名探偵
酒場の前に着いたヒロは脳裏に浮かびかけた不穏な想像を振り払うようにブンブンと大きく首を振ると、一度大きく深呼吸をして肺に空気を満たした。そして、顔を引き締め、意識して口元に笑みを貼り付ける。
「ただいま!」
あえて普段通りの、いや、それ以上に明るい声を出してヒロは酒場の重たい木の扉を勢いよく開けた。
しかし、店内に足を踏み入れた瞬間、その明るさは空中で萎んでしまった。
カウンターの中で仕込みの料理をしていた女将が顔を上げて、じっと、まるで全て見透かすような視線をヒロに向けたのだ。
その重苦しい無言の圧力に耐え切れず、ヒロは思わず目を逸らし、逃げるようにいつもの席へと向かった。
明るく料理を配り、酒を届けて回っていたセレナも、今日はいつものような明るさがまるでなく、ヒロの様子を伺うよに「……おかえり」と小さく呟くだけだった。
どこか居心地の悪さを感じながら、ヒロは足早に席へ歩き、ガレスの向かい側の椅子に腰を下ろした。
しかし、目の前に座ったガレスは、腕を組んだまま酷く険しい、しかめっつらでヒロのことをじっと睨みつけていた。
そして、低く濁った声で言い放つ。
「なんだよ、その下手くそな作り笑いは」
ヒロは背もたれにどっかりと体を預け、しばらくの間じっと天井を見つめていた。しかし、やがて観念したように深い溜息を一つ吐き出す。
(はあ……。やっぱ、全然誤魔化せないか)
隠し通そうと覚悟を決めて、あんなに元気よく扉を開けた瞬間から、自分の中の動揺や作り笑いなんてすぐに見抜かれていたのだろう。
そう思ったらなんだか急にバカバカしくなり、胸のつかえがスッと降りていくのを感じた。
「……くっ」
こみ上げてくるものを抑えきれず、ヒロは思わず口元に手をやった。だが、もうダメだった。肩を震わせ、ついにニヤニヤとした笑いが止まらなくなる。
「あははっ、ははははっ!」
堪えきれなくなったように吹き出したヒロは、そのまま声を上げて大笑いし始めた。
その突然の爆笑に、最初は呆れていたガレスだったが、つられて「なんだよ一体……!」と吹き出し、やがて腹を抱えて大笑いし出す。
騒がしい酒場に、二人の盛大な笑い声が響き渡った。
しばらくして、ひとしきり笑い終えると、ガレスは笑いすぎたせいで目尻に浮かんだ涙を乱暴に指で拭い、ニカッと豪快に笑った。
「くそっ、なんかわかんねぇけどよ!そっちの方がよっぽどお前らしいぜ!」
その言葉に、ヒロはふっと息を抜き、肩の力を完全に抜いた。
そんな二人の様子を、カウンターの端からホッとしたような、優しい目で眺めていたセレナが、冷えたグラスに入ったジュースを運んでくる。
さらに、カウンターの奥で包丁を置いていた女将が、呆れたようにフンと鼻を鳴らした。
「まったく……うるさいねぇ」
そう言いながらも、その口元は隠しきれないほど緩んでおり、どこか心底安心したように優しく目尻を下げていたのだった。
温かい空気が戻った酒場のテーブルを囲み、ヒロはふっと息を吐き出すと、ガレスに向かって真剣な視線を向けた。さっきまでの冗談めいた雰囲気は消え、声のトーンを落として口を開く。
「……実はさ」
ヒロは、今日起きた出来事を順序立てて語り始めた。
衛兵から依頼されて確認した、地下道へと続く扉のこと。
街の商店を回る中で耳にした、食材や物資を買い込んでいく謎の人物の存在。
そして、誰もその顔や姿を思い出せないほど記憶に残らない異常なまでに希薄な気配――。
ガレスは腕を組み、いつものような軽口を叩くこともなく、鋭く険しい顔つきでただ黙ってうなずきながらヒロの話を飲み込んでいく。
やがて、ヒロがすべてを語り終えると、ガレスがようやく重い口を開いた。
「……実は俺も、気になって調べてたんだよ」
その言葉に、ヒロは思わず目を丸くした。
昨晩、二人であれだけ「僕らの仕事じゃない」と話し合って決めたはずなのに。
……いや、心のどこかで、こうなることを予感していた気もする。あのガレスが、ただおとなしく引き下がるわけがない。止めようとしたって無駄な男だと、長年の付き合いで嫌というほど分かっていた。不思議と怒りや焦りは湧かず、ただ「やっぱりな」という妙な納得感だけがあった。
ただ、一つだけ現実的な疑問が浮かぶ。
「ガレスが調べ回ったら、目立つんじゃないの?」
ヒロの懸念に、ガレスはフッと鼻を鳴らし、どこか得意げなニヤリとした笑みを浮かべた。
「ふっ、甘いなヒロ。スラムの悪ガキども……いや、『元』悪ガキどもに協力してもらったんだよ」
なるほど、とヒロは大きく納得した。
ヒロたちがスラム街の仕事を始める前、生きるために街へ忍び込み、スリや万引きを繰り返してはその日暮らしをしていた子どもたちだ。彼らなら、大人の目を盗んで王都の隅々まで入り込み、怪しまれることなく情報を集めてこられるに違いない。
感慨に耽りながら、ふと、幼い頃に父親から聞かされた物語が脳裏をよぎる。ヒロは小さく呟いた。
