忍び寄る影
翌朝。
ヒロは寝不足で重たい目を擦りながら、ベッドから這い出た。
隣のベッドに目をやると、すでにもぬけの殻で、ガレスの姿はどこにもない。
窓辺へと歩み寄り、酒場の裏庭を見下ろした。
そこには、すでに薪の山が積み上げられている。それを見た瞬間、ヒロは自分が寝坊をしてしまったことにようやく気づいた。
軽く伸びをして首を鳴らすと、ヒロは諦めたようにため息を吐き、いつもの作業着へと着替えた。
こうなってしまったら、今さら慌てて走ったところで遅刻の事実は変わらない。急いでも仕方がないと自分を納得させ、愛用の赤い工具箱を肩に担いで、階段を降りて酒場の一階へと向かった。
階下に降りると、そこではすでに朝食を済ませた酒場の女将とセレナが、手際よく今日の営業に向けた仕込みを始めているところだった。
降りてきたヒロに気づき、セレナは手を休めると含み笑いを浮かべて声をかけてきた。
「おはよ。……夜更かししちゃった?」
ヒロは頭をかきながらいつもの席へと腰を下ろした。
そこに用意されていたのは、少し冷めかけてはいるものの、相変わらずの温もりがある朝食だった。ヒロは静かにスープを口に運んだ。
スープとパンを時間をかけてゆっくりと食べ終え、自分の使った食器をきれいに洗い終えた頃には、寝不足で重かった頭もようやく冴えてきた。
「行ってきます!」
女将とセレナに向かって元気よく声をかけると、ヒロはギルドへと向かった。
昨日の夜あんなに思い悩み、眠れぬ夜を過ごしたのが嘘のように、今のヒロの足取りは驚くほど迷いがなかった。
――忘れよう。
ガレスならともかく、万が一、あの正体不明の人物を自分で探り当てたところで、返り討ちにあって命を落とすのがオチだろう。
不思議なことに、一晩ぐっすり眠って朝の空気を吸っただけで、昨夜の不安やモヤモヤは綺麗に吹っ切れていた。
そんな割り切った考えを巡らせているうちに、あっという間に見慣れたギルドの建物へと到着する。
ヒロはギルドの重たい木製の扉を押し開くと今日の依頼を探すためにクエストボードへと真っ直ぐに向かった。
手頃な依頼書を数枚手早く取ると、そのまま足早にリリアの待つ受付カウンターへと向かう。
カウンターの向こう側に立つリリアは、昨日の青ざめた顔色が嘘のように、いつもの凛とした美しい表情に戻っていた。
「おはようございます、リリアさん。二日酔い、ちゃんと治ったみたいですね!」
リリアは少しだけ頬を赤らめ、照れくさそうにふっと微笑んだ。
「ありがとね、ヒロくんのお薬のおかげ!……それはそうと、昨日はあんな慌ただしく飛び出して、そのあとは大丈夫だったの?」
その言葉を聞いた瞬間、ヒロはハッと息を呑み、昨日のことを鮮明に思い出した。
ガレスが「剣聖に決闘を挑む!」と叫んでギルドを飛び出したのを止めるため、せっかく受付を済ませたばかりの依頼書を、リリアに返していたのだ。
ヒロは気まずそうに頬を掻きながら、頭を下げた。
「き、昨日は……その、急にドタバタして本当にすみませんでした……!」
するとリリアは、クスクスと楽しそうに笑いながら首を横に振った。
「謝らなくていいよ。それよりさ、今朝からギルドの中はその話題で持ちきりだったんだからね。――噂になってたよ、ガレスさん、本当に王女様の前で剣聖に決闘を挑んだの?」
リリアのその言葉を聞いた瞬間、ヒロはわずかに表情を曇らせた。
昨夜しっかり寝て、今朝はもうすっかり割り切ったつもりだった。もう余計な心配はやめようと自分に言い聞かせていたはずなのに、周囲の噂話を耳にした途端、昨日見失った正体不明の影のことが頭を過り、胸の奥がチクリと痛む。
しかし、いつまでもそんな暗い顔を見せるわけにはいかない。ヒロは無理に作り笑いを浮かべ、わざとらしく明るい声を絞り出した。
「……え、ええ。ガレスはバカですからね! ははは、皆に迷惑かけて恥ずかしかったんですよ!」
誤魔化すようにからからと笑うヒロの様子に、リリアは何かを察したのか、心配そうに眉をひそめた。
「ヒロくん……?」
「じゃあ、行ってきます!」
これ以上の質問をされる前にと、ヒロは素早く依頼書をカウンターから受け取ると、これ以上ないほどの作り笑顔を残してリリアに軽く手を振った。
心配そうに見つめてくるリリアの視線を背中に感じながら、ヒロは足早にギルドを後にし、今日の仕事へと向かうべく表へと飛び出した。
ギルドを出た後、ヒロは大通りを歩きながら、手に持った一枚目の依頼書に視線を落とした。
そこに書かれていた文字を確認して、ヒロは思わず首を傾げる。
「――『地下道入り口の鍵修理』?」
依頼主の欄には、王都の衛兵の名が記されていた。
ヒロは普段から出入りをしている、街のあちこちにある地下道への扉を脳裏に思い浮かべる。壊れてなどいるはずがない。それに、もし不具合があれば、あの工房の職人たちが見逃すわけがなかった。
(一体どういうことだ……? 壊れてないのに修理の依頼なんて出るか?)
