気配
広場のすぐ脇にある小さな空き地。
普段は子どもたちが無邪気に走り回るだけのその空間は、今や王都中から押し寄せた野次馬と冒険者たちの熱気で埋め尽くされていた。
ギルド史上最年少で昇格記録を更新し続け、飛ぶ鳥を落す勢いでAランクへと駆け上がったガレス。
そして、歴戦の猛者たちをも圧倒し、王国最強と謳われる現剣聖、セバスチャン。
次代の最強候補と、本物の伝説。
その二人の模擬戦を一目見ようと、空き地を取り囲む群衆はかつてないほどの興奮に包まれていた。
その中央では、ガレスとセバスがそれぞれ木剣を手に向かい合っている。
一方、喧騒から少し離れた空き地の端。置かれた木製のベンチへ、ヒロとアンは並んで腰を下ろしていた。
ヒロは片手で頬杖をつき、どこか退屈そうにその光景を眺めている。
そんな彼の横顔を、アンはちらりと見て小さく首を傾げた。
「ねえ、ヒロ……剣は嫌い?」
ヒロは視線を中央の二人から外さないまま、小さく首を横に振った。
「嫌いとか、そういうのじゃないよ。必要なら振る時はあるしさ」
少し間を置いて、ヒロは淡々と、しかし冷静に言葉を続ける。
「ただ、この模擬戦は最初から結果が見えていて不毛だね。勝つのは、どう考えても剣聖だ」
アンは意外そうに目を丸くし、ヒロを覗き込んだ。
「まだ一太刀も交えてないのに? ガレスだって相当強いんでしょ?」
ヒロは当然のことだと言い捨てる。
「セバスさんの腰にあるのはレイピア。対して、ガレスの得物は大剣だからね」
ヒロは、二人が今まさに握り締めている木剣へと視線を向けた。
「でも、今持っているのは、どちらも同じ長さの軽い木剣だ。これじゃあ、条件がまったく対等じゃない。軽い木剣なら、剣聖の持ち味である圧倒的な速度と手数がそのまま活きる。逆にガレスは、本来の大剣だからこその重さ、絶妙な間合い、そしてあの膂力から生み出される一撃の威力を、全部削ぎ落とされる」
ヒロはつまらなそうに肩を竦めた。
「つまり、ガレスの得意な戦い方が何一つできない。勝負としては、全く面白くないね」
その理路整然とした分析に、アンはおかしそうにクスリと笑った。
「まるで真剣勝負ならガレスが勝つ、みたいな言い方じゃない?」
ヒロはふっと鼻で笑う。
「当たり前だよ。あの馬鹿なら、仮に体に本物のレイピアが刺さろうが、そのまま突っ込んでセバスさんごとぶっ飛ばすよ」
アンは一瞬、言葉を失ってきょとんとした。
だが次の瞬間、頭の中でその光景が妙にリアルに再生されてしまい、堪えきれず声を上げて笑い出した。
「……なんだかすごく分かる気がする!」
笑いながら、目尻に浮かんだ涙を指でそっと拭う。
その屈託のない笑顔を見て、ヒロも少しだけ、本当にわずかだけ口元を緩めた。
「じゃあ、僕は行くよ」
アンは驚いて、慌てて振り返る。
「えっ? 見ないの?」
ヒロはゆっくりと立ち上がり、軽く服についた埃をパタパタと払った。
「ガレスが負けるところなんて、わざわざ見たくないさ」
「それに――」
ヒロはふと目を細める。
「やることができたんだ」
その短い言葉を残し、ヒロは人混みへと足を向ける。
歩き出そうとした瞬間、背後からふと、強烈な視線を感じた。足を止めて振り返る。
――セバスだった。
これから始まる模擬戦を前に、木剣を構えたまま微動だにせず、静かにこちらを見据えていた。
ほんの僅かに。
周囲の誰にも気づかれないほど、ごく自然に、小さく頷いてみせる。
ヒロは小さく息を吐き出した。
(……まったく、買い被りすぎだよ)
そう心の中で呟きながらも、なぜか自然と口元が緩んでしまうのを止められなかった。
(ただ――、魔力探知には、ちょっと自信があるんでね)
ヒロは何も言わず、何事もなかったかのように踵を返し、静かに、しかし迷いのない足取りでざわめく人混みの中へと姿を消していった。
ヒロは人混みを縫うようにすり抜けながら、頭の中で思考を巡らせていた。
最初は、ほんの微かな違和感にすぎなかった。広場にたどり着く前から、まるで王女にまとわりつくような気配。ただ、その気配の元はうまく辿れずにいた。
しかし、模擬戦の開催が決まり、セバスとガレスが中央で向き合ったその瞬間、周囲の喧騒に紛れ込ませるようにして、異質な魔力の反応が弾けたのだ。
(まったく……。だから、模擬戦なんて受け入れたのか。わざと隙を作って敵を釣り出すために…..)
