厄介な敵
セバスが文字通り風の如く通り過ぎ、あっという間に視界から消え去った後、取り残されたヒロと、アンを抱えたガレスは、自然と足を緩めて走るのをやめた。
ようやく脳の霧が完全に晴れ、はっきりと意識を取り戻したアンは、ガレスの胸元をポカポカと両手で軽く叩きながら声を上げる。
「もう、ガレス! 勝手に抱っこしないで、早く下ろして!」
ガレスは「はいはい、お姫様」と愉快そうな苦笑いを浮かべながら、アンをそっと地面に下ろした。
それから、すでにセバスの姿が消え去った遥か前方の地下道の闇を見つめつつ、ヒロに向き直る。
「……今から俺たちが追いつくの、どう考えても無理じゃね?」
ヒロはセバスの残した風圧で乱れた髪を整えながら、清々しいほどあっさりと頷いてみせた。
「うん、絶対無理!」
その潔すぎる返答に、ガレスは思わず吹き出し、二人は顔を見合わせて声を上げて大笑いした。
その明るい笑い声に釣られるように、何が何だか分かっていながらもホッとした表情を浮かべたアンも、くすくすと笑い声を漏らす。
やがて賑やかな笑い声が静まり返ると、誰からともなく、再び王宮の近くへと続く地下道をのんびりと歩き出した。
しばらく歩いたところで、ガレスがふと真面目な顔に戻り、ぽつりと口を開く。
「なぁ……王宮大丈夫なのか?」
その不安を煽るような言葉に、隣を歩いていたアンはハッと表情を曇らせ、不安そうに瞳を揺らす。
しかしヒロは、そんな心配などどこ吹く風といった様子で、やれやれと大げさに両肩をすくめて見せた。
「そんな心配してる場合じゃないでしょ。僕たちの方がよっぽど危険だよ。なんたって、こんな足手まといを一人連れて歩いてるんだからね。今もし敵の残党でも襲ってきたら、ひとたまりもないよ」
「ちょっと、失礼ね! なんてこと言うのよ!」
アンはぷくっと両頬を可愛らしく大きく膨らませ、不満げに抗議の声をあげる。
その様子を見て、ガレスは思わず耐えきれずに吹き出した。
ヒロは呆れ返ったような顔をしながらも、口元には隠しきれない笑みを浮かべて言い放つ。
「だって事実じゃないか! そもそも、アンが攫われたりしなきゃ、こんな事になってないんだ。本当に、危機感が足りないんだから」
「もうっ、ヒロのいじわる! ……ふんっ!」
アンはわざとらしくそっぽを向き、両腕を組んでプイッとむくれてみせる。
緊迫した地下道とは思えないほど和気藹々とした空気を纏いながら、三人が軽口を叩き合っていると、やがて視界の先に地上へと通じる頑丈な石造りの階段が見えてきた。
ヒロとガレスは、ふざけ合っていた先ほどまでの空気をスッと消し去り、表情を引き締め直しながら地上へと続く階段を登っていく。
石段の途中で立ち止まると、ヒロはわずかに耳を澄ませてから、隣の相棒に視線を向けた。
「ガレス、上の様子は? 何か感じる?」
ガレスは数秒間目を閉じ、鼻をひくつかせて周囲の匂いや気配を探る。しかし、すぐに首を横に振った。
「いや、まったく。そっちはどうだ?」
ヒロもまた、自身の研ぎ澄まされた探知魔法を張り巡らせていたが、やがて無言でゆっくりと首を振った。何も引っかからない。
そのやり取りを後ろで聞いていたアンは、きょとんとした顔で小首を傾げた。
「あのねぇ、二人とも用心深すぎない? 私を攫ったあの連中はさっき地下道で全員倒したでしょ? あとはもう、王宮に戻るだけなんじゃないの?」
アンの素朴な疑問には答えず、ヒロは木製の扉に手をかける。きしみが響かないよう慎重に、ほんの少しだけ隙間を開けて外の様子を窺った。
ヒロは周囲の安全を目視で確認しながら、静かに扉を開け放って言う。
「……それがね、一番厄介な奴が、まだどこにも見当たらないんだよ」
アンはまったく話の展開についていけず、丸い目をパチクリさせながら、わけがわからないというふうな顔でヒロの背中を見つめた。
ヒロは合図を送るように軽く手を上げると、ガレスとアンを伴って慎重に外へ出て、王宮へと続く石畳の道を歩き出す。