胸の中に小さな疑問と、妙なざわめきが広がる。
しかし、正式にギルドの掲示板に貼り出され、自分が引き受けた以上、行かずに放置するわけにはいかない。
ヒロは複雑な思いを飲み込むと、依頼書をしっかりと折りたたんで懐にしまい、そのまま衛兵の詰所へと足を向けるのだった。
ヒロが衛兵の詰所へ到着して扉を開くと、奥に座っていた一人の衛兵がパッと顔を上げ、嬉しそうに声を上げた。
「おっ、アタリだな!工房んとこの若造だ!」
ヒロは少し照れながらポリポリと頭をかき、懐から依頼書を取り出して差し出した。そして、気になっていた疑問を早速口にする。
「お疲れ様です。あの、依頼書に『地下道入り口の鍵修理』ってありましたけど……。僕たち、地下道なら仕事で日常的に出入りしてますし、壊れてるとこなんてないはずですけど?」
そのヒロの言葉を聞いて、衛兵たちはなぜか顔を見合わせ、苦い表情を浮かべた。
やがて、実際にこの依頼を出したという一人の古参の衛兵が、腕を組みながら重々しく口を開く。
「いや、壊れてるっていうか、何ていうか……難しいんだがな」
「というと?」
「ここ最近、深夜の見回りで地下道の扉を見て回ってるんだが、本来なら施錠されているはずの扉が、なぜか開いてることがあるんだよ。……おたくら工房の職人の連中に限って、鍵の締め忘れなんて初歩的なミスをするはずがないってことは分かってる。今までそんなこと一度もなかったしな」
衛兵は眉間にしわを寄せ、悩ましげに続ける。
「でも、ちゃんと締めて確認したはずの扉が、夜になると勝手に開いちまうみたいな……そんな壊れ方ってするもんなのか?」
「勝手に開く……?」
ヒロはその言葉を反芻し、腕を組んで深く考え込んだ。
鍵が閉まらないとかならともかく、施錠状態から勝手に開いてしまうような不具合など、聞いたことも、教わったこともなかった。
重苦しい沈黙を破るように、依頼を出した衛兵がぽつりと声をかけた。
「……とりあえず見に行こう。現場まで案内するよ」
「……あ、はい。お願いします」
ヒロは思考の海から引き戻されるように頷くと、考え込んだまま無言でその衛兵の後をついて歩き出した。
やがて案内されたのは、王都の裏通りにある静かな一角に佇む、地下道へと続く重厚な鉄製の扉だった。
ヒロはしゃがみ込み、まずはその鍵穴と周辺をじっと観察する。しかし、外部から無理やりこじ開けたような乱暴な痕跡や、擦れ傷などは一切見当たらない。
「鍵、貸してください」
衛兵から受け取った鍵を差し込み、試しに何回か回してみる。引っかかりもなく、何の問題もなく動作した。
「……やっぱり、どこも壊れてない」
それでも、ヒロは肩から重い工具箱を下ろすと、道具を取り出し、手際よく鍵の内部構造を分解していく。
しかし、精密な内部のパーツを隅々まで調べ上げても、摩耗や故障といった不具合は無かった。
「どうだ? やっぱり変だろ?」
心配そうに覗き込む衛兵の声を他所に、ヒロは工具を置き、ゆっくりと目を閉じた。
そして、探知魔法を、その小さな鍵穴へと極限まで集中させた。ふわり、と意識の網が鍵穴の金属の奥底をなぞる。
その瞬間。
ヒロの背筋に、冷たいものが走った。
微かだが、確実にそこにはあった。
意図的な破壊でも、物理的な不具合でもない。――明らかに、何者かの『魔法』によってこじ開けられた痕跡である、微弱な魔力の残穢が、鍵穴の奥底にこびりついていた。
(魔法で……開けられている?)
