ギルドの『掟』
ヴェストリア王国の王都。
その中心街にそびえ立つ、王国最大のギルドには、いつの頃からか奇妙で、しかし絶対的な「掟」がいくつも存在していた。
それらはギルドの分厚い規約集に記されたものではない。受付嬢や荒くれ者の冒険者たちが自然と作り上げた、破る者のいない不文律――「暗黙の了解」だった。
まず一つ目の掟。
「氷の女王、リリアの窓口に、黒髪で赤い工具箱を肩から下げた青年・ヒロが向かった場合、問答無用で列を譲れ」
それは決して、ヒロ個人を特別扱いしているわけではない。自分自身のために順番を譲るのだ。なぜなら、ヒロの対応をしている最中やその直後のリリアは、普段の氷のような冷たさが嘘のように溶け、ほんの少しだけ口元が緩み、対応が若干優しくなるからだった。その恩恵にあずかるためなら、一人分の待ち時間など安いものだった。
そして、二つ目の掟。
「見習い冒険者であるヒロを、万が一にも馬鹿にしたり、邪険に扱ったりしてはならない」
もしそれを破って本人に直接突っかかったりしようものなら、その日のリリアの機嫌は底なしに悪くなり、ギルド全体の空気まで凍りつくことお構いなしの「氷の女王モード」が全開になる。
だが、それ以上に恐ろしいのは、リリアの機嫌が悪くなることで割を食う奴らの存在だった。
リリアの窓口の列には、なぜかいつも頑なにベテランの冒険者たちがズラリと並んでいる。彼らはみな、リリアの圧倒的な仕事の早さを信頼している――というのは表向きの理由で、本当のところは、幼い頃からの彼女の境遇を知るただの親心だったりする。
そんな常連のベテラン猛者たちを敵に回し、リリアの機嫌を損ねようものなら――。
「おい、新入り。お前、そこの窓口の空気をこれ以上冷やすなよ」
と、周囲の強面たちから圧をかけられ、この王都のギルドで二度とまともに仕事ができなくなることは確実だった。
そして、このギルドで最も厳格で、絶対に破ってはならない最後の掟。
「リリアの髪飾りを、決して馬鹿にするな」
それは過去の壮絶な事件によって刻まれた、王都ギルド最大の絶対不可侵な掟だった。
リリアがその髪飾りを身につけるようになって、しばらく経った頃のこと。事情を何も知らない他所の街から流れてきた冒険者が、窓口で手続きをしている最中、リリアの髪に光る無骨なそれを見つけて、悪気なくこう言い放ったのだ。
「――なんだよ、あの安っぽい変な髪飾りは?」
その瞬間だった。
受付嬢長を先頭に、カウンターの中の若い受付嬢たちが全員、殺気すら帯びた目でカウンターから一斉に飛び出してきた。
それだけではない。事情をよく知るベテランの冒険者たちが「おい、今なんつった……?」と、強烈な殺気を放ちながらその男をグルリと無言で取り囲む。
さらに、食堂の隅で肉を食っていたAランク冒険者のガレスに至っては、「テメェ、今の言葉もう一回言ってみろ!!」と怒鳴り散らしながら椅子を蹴飛ばし、真っ赤な顔をして飛びかかろうとした。
ギルド内は一瞬にして地獄のような修羅場と化し、もはや誰にも止められない大騒動へと発展した。
あまりの騒ぎを聞きつけたギルドマスターが、奥の執務室から慌てて飛び出してくる事態となり、最終的にはその場にいた全員が「自宅謹慎処分」という前代未聞の処分を下されることに。
結果として、その日は王都最大のギルドが事実上の「臨時休業」に追い込まれてしまったのである。
それ以来、あの歯車とネジの髪飾りは、このギルドにおいて「触れれば全員で破滅する禁忌の聖域」となった。
今日もリリアは、その誇らしげな髪飾りを揺らしながら、正確無比な手際で書類を処理している。
誰もがその美しさと、そこに込められた絆を知っているからこそ、今日もギルドの平和は、その無骨なネジと歯車によって静かに守られているのだった。
「よしっ!できた!」
そう言って、リリアの隣の受付嬢は元気に声を弾ませながら、書き上がったばかりの羊皮紙を高々と掲げた。そこには、あの有名なギルドの「掟」がユーモアたっぷりに書き連ねられている。我ながらいい出来だ。
リリアが呆れたようにふっと息をつき、その羊皮紙をちらりと覗き込んで苦笑している。
「もうっ! 暇だからって、勤務中に何を作ってるんですか?」
それを聞いてニヤリと悪戯っぽく笑い、意地悪な声音で言い返す。
「そんなこと言いながら、リリアだってヒロくんの提出書類をじーっと見つめてるじゃん。」
「なっ……! そんなことありません!」
リリアは慌てたように手元の書類で羊皮紙を隠し、顔を赤らめる。その必死な否定の仕方は、普段の「氷の女王」の面影などどこにもない、ただの年相応の女の子のそれだった。
そんなリリアの姿を横目に、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
(……本当、こんなに可愛い顔するんだよね、リリアって)
今まで何年も、誰にも心を開かず、ただ冷徹に仕事をこなしてきた彼女を隣でずっと見てきたからこそ、今のリリアが愛おしくてたまらない。そんな感慨に耽っていた時、ハッと顔を上げた。ーー忘れてた。
「あ、そういえばさ、リリアって二十歳になったんだよね?」
「ええ。この間……」
リリアはそう答えると、自然と右手が伸び、髪のサイドで鈍く光る歯車とネジの髪飾りを愛おしそうに、指先でそっと撫でた。
毎日のように、一日に何度も繰り返されるその微笑ましい仕草。それを見るたびに、周りの受付嬢たちはお腹いっぱいだと言いつつも、微笑ましく見守っていた。
わざとやれやれといったふうに両手を広げて言った。
「あー、はいはい、その惚気はもう十分見たから! そうじゃなくてさ、お酒!」
リリアが「……え?」っと首を傾げる。
「――飲みに行こうよ!」
その言葉が響いた瞬間、フロアのあちこちで書類をまとめていた他の受付嬢たち全員の手がピタリと止まり、一斉にバッとこちらを振り返った。
ーーその日、リリアは人生での初めてのお酒を飲む。
それは、長年一緒に働いてきた受付嬢たちの「女子会」だった。
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