村人たちの想い
子供たちをそれぞれの家へ寝かしつけた大人たちが、再び賑やかな喧騒の残る広場へと戻ってくる。
焚き火の火の粉が夜空へパチパチと舞い上がる中、村長は静かに腰を下ろし、琥珀色の酒が入った杯をゆっくりと口元へと運んだ。
一口含んで喉を鳴らしたあと、白髪混じりの髭を拭いながら、しみじみとした声で周囲の大人たちに問いかける。
「――で、あの二人はどうじゃ?」
その問いかけを待っていたかのように、広場の空気がふっと引き締まる。
真っ先に口を開いたのは、ガレスの作業を見つめていた木こりだった。
「……化け物さ。あんなガキ、見たことがねぇよ」
木こりは杯を傾けながら、昼間の光景を思い出すように目を細めた。
「九歳であの大人用の斧を自由自在に扱い木をへし折りやがる。おまけに、あのガレスの野郎、狩りでもとんでもねぇ真似をしてるらしいじゃねぇか」
そう振られたのは、先ほどまで山でガレスと同行していたベテランの狩人だ。狩人は苦笑しながら、しかし隠しきれない驚愕をその声に滲ませた。
「あぁ、本当にな。俺も腰を抜かしかけたさ」
狩人は酒をあおり、真剣な面持ちで続ける。
「足音を消し、風を読み、獣の死角を突く。教えたわけでもないのに、あれはもう『技術』じゃねぇ……。『本能』だ。いや、おそらく……あれは『スキル持ち』に違いねぇよ」
「スキル、か……」
その言葉に、周囲の大人たちの間でざわめきが広がる。
生まれながらにして天賦の加護、あるいは異能を宿す者――いわゆるスキル持ち。それはこの小さな陽だまり村のような山あいの集落では、めったにお目にかかれない、遠い世界の物語のような響きだった。
「九歳であんな異常な体力と筋力を持っていて、さらにあの野生の勘だ。……間違いない。あいつは、この小さな村になんか収まっちまう器じゃねぇよ」
木こりが遠くの暗がり――ガレスが眠る家の方角を見据えながら、呟くように言った。
誇らしいような、けれどどこか寂しさを感じさせるような、複雑な響きを帯びた言葉だった。
広場の一座は、しばし静まり返る。
村長は再び杯を傾け、火の揺らめく赤橙色の炎をじっと見つめたまま、静かに言葉を飲み込んでいた。
誰もがガレスの途方もない才能の大きさに圧倒され、同時に、その傍らにいるもう一人の少年に思いを馳せずにはいられなかった。
ふと、焚き火の隣に座っていた村の老婆が、手元の杯を見つめたまま、絞り出すようにポツリと言った。
「……なんだか、ヒロちゃんが可哀想だよ」
皺の刻まれた顔が、悲しげに歪む。
「ガレスちゃんばかりがどんどん大きくなって、あんなに強い力を手に入れて……。だけどヒロちゃんだって、あんなに優しくて、真面目で、頭のいい賢い子なのにねぇ」
その言葉に、周囲の空気が一気に凍りついたように重くなった。
誰もが、ガレスの圧倒的な才のそばで、ヒロが知らず知らずのうちに引け目を感じてはいないかと想像してしまったからだ。
ガレスが遠くへ行ってしまうのではないか。ヒロが置いていかれてしまうのではないか――そんな切なさが大人たちの胸を締め付ける。
言葉を失った村人たちの間を、パチパチと薪が爆ぜる焚き火の音だけが寂しく響いていた。
誰もが沈黙に沈みかけたその時だった。
「――くだらねぇ」
低く、けれど妙に腹に響く声が、その重苦しい空気を切り裂いた。
声の主は、普段はめったに口を開かない鍛冶場の親方、モルドだった。モルドは酒を一気にあおり、乱暴に木製の杯を地面に置いた。
「スキルなんぞいらん」
モルドの瞳が、炎の向こうを真っ直ぐに見据える。
「己の頭で考え、目で盗み、泥臭く体に叩き込んだ技術は……いざという時、必ずその身を助く」
無骨で、不器用で、しかし確信に満ちたその言葉に、村人たちはハッとして顔を上げた。
モルドはそれ以上多くを語らなかったが、その背中には、毎日静かに炉の前に立ち、一打一打に技術を刻み込んでいるヒロの姿を認める者としての、確かな誇りと信頼が宿っていた。
凍りついた空気が少しずつ溶け、焚き火の温もりが再び夜の広場に戻ってくる。
村長はフッと小さく息を漏らすと、再び穏やかな笑みを浮かべ、モルドに向かって杯を掲げたのだった。
「モルド、いいことを聞いた。ワシに考えがある」
こんな大人たちの密やかな心配や話し合いがあったことなど露知らず、ヒロとガレスの毎日は、変わらず穏やかで、そして着実に進んでいった。
二人はお互いの「得意分野」をより明確に分担し、それぞれの道へと没頭していくようになる。
ヒロは、無理に重い荷物を運ぶような力仕事にはほとんど行かなくなった。
その代わり、村の中心にある畑の様子を毎日のように逐一確認する。土の色や湿り気を見て栄養状態を正確に見極め、天候の移り変わりに応じて水やりの量を調整し、作物が最も育ちやすい環境を徹底的に管理した。
畑仕事が終わると、ヒロはそのまま鍛冶場へと足を運ぶ。モルドの背中から盗んだ技術を自分のものにしつつ、今度はその確かな手腕を活かして村人たちの家を回り始めた。壊れた農具の修繕、ガタついた木戸の立て付け、使い古された鍋の穴埋め。村のあちこちから頼まれる様々な修理を、ヒロはいつも丁寧かつ的確にこなしていった。
