社畜、全てを諦めて覚醒する
第1章 社畜、全てを諦めて覚醒する
第1節 理不尽な残業と限界の向こう側、そして安酒と共に現れた謎の毛玉との邂逅
【相田視点】
深夜二時。誰もいないオフィスに、キーボードを叩く乾いた音だけが響いていた。
相田悟は泥水のように濁った視界をこすりながら、エクセルの膨大なデータと睨み合っていた。
「相田ァ、まだ終わんねえのかよ。これだからゆとりは使えねえんだ」
背後から飛んできたのは、酒臭い息と共に吐き出された上司の嘲りだった。課長代理の山崎だ。彼が発注数を一桁間違えるという致命的なミスを犯し、その尻拭いを相田が一人でやらされている。当の山崎は、自分のデスクで隠し持っていた缶ビールをプシュリと開けている始末だ。
「……申し訳ありません。データとの照合に時間がかかって」
相田は反論もせず、ただ静かに頭を下げた。不平不満を口にする気力すらとうに失せている。
(自分がここで泥を被って歯車を回せば、結果として誰かの日常や、世の中の役には立つはずだ)
他人のために尽くすこと、理不尽に耐えること。それを自らの役割だと受け入れていた。
しかし、自己犠牲を前提とした生き方は、確実に相田の心身を削り取っていた。鉛のように重い体は限界の悲鳴を上げている。胃はキリキリと痛み、息をするだけで胸が苦しい。
ふと、窓の外に広がる暗い街の明かりを見下ろした。
(これだけ世の中のために命を削ってきたのだから……命を使い切った後は、せめて穏やかで争いのない、平和な場所へ行けるだろうか)
このまま飛び降りたら、明日の出社はしなくて済む。そして、ずっと安らかに眠れるかもしれない。そんな死後の救いにすがるような空想が脳裏をかすめた。
朝五時。始発で帰宅した相田は、その足でコンビニに寄り、一番安いストロング系の缶チューハイと賞味期限切れ間近のチータラを買った。
ワンルームの狭いアパート。布団を敷く気力もなく、相田は万年床に倒れ込んだ。
プシュッ。
虚しい音を立てて缶のプルタブを開け、ボロボロの体を労うようにアルコールを喉に流し込む。
「……疲れたな。自分の生を全うして、早くその報われる場所へ行きたい……もう、消えたい」
現実の苦しみから逃れ、死後の安らぎへ向かおうとする絶望の独り言が漏れた。
その瞬間だった。
視界の端で何かが動いた。直径二十センチほどの、灰色の毛玉。目も口もないフワフワとしたそれが、相田の目の前で浮遊していた。
「……なんだこれ」
過労が見せる幻覚か。相田が手を伸ばすと、毛玉はスッと手に乗った。温かい。そして、相田の心臓の鼓動とリンクするように脈打っている。
『――対象の負の感情エネルギー、極めて芳醇だぞ』
声ではない。脳に直接、少し優しげで包み込むようなトーンの声が響いた。
「へ?」
『たくさん頑張って、すり減っちゃったんだな。その悲しい願い、僕が全部食べてあげるぞ』
恐怖で声も出ないまま、毛玉はスゥーッと相田の肋骨をすり抜け、物理的に胸の奥、心臓へと沈み込んでいった。
ドクンッ!
その瞬間、相田の中にあった「苦しい」「悲しい」「憎い」「死後に救いを求める諦め」といった猛烈なストレスや絶望感が、巨大な掃除機に吸い込まれるようにスッポリと消え去った。
毛玉は相田の絶望を大口で吸い込み、代わりにポジティブな活力へと変換して相田の脳内に還元していく。
『死んだ後を待つなんて、もったいないぞ。今生きているこの過酷な世界を、君自身の手で心地よい理想の場所へと作り変えればいいんだぞ』
毛玉の優しげな声と共に、相田の思考が澄み渡っていく。
(……そうだ。苦しみから逃げて死後の安らぎを待つんじゃない。この泥臭い日常の中で、自分も他人も笑顔で酒を飲めるような居場所を、”今ここ”に作ることこそが尊いんじゃないか)
相田は深く理解した。自分は超人になったわけではない。ただ、自己犠牲だけの悲しい歯車であることをやめたのだ。
「よし。まずは自分の人生を心地よくするために、明日こそ辞表を出そう」
相田は前向きで揺るぎない活力を取り戻し、静かに目を閉じた。
第2節 辞表を胸に秘めた穏やかな朝と、突如としてオフィスビルを襲ったダンジョンブレイクの悪夢
翌朝。相田はいつも通りに出社した。
だが、その雰囲気は昨日までとは一変していた。猫背だった背筋はピンと伸び、常に充血していた目は穏やかな半眼になっている。肌艶が良く、毛玉の働きによって前向きな精神状態を維持しているためか、微かに後光すら発しているように見えた。
「おはようございます」
オフィスの扉を開け、相田は静かに挨拶をした。いつも死にかけだった相田の憑き物が落ちたような姿に、同僚たちがギョッとして振り返る。
相田の懐には、一通の封筒が忍ばせてあった。
(今日こそ、このブラック環境から抜けるのだ。俺の人生を、俺の楽園にするために)
決意と共に、上司である山崎のデスクへと真っ直ぐに向かう。
「山崎課長代理。今日でお暇を頂こうと思いまして」
「あぁ? なんだ朝っぱらから……って、お前眩しいな! 何言ってんだ、今忙しい時期に……」
相田が辞表を突きつけようとした、まさにその瞬間だった。
ズズズズズ……ッ!
