
「ふむ。ネズミの肉はちょっと臭みが強いかな……。ジャーキーにすればいけるか」
相田は百均のナイフを取り出すと、一切の迷いなく、血飛沫一つ浴びないプロ級の手捌きで解体を始めた。
「一品目、確保です。命に感謝ですね」
相田はカメラに向かって、穏やかに微笑んだ。
【視聴者視点】
『え?』
『今何した?』
『デコピンで瞬殺したんだが……』
『しかも解体がプロの料理人レベル』
『歩き方といい、動きが綺麗すぎる』
配信画面の向こう側で、視聴者たちは困惑と驚愕に包まれていた。
泥臭く命がけで戦うのが当然のダンジョン探索において、スーツ姿の男が、血の一滴も流さず、舞うようにモンスターを倒し、命への深い感謝と共に解体する。
その静かで洗練された姿は、見ているだけで肩こりが治りそうな、謎の「凪」のヒーリング効果を放っていた。
相田の配信は『最強の社畜が癒やしの探索をしてる』と、瞬く間にSNSで拡散され始めた。
第3節 罵詈雑言すらも毛玉フィルターで賛美歌へ、アンチを慈愛の微笑みで浄化する聖人ムーブが炸裂する
【相田視点】
SNSでの拡散により、同時接続数はあっという間に一千人を超えた。
しかし、人が増えれば招かれざる客もやってくる。コメント欄の流れる速度が上がり、その内容は真っ黒なものへと変貌していった。
『やらせ乙』
『スーツで舐めてんの?』
『弱いモンスターいじめてるだけだろ』
『死ね』
『キモい』
匿名特有の悪意ある罵詈雑言の嵐。
相田は足を止め、空中に浮かぶホログラムの文字を見つめた。
(なんだよこれ……せっかく楽しくツマミを探してるのに。気分が悪いな)
相田は普通に傷つき、強烈なストレスと不快感を感じた。胸の奥がチクチクと痛む。
しかしその瞬間、胸ポケットの毛玉が急速に稼働した。相田に浴びせられた「悪意ある思念」という極上のストレスエネルギーを、大喜びで喰らい始めたのだ。
『うめぇ、うめぇだぞ! これは最高のご馳走だぞ!』
毛玉の「フィルタリング機能」がフル回転する。
相田の脳内に届く言葉は、全て「肯定的なエネルギー(美しい解釈)」と「相手を許す心の余裕」へと強制的に変換されていった。
相田の視界の中で、トゲのある文字が、ピンク色の花びらエフェクトに包まれて書き換わっていく。
『死ね』は、『あなたは永遠の命を得るべきだ』という神聖な祈りに。
『キモい』は、『個性的で素晴らしいオーラだ』という熱烈な称賛に。
相田の表情から怒りや悲しみがスッと消え去った。代わりに浮かんだのは、心からの喜びと、人類への愛に満ちた、パァァァッと輝く聖母のような微笑みだった。
「皆さん……なんて温かい言葉なんでしょうか」
相田は胸に手を当て、ドローンカメラに向かって語りかけた。
「私の健康を祈ってくださり、ありがとうございます。『死ね』と書いてくれた方……それはつまり、今の苦しみから解放され、安らかな世界へ行けるようにという祈りですね? あなたの優しさに救われます。あなたにも、幸多からんことを」
相田は、見知らぬアンチに向かって、心からの感謝を込めて深々と頭を下げた。
【視聴者視点】
静寂。
怒り狂うか、無視するか。そう思っていたアンチたちは、完全に困惑していた。
自分たちが投げつけた汚い泥団子が、相手には美しい花束として受け取られ、あまつさえ心からの感謝と慈愛の笑みで返されたのだ。
あまりの器の大きさに、悪意は完全に無力化され、アンチたちは何も言えなくなってしまった。
そして、その一部始終を見ていた一般視聴者たちの感情が爆発した。
『聖人だ……』
『アンチを感謝で殴り返したwww』
『浄化される……俺の汚れた心が洗われていく……』
『【悲報】アンチ、光に焼かれて消滅』
奇跡の「アンチ浄化」の聖人ムーブに視聴者たちは大感動し、画面は極彩色のスーパーチャット(投げ銭)で埋め尽くされた。
お酒代、おつまみ代として、数千円、数万円という金額が次々と飛び交う事態となっていた。
第4節 ボスモンスターを極上の食材に変え、安酒で乾杯する姿が現代社会に疲れた人々の心に突き刺さる
【相田視点】
やがて、相田はダンジョンの最奥に到達した。
そこは少し開けたドーム状の空間になっており、中央に陣取っていたのは、このエリアのボスモンスター。軽トラックほどの大きさがある巨大泥ガニ、「マッドクラブ」だった。
相田の侵入に気づいたマッドクラブが、岩をも砕く巨大なハサミを振り上げる。
(うわ、デカくて強そう! あんなの挟まれたら絶対痛いって! 帰りたい!)