剣聖としての周到な意図と、護衛対象である王女すらも利用するその大胆不敵さに、ヒロは内心で舌を巻くとともに呆れ果てていた。
そのまま中央広場の石段を駆け上がり、ギルドへと続く大通りへ足を向ける。
――その時だった。
周囲を取り囲む古い建物の屋根の上から、かすかな風切り音が響く。
(……いた。)
ヒロは視線をあえて屋根の上へと向けることはせず、前を向いたまま淡々と歩き続ける。
今、自分が追っているのは目で捉える姿形ではない。肌を刺すような、研ぎ澄まされた魔力の残滓だけだ。
反応は一つ。影のように、屋根から屋根へと素早く移動していく。
(速いな。……いや、こっちが探っていることに気づいたか)
逃がすものかと、ヒロは瞬時に全身へ魔力を巡らせ、身体強化魔法を発動させた。
一瞬で加速したヒロは、大通りから人の目を避けるように一本裏の静まり返った路地へと滑り込む。
前方の魔力反応はまだ消えていない。あと少し、角を曲がれば距離が縮まる。
そう確信し、踏み込もうとした瞬間だった。
「……っ。」
張り詰めていた糸が切れるように、魔力の反応が完全に消え失せた。
ヒロは思わず急ブレーキをかけ、その場でピタリと足を止めた。
周囲の空気を探るように意識を広げる。だが、何度魔力を研ぎ澄ませて探っても、そこに返ってくるのはただの淀んだ路地の空気だけだった。
ここ数年、起きている間は一瞬たりとも途切れさせることなく常時発動させ続けてきた探知魔法。探知の精度だけは誰にも負けないという絶対的な自負があった。
その揺るぎない自信が、揺らいだ。
「……嘘だろ」
冷や汗が背筋を伝う。
しばらくの間、ヒロはその場に立ち尽くし、空っぽになった空間を見つめていたがやがて静かに踵を返した。
何も得られないまま、ヒロは再び喧騒の戻る広場へと静かに引き返していくのだった。
ヒロが再び人混みを抜け、中央広場へと続く石階段の上まで戻ると、いまだに始まらない模擬戦に人々は首を傾げ、あちこちでざわめきが広がっていた。
セバスは木剣を構えた姿勢のまま、一歩も動かず、周囲のわずかな気配を鋭く探っていた。
(……逃げられましたか)
セバスの背を冷たい汗が伝う。
その一方で、対峙するガレスは、肩に担いでいた木剣を下ろし、鼻をひくつかせながら周囲の空気を探っている。
「……。」
その顔から先ほどの野獣のような獰猛な笑みは綺麗に消え失せていた。
セバスは、ガレスのそんな硬い表情をちらりと見て、小さく息を吐き出す。
(やはり、君も……気づきましたか)
ガレスは気まずそうに木剣を握り直すと、ボリボリと乱暴に頭を掻いた。そして、あえて場違いなほど軽い口調で言い放つ。
「なあ。やっぱ、この勝負やめねぇ?」
その予想外の一言に、周囲の観客たちが一斉にざわついた。
「え?」
「どういうことだ、今から始まるんじゃなかったのか?」
ガレスは周囲の野次などどこ吹く風とばかりに、わざとらしいヘラヘラとした笑みを浮かべる。
「いやさ、なんか急にあの剣聖の殺気を感じたら、足がすくんじまってさー。怖くなっちまったわ!」
あまりにも白々しく、演技の下手くそな芝居だった。
セバスはそれを見て、思わず呆れたような苦笑を漏らす。
(……見事なまでの大根役者ですね)
だが、その芝居の裏に隠された真意を、セバスは痛いほど理解していた。
ガレスは「わりぃな!」と周囲へ向けて愛想笑いを振りまく。本当は、今この瞬間、のんびりと模擬戦に興じている場合ではないと、本能で察知していたからだ。
セバスは静かに、すっと木剣を下ろした。
そして、よく通る落ち着いた声で、広場全体に告げる。
「そこまでです。本日の模擬戦はここまでといたします」
その唐突すぎる宣言に、広場は一気に爆発的なざわめきに包まれた。
「おいおい、まだ一太刀も始まってねぇぞ!」
「ええっ、嘘だろ!」
「何でだよ、楽しみにしてたのに!」
観客たちから不満の声が次々と上がる。
しかし、セバスは一切の弁明も、追加の説明もしなかった。
ただ静かに主である王女アンへと一礼すると、すぐ傍に控えていた近衛兵たちへと鋭い視線を送る。
言葉はなくとも兵士たちは何かを深く察した。無言で敬礼を返すと、それぞれが周囲の警戒へと移り、持ち場へ素早く散っていく。
広場には、突然幕を閉じられた理由の分からないまま、ただ取り残された人々の混乱したざわめきだけが、いつまでもいつまでも残響のように尾を引いていた。
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