最低限
翌日の朝、ヒロの足は王宮へと向かっていた。
今日の目的は、スラム再開発における区画割りの最終調整への立ち合いだ。
この一年かけて、工房の者たちによって魔力の供給量と消費量の収支調査が綿密に行われてきた。実際に建物を建て始める前に、ライフラインとなる地下道をどのように通すのかを決定する極めて重要な段階に入っている。
基本方針としては役人たちが作成した区画割りを優先するものの、地質や地形によってはどうしても掘削が不可能な場所も出てくる。そのため、専門的な見地と現場の意見を突き合わせ、入念な話し合いのもとで最終的な図面を固めることになっていた。
重厚な扉を開けて王宮の会議室へと足を踏み入れると、室内にはすでに主要な顔ぶれが揃い、ピリッとした緊張感と活気が入り混じった空気が漂っている。
中央の大きなテーブルの周りには、工房の頑固な親方と職人たち、幾重もの書類を抱えた役人たち、そしてスラム再開発を率いる王女アンと、その側近であるセバスの姿があった。
ヒロが静かに部屋に入ってくるなり、工房の親方は「遅いぞ」と言わんばかりに顎をしゃくってみせる。
「ヒロ! おはよー!」
アンはそんな硬い空気などどこ吹く風といった様子で、ぱっと顔を輝かせて元気よく手を振ってきた。
一方、セバスは静かにヒロへと視線を向けると、スッと胸に手を当てて上品かつ恭しく軽くお辞儀を返す。
ヒロは気恥ずかしさを隠すように小さく片手を上げ、周囲の視線を避けるようにして、気まずげにそそくさと工房の職人たちの輪へと混ざっていった。
会議が始まると、工房による魔力調査の報告が役人たちによって一つひとつ厳密に精査され、最終的にスラムへと安定して送り届けることができる具体的な魔力量の数値が導き出された。
それはこの一年をかけて地道に計測されたものであり、夏場や冬場といった季節による魔力消費の変動などもきっちりと加味された、極めて現実的で信頼性の高い量だった。
「これなら、上下水道はしっかりと完備できますね」
すべての数値を確認し終えた役人が、ほっとした声を上げる。会議室のあちこちから、小さく安堵の息が漏れた。
これから建設予定の集合住宅は、屋上に魔導ポンプを設置し、その動力を使ってタンクへと水を汲み上げ、そこから各戸へと高低差を利用して分配する仕組みになっている。導き出された総量を考慮すると、その生命線とも言える魔導ポンプを十分に稼働させることが可能らしい。
逆に言えば、それは住民たちが生きるための最低限の生活用水を供給するには十分である一方、これ以上の魔力利用――例えば冷暖房や照明、調理用のコンロなどの魔導具の稼働は、今の供給量では到底望めないというラインでもあった。
ヒロはふうっと小さく息を吐き出すと、自然と視線を会議室の高い天井へと向けた。
(やっぱり……足りなかったか……)
計画が立ち上がった当初、親方も、他の職人たちも言っていた。「すべてが行き届かなくても、まずは安全な水道さえ通れば、この街の衛生環境は劇的に良くなる」と。以前のヒロはその言葉に納得していた。事実、それだけでも大きな前進なのだから。
しかし、昨日読んだ子どもたちの手紙で帝国の充実した福祉や暮らしぶりを知ってしまった今、ヒロの胸の内には、どこか割り切れない引っかかりが残っていた。
(本当に、この水準で妥協してしまっていいのだろうか……?)
そんな悩みを抱えるヒロをよそに、会議室全体が、ようやく大きな山を越えたという達成感と安堵の空気に包まれていた。
「よし、これでスラムの住民たちの最低限の生活は保証できるな」
すべての報告が滞りなく終わり、役人たちや職人たちは、この一年の長きにわたる地道な調査をお互いに労い合い、これから改善されていくだろうスラムの未来の姿に夢を馳せながら、和やかに肩を叩き合っている。
そんな中、黙り込んでいたヒロの様子に気づき、アンが小首をかしげた。
「……ヒロ? どうかしたの、そんな難しい顔をして」
その声がきっかけとなり、和やかなムードだった会議室の空気がピタリと止まる。全員の視線が一斉にヒロへと集まった。
周囲の静まり返った重みを感じながらも、ヒロは顔を上げ、じっとアンを見据えて口を開いた。
「もしかしてさ、魔力導管もその『最低限』に合わせて細いものを通すつもりですか?」
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