朝日が登り始めた静かな道中、アンは先ほどから気になっていた疑問をたまらずに口にした。
「ねえ、さっきから言ってる『厄介な奴』って誰のことよ?」
その問いに、ガレスはぶるっと肩を大きく震わせた。
「 そこに何もないはずなのに、まるで実際にあるみてぇに触れる壁を作れる奴だ」
ガレスの真剣な物言いと生々しい表現に、ヒロも大きく頷いて言葉を重ねる。
「そう。そんな五感を誤魔化せるような魔術師と戦うってなったら相当厄介だからね」
それを聞いたアンは、自分を攫っていった者たちの裏に潜む本当の恐怖の正体にようやく気づき、みるみるうちに顔を青ざめさせていく。
その時だった。
――ドサッ。
重い音が、緊張に満ちた石畳の上に冷たく響いた。
転がり落ちたのは、全身を深い黒いローブで包み込んだ一人の人間。その身体はピクリとも動かない。
ヒロとガレスは反射的に視線を上に向けた。
昇り始めたばかりの朝日の光を背負い、建物の屋根の縁に、一人の男が悠然と腰を下ろしている。
屈強な腕のあちこちには裂傷が刻まれ、そこから流れ出た乾ききらない血が朝日に照らされて鈍く光っていた。
だが、その負傷とは裏腹に、男の表情はいつもと変わらぬふてぶてしさを湛えている。
肩に担がれていたのは、あの巨大な大斧。
男はそれを、まるで木の枝でも扱うかのように、片手で軽々と担いでいた。
他でもない、ギルドマスターその人だった。
「おう。ガキども」
いつも通りのぶっきらぼうな声が空気を揺らす。
男は地面に転がった黒衣の死体を顎でしゃくってみせた。
「……探してる魔術師って、こいつのことか?」
三人は、あまりの光景に言葉を失い、ただその場に立ち尽くした。
巨大な大斧。執務室の壁に飾られていた時は、ただの飾りだと思っていた。
だが違った。
あれは、本物だった。
そして。
その大斧を片手で担ぐこの男もまた、本物だった。
ヒロは目の前の信じられない光景に呆然としていたが、不意にハッと我に返り、ギルドマスターへと鋭い視線を向けた。
「ギルドって国家の問題には一切関われないんじゃ……」
その言葉に、ガレスも「あぁっ!」と言いながらポンと手を打って大きく頷く。
「いいのかよギルマス!もろに介入してんじゃねぇか!」
二人の追及に対し、ギルドマスターはぶっきらぼうに鼻を鳴らすと、音もなく屋根から軽やかに飛び降りてみせた。
「国家の問題ぃ? 冗談言ってんじゃねぇよ」
ギルドマスターは血の滲む傷だらけの肩から大斧を下ろし、フッと不敵に笑う。
「俺ぁただ、てめぇらクソガキどもを助けに来ただけだ」
綺麗事など一切並べない、あまりにもギルドマスターらしい身勝手で力強い言い草に、ヒロとガレスは思わず苦笑いを浮かべる。
それからギルドマスターは、ふとアンへと視線を向け、ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「それで?誰だこのアホそうな小娘は?」
ヒロとガレスは瞬時に目を見合わせて頷き合い、ギルドマスターに向き直って真顔で告げる。
「……さあ、誰でしょう。全く見覚えありませんね」
「ああ、知らない子だな」
その予想外すぎるトボけっぷりに、アンはしばらく「は……?」と間抜けにポカンと口を開けて固まっていたが、状況をようやく理解した瞬間、耐えきれなくなり「ぷっ……あはははっ!」と声を上げて吹き出した。
そのアンの笑い声を皮切りに、ガレスが腹を抱えて豪快に笑い、ヒロも呆れながらも肩を揺らし、そして傷だらけのギルドマスターまでが渋い笑みを漏らす。
張り詰めていた緊張と恐怖が嘘のように消え去り、夜明けの冷たい空気の中に、温かい笑い声がどこまでも響き渡っていった。
やがて心地よい笑いが収まると、誰からともなく言葉を交わすこともなく、一歩ずつ、朝日に染まり始める王宮へと向かって歩き出したのだった。
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