黒幕
翌日の朝、ヒロは目を覚ますと同時に、昨日決意した自分自身に対して呆れていた。
今日は日曜日。
仕事終わりに食事に誘うことでさえ足踏みをしていたのに、休日にわざわざギルドへ行って誘うなど、今のヒロには難易度が高すぎた。
それに、隣のベッドは、当然ながら綺麗に整えられたままで空っぽだ。ガレスは子どもたちを連れて帝国へと向かっているため、当分帰ってこない。
いざという時に相談に乗ってくれる、頼もしい相棒がいない今、いったいどうしろというのか。
頭を悩ませながらも布団から這い出たヒロは、庭へと降りて薪割りを始めた。
乾いた音が静かな朝の空気に響く。
ガレスが帰ってくるまでは、毎日これをしなければならないのかと思うと少しげんなりしたが、斧を振るうその手の感触や積み上げられていく薪を見ていると、どこかそこには不在の相棒の影が感じられて、胸の奥がじんわりと温かくなった。
薪を割り終え、朝食を済ませると、ヒロは自然と真っ直ぐにスラム街へと向かっていた。
王都のスラム再開発計画は、まだ調査段階のままだ。子どもたちも旅立ってしまったというのに、休日にこの場所へ足を運ぶという習慣は、そう簡単には消えなかったらしい。
スラムの薄汚れた路地に入っても、あの元気な子どもたちが「お兄ちゃーん!」と歓声を上げて駆け寄ってくることはもうない。少しだけ寂しさを覚えながら、ヒロは静まり返った街並みを抜けて、あの水場へとやって来た。
しかし、今日の水場はいつもとは違っていた。
一帯にはどこか温かい活気が満ちており、たくさんの人だかりができている。
何事かと近づいてみると、水場のすぐ近くで大規模な炊き出しが行われていた。
大きな鍋から立ち込める温かいスープの湯気の向こうに、見覚えのある金髪が揺れている。近衛騎士や王都の役人たちを従えているというのに、そんな物々しさを微塵も感じさせない様子で、アン王女は相変わらずの人懐っこい笑顔を浮かべながらスラムの人々と親しげに言葉を交わしていた。
そして、その少し離れた場所では、温かな眼差しを向けながら、いつでも周囲に気を配る執事セバスの姿があった。
ヒロが少し離れた場所からその光景を眺めていると、ふと、セバスの鋭い視線とピタリと目が合った。
(……相変わらず凄いね)
ヒロは心の中で密かに感服し、遠くから軽く頭を下げて挨拶の意を示した。そういえば、あの王女誘拐事件以来、セバスとは顔を合わせていなかった。
だが、ヒロのお辞儀を受けたセバスは、王族に仕える執事、そして剣聖としてありえない行動に出た。
周囲の人間が息を呑む中、セバスはスラムの土埃が舞う地面にスッと片膝をつき、恭しく胸に手を当てて深々と頭を垂れたのだ。
――っ!?
そのあまりにも予想外で、身分違いすぎる敬意の示し方に、ヒロは心臓が跳ね上がるような衝撃を受けた。
考えるより先に、体が動いていた。
ヒロは一気に距離を詰め、ざわめく人混みを強引にかき分けると、ひざまずくセバスの脇の下に手を差し入れ、強引にその体を抱え上げて立たせた。
ーーこの人は、僕なんかにこんな敬意を払っていい人じゃないっ……!
無我夢中で取ったその行動だったが、かえって周囲の視線を集めてしまった。
炊き出しを手伝っていた近衛騎士たちが、一斉にヒロの方へと鋭い視線を向け「あの若者は一体何者だ?」とどよめき始める。
(しまった……!)