相田は猛烈にネガティブな恐怖を抱き、後ずさりした。
だが、毛玉がその恐怖と逃避欲求を逃さず吸収する。
『よく見るんだぞ、相田。あの中には、立派なカニ味噌がたっぷり詰まっているはずだぞ』
毛玉の囁きと共に、相田の恐怖は「極上の食材への探求心(食欲)」へと変換された。
途端に、マッドクラブが美味しそうなご馳走にしか見えなくなる。
「……素晴らしい。なんて立派な甲羅なんだ」
相田はゴクリと喉を鳴らした。食欲という強烈なポジティブな活力を得た相田は、自らカニに向かって駆け出した。
マッドクラブが轟音を立ててハサミを振り下ろす。地面が割れる衝撃。
だが、毛玉に補助された相田は、風のようにその一撃をすり抜け、カニの懐へと飛び込んだ。
「失礼します、ちょっと殻を外しますね」
小市民的な断りを入れつつ、相田の指先がカニの関節の隙間に滑り込む。
パキッ。
手首を軽くひねっただけで、嘘のように簡単に巨大なハサミがポロリと外れ落ちた。
さらに相田は腹部に掌を当てた。
「甲羅割り」
ズドンッ!!
相田の掌から放たれた衝撃波がカニの内部に流れ込み、身を全く傷つけることなく、外骨格だけを粉砕する。
マッドクラブは泡を吹き、戦闘開始からわずか十秒で完全に沈黙した。
「よーし、最高のカニ肉確保だ」
相田はすぐさまリュックを下ろし、持参した水と携帯コンロ、小鍋を取り出して、その場でカニ鍋を作り始めた。
グツグツと鍋が煮える音が、マイクを通して配信される。
相田は、コンビニで買ってきたワンカップ大関の蓋を開けた。
「それでは、今日という一日、そしてこのカニさんの命に。乾杯」
薄暗いダンジョンの天井を見上げながら、相田は酒をグイッと煽った。
そして、茹で上がったプリプリのカニの身を口に運ぶ。
「……ふぅ。理不尽を乗り越えた後の酒は、最高だな」
相田の顔に浮かんだのは、深い充足感と、至福の表情だった。
【視聴者視点】
相田のその顔が、カメラを通して配信画面に大写しになった。
視聴者数は、いつの間にか五万人を超えていた。
『泣けてきた』
『俺は何のために毎日働いてるんだろう』
『これこそが真の豊かさか』
『ただ酒飲んでるだけなのに、神々しい』
過酷な競争社会に疲弊し、マウントの取り合いで心をすり減らしていた人々。
彼らの心に、ただ美味そうに酒を飲み、今この瞬間の命を味わう相田の等身大の姿が、深く、鋭く突き刺さった。
スーツ姿の無職。貯金なし。安酒飲み。
しかしこの夜、相田悟は日本のインターネットにおいて、最も「満たされた男」として伝説となった。
画面の中で一人静かに笑う彼は、誰の目にも『現代の聖人』として映っていた。相田の肩で、誰にも見えない毛玉が嬉しそうに揺れていることなど、誰も知る由もなかった。




