謎の男
ヒロは緊張を抑え込みながら、アジトの入り口にある「例の壁」にペタッと手の平を当てた。
(……やっぱり、すごい魔法だ。術師本人はもう死んだはずなのに……今でもしっかりと隠蔽が機能している)
死してなお残る高度な魔術の緻密さに、思わず心の中で感服する。しかし、感心してばかりもいられない。ヒロは自分の魔力を指先から流し込み、あたかもそこが本当の壁であるかのように誤認させていた空間の歪みを、手際よくかき消していく。
空気が一瞬だけ波打った。
次の瞬間、目の前に隠されていた秘密のアジトの全貌が、パッと広がった。
――だが。
その空間の中央に、ぽつんと一人の男が立っていた。
長いローブを纏い、無精髭を生やした中年男。どこかひょうきんで抜けの良さそうな顔つきをしており、こちらが突然現れたことに驚いたように、大きく目を見開いてヒロを見つめていた。
ヒロの体が瞬時に硬直する。反射的に、右手は腰に差した剣の柄へと伸びていた。
(……おかしい)
例の隠密に長けた帝国の魔術師の一件以降、ヒロの探知魔法は隠れようとする者の違和感すら見つけられるようになったはずだった。
それなのに――。
(目の前にいるのに……この人、僕の探知魔法に全く反応しないのにその違和感がないっ……!)
生物としての気配すら、魔力の波長すらもまるで感じられない。まるで最初からそこに「いない」かのような、底知れぬ異質さにヒロは冷や汗を流した。
「……まさか、あの壁を破るとはね……」
先ほどまで驚いていた男は、わずかに目を細めたかと思うと、すぐに人懐っこそうな、どこか飄々とした笑顔を浮かべてヒロに話しかけてきた。
(……敵ではない、のだろうか? ……いや、だからといって、こんな怪しい男を簡単に信用できるわけがない)
ヒロは警戒を緩めず、重心をぐっと落とした状態で腰の剣の柄を握り締め、いつでも抜刀できる構えを取った。冷や汗が一筋、こめかみを伝って流れ落ちる。
殺気こそ感じないものの、目の前の男の底が知れなさにヒロが息を呑んでいると、男はヒロの険しい様子を見て、やれやれと言ったように両手を軽く上げた。
「おっと、そんなに警戒しないでくれ。ごめんごめん、自己紹介がまだだったね」
無精髭を軽く指で掻きながら、男はどこか呑気な声で名乗る。
「僕はアルヴィン・ゼノス。この国の……宮廷魔術師団団長だよ」
ヒロは信用出来るか否か判断がつかず、ぶっきらぼうに返す。
「……初めまして、ゼノスさん」
しかし、ヒロの緊迫した様子とは裏腹に、アルヴィンは肩をすくめ、あきれ返ったように軽くため息をついた。
「いやぁ、警戒心が強いねぇ。……で、君は名乗ってくれないんだね? ヒロくん」
その瞬間、ヒロはピクリと動きを止め、驚愕に目を見開いた。
(……え? なんで、僕の名前を知っている……!?)
ヒロのそんな心の内を見透かしたように、アルヴィンはからからと楽しそうに笑い声を上げた。
「ははっ! そんなに怯えた顔をしなくてもいいさ。君のことはセバスさんから聞いてるよ」
ヒロは「セバス」という名を聞いてようやく、肩の力を抜き、ふうっと小さく息を吐き出した。
もちろん、ここで完全に安心したわけではない。
「セバス」の名前を出せばヒロが警戒を緩めると踏んだ、敵の心理誘導かもしれないという疑念はまだ頭の片隅に残っていた。――だが、そうだとしても。
(……この男には絶対に勝てない)
先ほどからヘラヘラと気さくに話しているが、その纏う空気は恐ろしいほど静かで、どこにも隙が見当たらない。それに、存在自体が希薄なこの男が突然牙を剥き、襲いかかってきたとしたら――反応するなど到底無理だ。それどころか、自分が死んだことすら自覚できず、気づいた時には首が落ちているだろう。そんな直感が、ヒロの背筋に冷たいものを走らせていた。
これほどの怪物相手に、警戒を続けることにどれほどの意味があるというのか。
(……だったら、敵だろうが味方だろうが関係ないか)
どうせ勝てない相手なら、ここで無駄に足掻いても仕方がない。ヒロはすっと剣の柄から手を離し、構えを解いた。
「……で、ゼノスさん。こんなところで何をしているんですか?」
あきらめ半分で、ヒロは淡々とそう問いかけた。
ようやく警戒を解いたヒロの様子を見て、アルヴィンは「やれやれ」とばかりにホッとしたように息をついた。
「いやぁ、君がその気にならなくて本当に良かった。――それでね、僕がここで何をしていたかと言うと、あの『壁』を調べていたんだよ。敵の魔術の仕掛けや技を知るのも、僕の仕事のうちだからね」
その言葉を聞いた瞬間、ヒロはハッとした。
――しまった。消してしまった。
あの高度な隠蔽魔法は、まさに帝国の魔術師が残した貴重な資料だったはずだ。それを自分が、綺麗さっぱり消し飛ばしてしまったことに気づき、ヒロは慌てて頭を下げた。
「すいません、ゼノスさん……。あの魔法、解除しちゃいました……」
しかし、アルヴィンは全く気にした様子もなく、笑いながら手をひらひらとさせて見せた。
「ああ、気にしないでいいよ。あんなの、大した魔法じゃなかったからね。それよりもさ、『アルヴィン』って呼んでくれないかな?…….家名は正直言って嫌いでね」
あの『壁』を大したことないと言い放つアルヴィンの底知れなさに内心冷汗をかきつつも、ヒロは会話の端に引っかかった一つの疑問を素直にぶつけた。
「……家名が、嫌いって……?」
ヒロの問いに、アルヴィンはどこか面倒くさそうに、しかし親しみやすい笑みを浮かべながら語り始めた。
もともとアルヴィンは平民の生まれで、子供の頃には家名なんてものとは無縁だったそうだ。それが、ひょんなことから魔法の才能を認められて宮仕えすることになった際、取ってつけたような家名を与えられたのだという。
けれど、平民として泥臭く生きてきた彼にとって、その立派すぎる苗字はどうにもむず痒く、まるで他人の服を着ているように偉そうに感じられて仕方がないのだと肩をすくめて笑った。
王宮の頂点に立つ宮廷魔術師団長が、そんな庶民的な感覚を持っているなんて――。
ヒロは、底知れない強さを持つであろう目の前の男に、ほんの少しだけ親近感を覚えていた。
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