誰が教えたわけでもなく、村の生活の潤滑油となるような知恵と技術を、ヒロは静かに、しかし確実に自分の武器へと変えていこうとしていた。
一方でガレスは、自慢の怪力と野生の勘をさらに研ぎ澄ませていく。
木こりの仕事では、ただ力任せに木を倒すだけでなく、一本一本の木の癖や重心を感覚的に捉え、以前よりずっと少ない手数で木を倒せるようになっていた。
そして山に入れば、熟練の狩人たちすら目を見張る身のこなしで獲物を追い詰め、生きた実戦の中でその肉体と戦闘勘を爆発的なスピードで成長させていく。
圧倒的な個の力で限界を突破していくガレスと、知性と技術を磨き上げ、村の暮らしの支えとなっていくヒロ。
形は違えど、二人の少年はそれぞれの場所で、確かに自らの手で未来を切り拓いていた。
そんなある日、ヒロは村長に呼び出された。
村長宅の奥から穏やかな足取りで出てきた老人は、その手に古びた一冊の革表紙の本を抱えていた。
傷みはあるものの、丁寧に扱われてきたことが一目でわかるその品を、村長は静かにヒロへと差し出す。
「これを、お前に預けようと思う」
受け取ったヒロは、表紙に刻まれた掠れた文字に目を丸くした。
この陽だまり村において、文字が書かれた書物はこれ一冊きりだった。村が深刻な貧困に陥った際、いざという時のために最後の蓄えとして売却すべく、代々大切に取っておかれた村の至宝である。
中身を開けば、記されていたのはごく初級の魔術に関する理論や、基本的な術式の構築方法だった。
古書とはいえ、今の時代において専門的な価値などほとんどない。市場に持って行っても、大した金にはならないだろう。
それでも、物質的にも金銭的にも豊かとは言えないこの貧しい村にとって、それは文字通り「宝物」の名にふさわしいものだった。
そんな貴重な一冊を、村長は惜しげもなくヒロに手渡したのだ。
ガレスという圧倒的な「天性の才」が日に日に輝きを増していく中で、近くにいるヒロがもし、自分の無力さに引け目を感じてしまっていたら――。村の大人たちは、そんな懸念をずっと抱いていた。
けれど、村長は知っている。ヒロはいつだって冷静で、誰よりも賢く、村の暮らしを支えてくれる自慢の子供なのだと。
(ガレスばかりに目を奪われて、この賢い子を腐らせてはならん)
特別な才能はなくとも、この子にはこの子にしか見えない世界があり、掴める理がある。だからこそ、この本を読めば、賢いヒロであればきっと初級の魔法だって使いこなせるはずだ――。
それは確かな裏付けがあるわけではない、しかし村長がヒロという人間を心から信じているからこその、強い願いに満ちた確信だった。
戸惑うヒロに向かって、村長は優しく目を細め、白髪混じりの髭を撫でながら心の内を語った。
「お前なら、これを活かせる。……お前は自慢の子供だ、ヒロ」
その言葉に込められた温かな想いと、差し出された古びた魔法書の重みが、じわりとヒロの胸の奥を熱くさせる。
その日の夜。
いつもの小さな広場では、今日も変わらず賑やかな宴が開かれていた。
赤々と燃える焚き火の周りで、村人たちが杯を交わし、笑い声を響かせている。
そんな喧騒の真ん中で、ヒロは目の前に並べられたごちそうに手を付けることすら忘れ、古びた魔法書に穴が空くほどかじりついていた。ページをめくる指がわずかに震え、頭脳のすべてを回転させて文字の理をその身に刻み込んでいる。
少し離れた場所では、そんなヒロの様子を、ガレスが嬉しそうに目を細めて眺めていた。
そのガレスの足元には、見慣れないものが立てかけられている。それは、まだ九歳の少年の背丈を優に超えるほどの、武骨で大きな鉄の剣だった。
広場の隅で、酒を飲んでいた村人が、ふと視線を向けた木こりに声をかける。
「おい、いいのかい。あんな大事なものを、あいつに渡しちまって」
木こりは静かに杯を傾けると、満足そうな笑みを浮かべながら、ガレスとその傍らの大剣、そして熱心に本を読むヒロへと視線を走らせた。
「いいさ。……ヒロには魔法書。ガレスには剣。最高の組み合わせじゃねぇか」
その剣は、木こりが若い頃、まだ見果てぬ外の世界を旅していた冒険者時代に、幾度となく命を預けた相棒だった。
世間が持てはやすような名の通った業物でもなければ、美術品のような美しさもない。刃はところどころ潰れ、長年の戦いで刻まれた傷が無数に残る、ただの鉄の塊のようなボロボロの大剣だ。
けれど、それを木こりから手渡された時、ガレスはいつもの底抜けに明るい笑顔や、おどけた様子をピタリと消した。
真剣そのものの、まっすぐな瞳で大剣を見据え、こう言ったのだ。
――「一生、こいつを使う」と。
その時の少年の真摯な顔を思い出して、木こりは胸の奥が温かくなるのを感じていた。
もう自分には必要のない、かつての相棒。それを、これから新しい時代を駆け抜ける本物の化け物に託したのだ。もう未練など、一片たりとも残っていなかった。
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