オフィスビル全体を揺るがす巨大な地鳴りが響いた。ビルの窓ガラスがビリビリと振動し、オフィスの空気が一瞬で凍りつく。
「地震か!?」
「いや、違う、これ……!」
オフィスの入り口、自動ドアがあった空間がぐにゃりと歪み、どす黒い穴へと変貌した。ダンジョンブレイクだ。
『緊急警報! 当ビル三階にてダンジョンブレイクが発生! 直ちに避難を――』
放送が途切れると同時に、その穴から巨大な影が飛び出してきた。身長二メートルを超える、豚の頭を持つ亜人、オークだ。一体ではない。三体、四体と、次々にオフィスになだれ込んでくる。
「ヒィィッ!!」
「逃げろ!!」
オフィスは完全なパニックに陥った。書類が舞い散り、デスクが倒される。山崎はいち早く自分の机の下に潜り込み、ガタガタと震え上がっていた。
オークの一体が、逃げ遅れた女性社員に狙いを定めた。鉄骨すらへし折る巨大な棍棒が、容赦なく振り下ろされようとする絶望的な光景。
その状況下で、相田の心に湧き上がったのは恐怖ではなく、強烈な理不尽さと怒りだった。
(せっかく退職する決意をして、晴れやかな朝だったのに……俺の門出を邪魔するな!)
相田の怒りを感じ取った毛玉が、相田の胸からフワリと姿を現した。だが、その姿は相田以外の周囲の人間には全く見えていない。
『怒ってるな。そのイライラ、全部僕が食べてあげるぞ』
すかさず毛玉が相田を飲み込むように全身を覆った。相田のネガティブな感情、怒りやストレスを掃除機のように吸い上げ、毛玉の体内にエネルギーとして急速に蓄積していく。
第3節 生老病死の理を超越した拳、慈悲の心で放たれた一撃がモンスターを粉砕する
見えない毛玉にすっぽりと覆われた相田は、恐怖という感情を毛玉に吸い取られているため、全く恐怖を感じていなかった。
相田は細身のスーツ姿のまま、へたり込む女性社員とオークの間にスッと割り込んだ。
「相田くん!? 逃げて!」
女性の悲鳴が遠く聞こえる。
振り下ろされるオークの棍棒が、相田の目にはスローモーションのようにゆっくりと映った。その軌道を完全に見切った相田の心には、怒りから反転した奇妙な「共感」が湧いていた。
「お前らも、こんな狭いオフィスで暴れるのは疲れるだろ。もう帰れ」
相田はオークへの労いを込めた言葉を投げかけながら、握手を求めるかのように静かに右手を前に出した。
避けることすらなく、オークの分厚い腹部へ、慈しみを込めてそっと掌底を当てる。
相田にとっては、ただオークの突進を止めようと手を当てただけだった。だが、毛玉に蓄積された怒りのエネルギーが、「この状況を打開するための力」として一気に解放された。
ドォォォォォンッ!!
腹部を中心に金色の衝撃波が突き抜けた。
オークの巨体がくの字に折れ曲がり、背後の壁ごとド派手に吹き飛ばされた。砲弾のように飛んでいったオークは、後続のオークたちを巻き込み、ビルの外壁をぶち抜いて空の彼方へ消え去っていく。
静寂が落ちた。腰を抜かしていた同僚たちも、机の下の山崎も、信じられないものを見る目で相田を見つめている。
驚愕して後ずさる残りのオークたちに対し、毛玉に覆われた相田は、縮地のような滑らかな動きで瞬時に隣接した。
「楽にしてあげよう」
優しく慈しみを持って差し出された相田の手から、毛玉が再び衝撃波を生み出す。
パァンッ!
