不安
次の日の朝。
ヒロはいつものように、リリアの受付の前に立って手続きを進めていた。
手際よく書類を確認していくリリアだったが、今朝はどこか様子がおかしい。動作が少しぎこちなく、顔の青白さが気になったヒロは、心配そうに眉を寄せながら声をかけた。
「リリアさん、大丈夫ですか? なんか顔色が悪いみたいですけど……」
その言葉に、リリアはピタリと書類の処理の手を止め、ゆっくりと顔を上げた。そして、いつもより少しだけ弱々しい、困ったような笑みを浮かべる。
「昨日の夜、飲みすぎちゃって……」
昨日の夜、遠くの席から聞こえてきた楽しげな歓声を、ヒロはふと思い出した。遠くて何を話しているのかまでは分からなかったけれど、みんなで盛り上がっていたのは伝わってきた。
思わず「ふふっ」と優しく笑いながら、腰から下げていた薬嚢から小さな包みを取り出し、リリアのカウンターへとそっと差し出した。
「これ、二日酔いによく効く薬なんです。……ここだけの秘密ですけど、実はギルドマスターの愛用品なんですよ」
驚きつつも、その優しさに甘えるように、リリアは差し出された包みを受け取り、水と一緒に飲み干した。
ヒロは、差し出した薬を飲んだリリアの様子をじっと見つめていた。
すると、どうだろう。
リリアの頬がふわりと綺麗な桜色に染まり、さっきまでの青白さが嘘のように引いていくのが分かった。
(うわ……、この薬、こんなにすぐ顔色が良くなるんだな……!)
ヒロは心の中で感心していた。
その時だった。
勢いよくギルドの重厚な扉が開かれた。
あまりの音に、ヒロはビクッと肩を震わせて振り向いた。赤い閃光のような影が、凄まじい勢いでこちらに向かって駆け寄ってくる。
――ガレスだった。
「ヒロ!! 剣聖だ!!」
大きな音を立ててヒロの目の前に立ち止まったガレスは、激しく肩で息をしながら、まるで新しいおもちゃを見つけた子供のように、ワクワクとした感情を隠しきれない表情で叫んだ。
何のことやら全く分からず、ヒロは目をパチクリさせながら尋ねる。
「……いったい何の話?」
ガレスは大きく息を吸い込み、乱れた呼吸を整えながら早口でまくしたてた。
「アンの隣にいっつも居るあの執事だよ! 立ち姿からしてただもんじゃねぇ、強そうだとは思ってたが……あの爺さん、『剣聖』らしいぞ!!」
(……なんだ、そんなことか)
ヒロは内心、やれやれと呆れてしまった。
街やスラムで彼らの姿を何度も見かけているヒロにとっては、今さら驚くような話ではなかったからだ。
しかし、すぐに考えを改めた。
ガレスはいつも王都の外へ出る討伐依頼ばかりを優先して受けており、街の噂やこの国の事情には疎い。彼が今の今まで知らなかったとしても無理はないか、と。
「……ああ、剣聖セバスチャンのこと? 知ってるよ。それがどうかした?」
ガレスはふふんと自慢げに鼻を鳴らすと、力強く腕を組み、仁王立ちになって言い放った。
「決闘を申し込む! 勝ったら、今日から俺が『剣聖』を名乗る!!」
「……はあ?」
ヒロは呆れ果てて大きくため息をつくと、リリアの受付の方へと向き直り、面倒くさそうに手をひらひらと振った。
「バカなこと言ってないで、さっさと工房の手伝いでもして来な……そもそも、王女の専属執事に決闘なんて挑んだら、それこそ不敬罪どころか死罪に――」
「ヒロも絶対見に来いよ!」
ヒロが最後まで言い終わるよりも早く、ガレスは豪快に笑いながら身を翻した。ヒロが慌てて振り返った時には、すでにガレスの巨体はギルドの出口へ向かって猛然と走り出していた。
「――っ、待て! ガレス!」
ヒロは急いでカウンターに視線を戻し、焦ったように告げる。
「リリアさん、これやっぱりなしで!!」
そう言って書類を慌てて返すと、ヒロは足元に魔力を巡らせ、身体強化魔法を全身に一気に発動させた。
――絶対に追いついて、止める!