突発的な行動のせいで注目を浴びてしまったことに気づき、ヒロは冷や汗を流していた。
セバスは周囲の注目が集まっていることなど全く気にする様子もなく、ただ穏やかな笑みを浮かべたままヒロを見つめて言った。
「あなたはどんな時も、人を『立たせる』のですね」
当人同士にしか分からないその言い回しに、ヒロは緊張を忘れ、思わずふっと笑みをこぼす。
だが、そんな穏やかな空気は長くは続かなかった。
二人の間に割って入るように、アンが勢いよく飛び込んできたのだ。
「ヒロ!!」
セバスが示した礼の意味も、ヒロが慌てて抱え上げた理由も、そして二人の間に流れていた静かな会話も、アン王女には何一つ分かっていないのだろう。彼女はただ、思いがけない場所でヒロを見つけた喜びだけで目を輝かせている。
ヒロは急に現れたアンに盛大に呆れつつ、面倒くさそうに片手をひらひらと振ってみせた。
「あー、どうも久しぶり。……じゃ、またね」
その場からそそくさと立ち去ろうと身を翻すヒロだったが――。
そんなヒロの腕を、アンは少しも怯むことなく力強く掴んだ。そして、すぐ近くの炊き出しの鍋の前にいた係の者から、温かいスープがたっぷりと入った木のお椀を受け取り、有無を言わさずヒロの両手に押し付ける。
「ちょっ、待ってよ! これはここの人たちのための食べ物だろ!」
スラムの住民のために用意されたこの炊き出しのスープを、自分が横取りするわけにはいかない。それは偽りのない本心からの言葉だった。
――しかし。
ふと、ヒロが気まずそうに周囲を見渡すと、水道を引く工事のときに一緒に泥まみれになって働いたスラムの人々が、皆どこか温かい目を向けながら笑っていた。
理屈じゃない。水くさいことを言うなと、彼らの笑顔が物語っている。みんなで囲んで、一緒に食べた方が絶対に美味しいに決まっているのだ。
「……まったく」
ヒロは観念したように小さく息をつき、お椀を両手でしっかりと持ち直すと、トコトコと歩いてすぐ近くの石段に腰を下ろした。
すると、待っていましたと言わんばかりに、アンがその隣にちょこんと腰掛け、覗き込むように顔を近づけてくる。
「……ねえ、ヒロ。そっちは順調?」
ヒロはスプーンですすったスープの温かさにほっと息をつきながら、わざとぶっきらぼうに聞き返した。
「……何がさ」
アンは不敵に、けれどどこか嬉しそうな微笑みを浮かべながら、ヒロの横顔を見上げて答えた。
「決まってるでしょ、『スラム再開発計画』よ」
アンのその言葉を聞いた瞬間、ヒロの中でこれまでの疑問が一気に氷解した。
あのスラム再開発計画が見切り発車のように始まった理由に今さら合点がいったのだ。
こんな破天荒で行動力だけが化け物じみた王女が「やる」と言い出したからこそ、普段は腰の重い役人たちが渋々ながらも動かざるを得なかったのだ。だからこそ、今日の炊き出しの場には、いつもの物々しい近衛騎士だけでなく、ぐったりとした疲労感を漂わせた役人たちの姿までまじっているわけである。
「まったく……アン、君はもう少し周りの事情や手順を考えてから行動に移すべきだよ」
呆れながらヒロがため息をつくと、アンはどこ吹く風といった様子で首を傾げた。
「うーん? 悩んでばっかりで何もせずに後悔するくらいなら、とりあえず動いて失敗して後悔した方が、よっぽど次につながるんじゃない?」
その言葉を聞いた瞬間、ヒロの動きがピタリと止まった。
(――悩んでばっかりで……)
心の中で、自分の姿が重なる。
休日にリリアを誘うなんてハードルが高すぎるだの、相棒がいないだの、言い訳を並べて先延ばしにしようとしていた自分が急に情けなくなってきた。かっこ悪くたって、失敗したっていいじゃないか。休みの日に誘うのが何が悪いんだ。
悩む暇があるなら、まず動けばいい。
ヒロの胸のなかで、モヤがかかっていた迷いがスッと晴れていく。
「……そっか。うん、やることができたよ」
晴れやかな、それでいてどこか決意を秘めたヒロの顔を見て、アンはふっと楽しそうに目を細めて笑った。
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