乾いた音と共に、オークたちの上半身が瞬時に粒子レベルまで消滅してしまった。血飛沫すら上がらない。
毛玉の変換機能により圧倒的な力を放った相田だったが、本人はただ散らかってしまったオフィスを見て、寂しげに呟いた。
「……諸行無常だな」
相田はスーツの埃を軽く払い、乱れたネクタイを直し、何事もなかったかのように呆然とする山崎の元へ歩み寄った。
山崎は恐怖で失禁していた。
「ひっ、ひぃっ! 来るな!」
「化け物みたいに言わないでください。辞表です」
相田はすっきりとした顔で、震える山崎の頭の上に封筒をそっと置いた。
「有給消化については、後ほど総務と相談します。では」
相田は踵を返し、念願の退職を果たして、爽やかな足取りでオフィスを去っていった。
第4節 監視カメラに映る奇跡の映像、そして一人の少女が目撃した強さの真理
【視聴者視点】
相田が去った後のオフィスで、生き残った社員たちは壁に空いた大穴と、消滅したオークの残骸を前に我に返った。
「あいつ……なんなんだよ……」
普段は空気のように目立たなかった男が残した圧倒的な破壊の痕跡に、全員が呆然とするしかなかった。
だが、事態は社内だけでは終わらなかった。
このビルはダンジョン関連企業が入居しているためセキュリティが高く、監視カメラの映像はリアルタイムでクラウドに保存されていた。そしてパニックになった社員の一人が、救助を求めるためにSNSへ「今まさに死にそうです」というコメントと共に、誤って社内カメラの映像リンクを投稿してしまっていたのだ。
その映像は、瞬く間にネットの海を駆け巡った。
映像の中の相田は、理不尽な状況に動じることなく、ただ手をかざすだけで巨大なオークを粉砕していた。相田を覆っていた「毛玉」はカメラには一切映らない。そのため、画面にはただ細身のスーツの男が、奇跡のような金色の光のエフェクトと共に、慈悲深いパンチを放っているようにしか見えなかった。
『なんだこのサラリーマン!?』
『理不尽に耐え抜いた末の覚醒だろこれ』
『リアルワンパンマン現る』
『社畜、無我の境地に至る』
そんなトレンドワードと共に、相田の映像は世界中でバズり始めていた。
【麗華視点】
都内某所、高級タワーマンションの一室。
巨大なモニターの前に、一人の少女が食い入るように座っていた。
神宮寺麗華。十九歳にして、国内トップクラスの探索者クラン『天照』の次期当主候補。その美貌と実力で『戦乙女』とも呼ばれる彼女の瞳には、強烈な熱が宿っていた。
画面の中で繰り返される、疲れ切った顔のサラリーマンがオークを消滅させる映像。
「……美しい」
麗華は熱い吐息を漏らした。
彼女はずっと悩んでいた。強さを求め、血を吐くような努力で技術を磨き、魔力を高めてきた。だが、どんなに敵を倒しても心は渇き、焦燥感に駆られるばかりだった。
だが、この男はどうだ。
殺意がない。闘争心すら感じられない。ただ在るがままに振る舞い、結果として敵が消し飛んでいる。
「これこそが……私が求めていた『強さの真理』! 無我の境地ですわ!」
映像の最後、男が呟いた言葉を読唇術で読み取った麗華は震えた。
『諸行無常だな』
それはただの口癖ではない。世界の理を知り尽くし、あらゆる苦悩を超越した者だけが発せる、聖なるマントラに違いない。
「見つけたわ。私の、真の師匠」
麗華は立ち上がり、手元の最新鋭探索者用デバイスで、すぐさまお抱えの情報屋に連絡を取った。
「この男の居場所を特定して。今すぐに。……ええ、礼は弾むわ」
【相田視点】
その頃。
自分がネットで大騒ぎになり、厄介なトップランカーに目をつけられていることなど露知らず。
相田は初夏の風が吹く公園のベンチに座り、コンビニで買ったワンカップ大関の蓋を開けていた。
「あー、有給消化中の酒は美味い」
『お疲れ様だぞ。君の決断、とっても良い波長だったぞ』
相田の膝の上では、誰にも見えない灰色の毛玉が、心地よさそうに丸くなっている。相田は虚空を撫でるような手つきで毛玉を撫でた。
「これからどうしようかな、おつまみさん」
相田が勝手につけた名前に、毛玉――おつまみはポフンと跳ねた。
『案ずるなだぞ。風の吹くまま、気の向くまま。まずはそのお酒を楽しめばいいんだぞ』
「それもそうだな。いやぁ、自由って素晴らしい」
相田はグイッと酒を煽った。
無職(予定)になった不安など、毛玉が吸い取ってくれているおかげで微塵も感じない。ただの小市民としての自由と、この昼間から飲む酒の味だけを満喫していた。
最強の社畜(元)と、優しき毛玉。そして彼を追う勘違いお嬢様。
相田の心地よい楽園作りは、ここから加速していくことになる。