「なんだか、『ベイカー・ストリート・イレギュラーズ』みたいだね」
ガレスは怪訝そうな顔をしながら、耳慣れない名前を首を傾げて繰り返した。
「べ、べいかぁすとりぃ……なんだそれ? パンか?」
その問いに、ヒロはわずかに苦笑いを浮かべ、軽く頭を振る。
「ううん、僕も名前の意味なんてよく分からないよ。ただ、昔父さんから聞いた物語に出てきた子供たちの集まりの名前さ。ふと、それを思い出してね」
ヒロの言葉に、ガレスはフッと肩の力を抜き、どこか羨ましそうなしみじみとした表情でヒロを見つめた。
「……いいなぁ、ヒロは。父ちゃんのこと覚えてて…..」
その言葉に、ヒロの胸の奥がチクリと小さく痛む。
――覚えてるなんて、そんな大層なものじゃない。
顔の形すらもう曖昧で、輪郭を思い出そうとしても靄がかかったようにぼやけてしまう。ただ、幼い日の自分を包み込んでくれた、あの優しく柔らかな声の響きだけが、今でも断片的に胸に残っていた。
しかし、感傷に浸っているわけにはいかない。ヒロは両手で自分の頬を軽く叩いて気合を入れると、話題を本題へと引き戻した。
「……その子供たちが掴んできた情報ってどんなものなの? 教えてよ、ガレス」
ヒロの真剣なまなざしを受け、ガレスもふっと表情を引き締めると、テーブルの上にぐっと身を乗り出して周囲に聞こえないよう声をひそめた。
「……最近、王都の南門からよそ者が何人もこっそり入ってきてるらしい。ほれっ」
ガレスが机の上に放り出すようにして、小さく冷たい金属片を滑らせてよこす。
ヒロはそれを反射的にパシッと受け取り、手を開いてじっと見下ろした。その瞬間、ヒロの血の気が引いていく。
「……っ! こ、これは……!」
それは紛れもない『帝国軍人』の認識票だった。王国とは長年、緊張状態にある隣国――帝国の兵士が、ひそかに王都の内部へ潜入している。
背筋が凍るような戦慄を覚え、ヒロは慌てて顔を上げると、声を荒げた。
「ガレス! 今すぐ子どもたちを止めろ!!」
しかし、ガレスは呆れたように片手をひらひらと振って、ふん、と鼻を鳴らした。
「当たり前だろ、すでに全員手を引かせてるよ」
ガレスは皮肉そうに片眉を吊り上げ、続けざまにぼやいた。
「……にしても、相変わらずあいつらのスリの腕前は一級品だな。相手が帝国の兵士だろうが何だろうが、懐から綺麗にパクってきやがるんだから大したもんだ」
そのあまりにも肝の据わったガレスの言葉と、子どもたちの相変わらずすぎる不敵な手並みに、ヒロは思わず肩の力を抜いて苦笑いを漏らす。
ヒロは呆れたように小さく息を漏らした。
「……ほんと、変なところだけ昔のままだね」
「だろ?」
ガレスもニカッと笑う。
しかし、ヒロの手の中に残された冷たい認識票が、二人をいつまでも笑わせてはくれなかった。
重苦しい空気の中、ガレスは何かを思い出したように腕を組み、ふと首を傾げた。
「それにしてもよ……。影が薄いって訳わかんねぇよ」
その疑問に、ヒロはふっと得意げな笑みを浮かべ、ニヤリと口の端を持ち上げた。
「それについてはさ、僕の方で一つ仮説があるよ」
「おっ?」
ガレスは目を輝かせ、テーブルに身を乗り出した。
ヒロは目の前に置いてあった冷えたグラスにそっと手をかざす。
その瞬間――。
パッ、と淡い光の粒子が舞い、グラスの姿が綺麗にかき消した。まるで最初からそこには何もなかったかのように、テーブルの上からグラスが完全に消失する。
ガレスは「おまっ……!?」と、飛び出しそうになるほど目を丸くした。
「魔法だよ。ちょっとした手品みたいなものさ。意識を別の場所へ逸らさせる。手品と違うのは、そこに魔力を使ってるってところだね」
しかし、ガレスは完全に頭がパンクしたように両手で頭を抱え、クラクラと眩暈を起こしたようにうなだれた。
そのあまりの理解の追いついてなさ加減に、ヒロは呆れたように小さく息を吐き魔法を解除した。
「ほら」
「……は?」
ガレスの目の前には、先ほどと寸分違わぬ場所にグラスが置かれていた。
消えていたのではない。ずっと、そこにあった。
(……まあ、ガレスに理屈を分かってもらうのは無理か)
しかし、実際に自分の魔法でそれを再現してみたからこそ、ヒロの背筋には冷たいものが走っていた。
(——今の簡易的な魔法だけでも、ガレスのあの鋭い嗅覚や気配察知を完全に誤魔化すことができた。……敵の使っている技術は、きっとこんなものじゃない。もっと何段階も巧妙に、五感すべてを欺いて姿を隠せるはずだ)
もし、そんな化け物じみた隠密魔法を使いこなす帝国の刺客が、音もなく背後から襲いかかってきたとしたら――。
想像しただけで血の気が引く。ヒロはブルリと小さく身震いをさせ、まだ見ぬ敵の恐ろしさに、心の底から怯えを覚えるのだった。
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