物理的な鍵など最初から無意味と言わんばかりの、巧妙で不可視の侵入経路。
それは、昨夜王都の真ん中で忽然と気配を消した、あの正体不明の影の仕業を嫌でも連想させるものだった。
ヒロは激しく首を振り、頭の中に浮かびかけた最悪の仮説を強引に振り払った。
(いや、まだそうと決まったわけじゃない……。)
だが、物理的な故障ではなく魔法によって鍵が解錠されている以上、何者かが不正にこの地下道へ侵入しているという事実だけは揺るぎなかった。
ヒロは工具を片付けながら、事実だけを簡潔にその場の衛兵に伝えた。
その報告を聞いた衛兵は、険しい顔つきでしっかりと頷いた。
「よし、後は俺たちの仕事だ!」
そう言い残すと、衛兵はすぐさま踵を返し詰所の方へと走り去っていった。
(これでいい。僕が深追いする必要なんかない)
ヒロは自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。
専門外の危険な事件に首を突っ込むのは御免だ。衛兵たちが動き出したなら、職人である自分の役割はここで終わりなのだから。
そう思い直して、ヒロは気持ちを切り替えるように懐から次の依頼書を取り出した。
――さて、残りの仕事をさっさと済ませて、ギルドに戻るとしよう。
その後の仕事は滞りなく進み、ヒロはいつものように街の人々からあたたかい差し入れを受け取りながら、ギルドへ向けて足を動かしていた。
しかし、ふと手元のカゴに目を落とすと、いつもより明らかに差し入れの数が少ない。別に自分ががめつく欲しがっているわけではないのだが、普段ならカゴが溢れかえり、差し入れを断念する人々が出てくるほどなのだ。
何となく物足りなさを覚えながら歩いていると、道の脇にある八百屋の女主人がヒロの姿に気づき、すまなそうに声をかけてきた。
「ごめんねー、ヒロちゃん。今日はあんまり残ってなくてさ。なんか、朝からすごい量を買い込む変な客がいて、根こそぎ持ってかれちゃったのよ」
ヒロは慌てて手を横に振る。
「だ、大丈夫ですよ! むしろ普段からいつも貰いすぎてるぐらいですし、気にしないでください!」
すると、そのやり取りを聞いていた周りの商店の店主たちも、商品を片付けながら不思議そうに首を傾げ始めた。
「そういや、あいつは何だったんだろな」
「あんなに大量にまとめて買い込んで、どうする気なんだか」
「冒険者って感じでもなかったし、かといって大きな店の料理人にも見えなかったがな……」
口々に首を捻る住人たちの様子に、ヒロは胸の奥でふと嫌な予感がよぎった。思わず、真剣な顔つきで周囲の大人たちに尋ねる。
「あの……その人、どんな人だったか分かりますか?」
人々は「ええと……」と考え込みながらも、なんとか記憶を呼び起こそうとする。
「どんなって言われてもなぁ……。何と言うか、声をかけられるまでそこにいることすら気づかないぐらい、やけに影の薄いやつだったよ。顔を合わせても、なんだか全く記憶に残らないというか……奇妙な雰囲気の男だったね」
ヒロは再び浮かぶ嫌な考えを抑え込みながらギルドへ帰って行った。
お読みいただきありがとうございました!「続きが気になる」「面白い」と思っていただけましたら、画面下の「ブックマーク登録」や「★(評価)」で応援していただけると励みになります。