ヒロは赤い工具箱をしっかりと押さえながら、ガレスを追ってギルドの外へと飛び出した。
ガレスを追いかけながら、ヒロは思わず小さく吹き出しそうになった。
(相変わらずなんて分かりやすい魔力なんだ……)
怒涛のように暴走する熱いガレスの魔力の波は、周囲の風景に溶け込むことすら忘れているかのように派手に周囲へ放たれていた。もしかしたら、わざわざ探知魔法なんて使わなくても、気配だけで余裕で追いつけるかもしれない。そんな呑気なことを考えていた矢先、前方でガレスの移動がピタリと停止したのが感知できた。
息を整えながらようやくガレスに追いつくと、彼は王都の中央広場へと続く長い石階段の上で足を止め、じっと下を見下ろしていた。
王女アンが訪れている中央広場は、一目彼女の姿を見ようと集まった群衆で、どこもかしこも人で埋め尽くされていた。広場からあふれ出た人々は、この石階段の上まで長い列をなして溢れかえっている。
ガレスは周囲の圧倒的な人の壁を見て、さすがに気圧されたのか、小さく口を開いた。
「……こりゃ、近づけねぇな」
ヒロはハッと息を吐き出し、呆れたようにため息をつく。
「近づくなよ。頼むから、決闘なんて挑まないでくれ」
しかし、ガレスからの返事はなかった。
その妙な沈黙が、ヒロにとっては一番不安だった。
ヒロはガレスが勝手なことをしないように意識を向けながらも、冷たい石造りの手すりに肘をつき、眼下に広がる中央広場の様子を静かに眺めた。
そこには、多くの民衆に囲まれながら、一人ひとりの前で丁寧に足を止める王女アンの姿があった。
子どもの名前を優しく呼び、不安そうな老人の手を取り、農夫の言葉にもじっと耳を傾け、心からの笑顔で言葉を交わしていく。そこに政治的な打算や、作り笑いのような欺瞞は一切感じられなかった。
ふと、口をついて言葉が漏れた。
「……あれを、もう五年も続けてるのか」
その横顔見てガレスは、ニカッと豪快に笑ってみせた。
「なんだよ、お前も案外感心してんじゃねぇか。アンってさ、やっぱいいやつだよな!」
ヒロは鬱陶しそうに肩を竦めて見せる。
「まさか。暇なだけでしょ。ただのアピールだよ。……それに、一人ひとりに優しく言葉をかけたところで、生活が豊かになるわけじゃない。そんなことに時間を使うくらいなら、スラム街の問題に、もっと予算と力を割いてほしいね」
ヒロの視線はその少し後ろへと移る。
王女から一歩引いた位置で、微動だにせず周囲を警戒する老紳士。
完璧に仕立てられた執事服に身を包んだ、白髪の男。
――現剣聖、セバスチャン。
ガレスは腕を組んだまま、じっと広場を見据えながらおもむろに口を開いた。
「……どう見る?」
いつも言葉足らずで、思いついたことをそのまま口にするガレス。しかし今回ばかりは、彼が何を指して聞いてきているのか、わざわざ聞き返さなくてもよく分かった。
ヒロはセバスチャンの立ち姿を冷静に分析し、淡々と告げる。
「重心の置き方、いざという時に一瞬で剣を抜ける手の位置、周囲のすべてを網羅する鋭い警戒の視線、そして護衛対象である王女との絶妙な距離感……。隙がなさすぎる。完璧だね。相当強いよ」
ヒロのその評価を聞いて、ガレスは満足そうに大きく頷いた。そして、不敵な笑みを浮かべて獣のように鼻を鳴らす。
「やべぇ匂いがプンプンする……ありゃ、正真正銘のバケモンだ」
ガレスの持つ、危険を察知する異様なまでの野生の勘。その鋭さに内心感心しながらも、ヒロは面倒なことに巻き込まれないよう、なだめるように言った。
「分かったなら、もう満足でしょ。ほら、大人しく帰ろう」
しかし、ガレスは返事をしなかった。
ただじっと、微動だにせず下の様子を見つめている。
再度の沈黙。ヒロはまた不安に襲われた。
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