完全詠唱
目の前で繰り広げられた光景にヒロは思わず息を呑み、冷や汗をかいていた。
ふと隣を振り返ると、いつもは豪胆なガレスさえも、同じように絶句した顔で固まっている。
「……強い、なんてもんじゃないね」
「ああ……。刃の軌跡どころか、動いたことすら全く見えなかったぜ」
二人が冷や汗を拭う暇もなく、セバスは地面に倒れ込んでいるアンの容体を確かめるためにスッと歩み寄り、その傍らに片膝をついた。
それを見てハッと我に返ったヒロとガレスは、同時に大きく頭を振る。
ヒロはすぐさま地面で眠りこけているアンの元へと駆け寄り、そっと触れて状態を確認する。
「……やっぱり、五感へ干渉する魔法が得意な奴がいるね」
ヒロは鋭く呟くと、手早く自らの魔力を練り上げ、アンを縛り付けていた魔法を鮮やかに解除してみせた。
数秒後、アンの睫毛がふわりと揺れ、ゆっくりとその瞳が開く。
「……ん……あれ、ヒロ……? ……それに、ガレス……? うそ、セバスまで……どうしてここに?」
ぼんやりとした頭で状況が飲み込めず、目をパチクリさせるアン。しかし、のんびり状況説明をしている暇などない。
ヒロはすぐに険しい表情へと切り替え、相棒の名を呼んだ。
「ガレス!」
「おうっ!」
ガレスは短く返事をすると、アンの身体を軽々と抱きかかえた。
ヒロは立ち上がり、呆然としていたセバスに向かって鋭い声を飛ばす。
「セバスさん! いつまでもぼーっとしてないで、早く城へ戻りますよ!」
そう言って、ヒロは王宮へと通じる地下道の石畳を再び一気に駆け出した。
そのすぐ隣を、アンを軽々と抱えながらも息一つ乱さぬ余裕の表情でガレスが並走する。
「なあヒロ、間に合うか?」
焦りを含んだガレスの問いかけに、ヒロはフッと不敵に笑ってみせた。
「大丈夫、ちゃんと策があるよ」
そう言いながら、ヒロの視線は後ろを走るセバスへと向けられた。
ヒロは走りながら、ふっと深く息を吸い込み、ゆっくりと、一言一句を確かめるような丁寧な声で詠唱を始めた。その澄んだ声が、反響する地下道に響き渡る。
(――我ながら、懐かしい響きだ)
村長から初めて魔法書をもらい、がむしゃらに修行をしていた幼い頃は、毎日毎日こうして詠唱していたものだ。もっとも、無詠唱を習得してからは、詠唱することなど一度もなくなっていたが。
最後の一節を紡ぎ終えると、隣で走っていたガレスが、不思議そうに眉をひそめて聞いてきた。
「おい、なんで今更詠唱なんかしてんだよ?」
ヒロは得意げに鼻を鳴らす。
「無詠唱は発動が速くてそりゃ便利だけどさ、完全詠唱は、魔力の密度も効果の跳ね上がり方も段違いなんだよ」
ガレスは「ほーん」と、おそらく魔法の機微など全く理解していないであろう適当な顔をしながら首を傾げた。
「んで、結局なんの魔法を使ったんだ?」
「――僕の知りうる限りのあらゆる身体強化魔法を、全部重ねがけしたんだよ」
その言葉に、ガレスは「おっ」と珍しく目を輝かせる。
「じゃあ、今のヒロ最強じゃん」
しかし、ヒロは呆れたように苦笑いを浮かべながら首を横に振った。
「僕に掛けたんじゃないよ――」
ヒロが言葉を締めくくろうとした、その瞬間だった。
ヒロとガレスの二人の間を、空間そのものを切り裂くような圧倒的な白い閃光が、猛烈な風を伴って駆け抜けていった。
あまりの速さにガレスは思わず「ひゅーっ……」と感嘆の口笛を吹く。
視線の先、すでに遥か前方へと消え去った背中を見送りながら、ヒロは冷や汗混じりの苦笑いを浮かべて呟いた。
「――あれが、『剣聖』の全盛期か」




