宝石
ギルドの受付は、今日も今日とて激しい戦場のような忙しさに包まれていた。
そのフロア全体を鋭い気配で完璧に仕切っているのは、受付嬢の長である女性だ。年齢は三十五歳。十歳という若さでこのギルドで受付嬢という職につき、文字通り「受付嬢一筋」で生きてきた。おかげで浮いた話など微塵もなく、ただひたすらに日々の業務をこなし、ギルドの裏方として組織を支え続けている。
規律に厳しい彼女が目を光らせていなければ、若い受付嬢たちはすぐに冒険者とふざけ合ったり、窓口を放置して楽しそうに雑談を始めたりと、やりたい放題になってしまう。
「はいそこ、おしゃべりはそこまで! 手を動かしなさい!」
フロア全体に響く、優しくも凛と厳しいその声に、若い受付嬢たちはビクッと肩を揺らして慌てて仕事に戻る。
ふと、視線をカウンターの端へと動かした。そこには、静かに黙々とペンを走らせる一人の女の子いや、もう女の子と呼ぶのは少し違うかもしれない。今日で、彼女は二十歳になったのだから。
(リリア……)
昔の自分の姿が重なる。
自分と同じように十歳という若さでこのギルドの門を叩き、右も左も分からないままがむしゃらに働き始めたあの頃。リリアのこれまでの境遇や、ここで重ねてきた努力のすべてを、一番近くで見守り、知っていた。
今のリリアは、周囲がどんなに騒がしくても決して流されることはない。誰よりも早く、誰よりも正確に書類を処理し、その完璧な仕事ぶりから、一部の冒険者たちの間では「氷の女王」なんて畏敬を込めて呼ばれることもある。
けれど、その冷ややかな「女王」の仮面の下にあるリリアのひたむきさと、ふとした瞬間に見せる年相応の柔らかい笑顔を引き出してくれた黒髪の少年ーーーヒロ。
二人が話す時は思わずそれに見入り、どうしても注意が出来なかった。
ーーそんな感慨にふけっていると。
ギルドの扉が勢いよく開く。
それは、この場所で二十五年働き続けてきた彼女ですら、これまでに一度も見たことのない光景だった。
何か大切なものを両手でしっかりと胸の前に抱え込んだヒロ。
そのヒロの背中を守るように、いや、背中を押すように続くAランク冒険者のガレスと工房の職人たち総出の大行進。
ガレスと職人たちの先頭に立ちヒロはまっすぐにリリアのいる受付カウンターへと向かって歩いてくる。
その異様な、しかし圧倒的な迫力に、受付嬢たちは一斉に手を止めた。
いつもなら「業務を続けなさい!」と一喝しなければならないのに声が出ない。
周囲の冒険者たちも、窓口が突然止まったことに文句を言う者は誰もいなかった。それどころか、全員が息を呑んでその光景に見入っている。
それもそのはずだ。普段は王都やスラムのインフラ整備で地下に潜るか、工房の奥にこもっている職人たちが、今日は総出で大挙して押し寄せているのだ。冒険者顔負けの、鉄を叩いて鍛え上げられた分厚い肉体を持つ男たちがゾロゾロと歩いてくるだけでも十分に異様だが、その脇には、あの若きAランク冒険者ガレスが堂々と歩いている。
(いったい、何が始まるんだ……?)
誰もがそのただならぬ雰囲気に気圧されていた。誰も声を上げない。誰もヒロの前を横切ろうとしない。
ただ、誰からともなく道を空けた。
まっすぐに――リリアの窓口まで。
受付嬢たちも、冒険者たちも、誰もがまるで時間を止められたかのように動けず、ただ静かに、その先にあるドラマの結末を見守っていた。
高鳴りを抑えきれず、思わず自身の持ち場である中央のデスクからそっと離れた。そして、カウンターの端に立つリリアの斜め後ろへと、音もなく寄り添うように立つ。
――懐かしい。
リリアがまだあどけない十歳の少女だった頃、初めてこのカウンターに立ち、不安に震えながら書類を処理していた時も、こうして後ろに回って見守っていたものだった。あの日から十年、少女は立派な「受付嬢」になった。
足音が近づいてくる。
揺れるギルド全体の空気が、一人の少年の動きに完全に引き寄せられていた。
フロアにいる全員が見守る中、ヒロがリリアの目の前でぴたりと足を止める。
抱えていた木箱をしっかりと両手で持ち、顔を真っ赤に染め上げながら、けれどまっすぐにリリアの青い瞳を見据えた。
「り、リリアさん……! ええと、その……お誕生日、おめでとうございます!」
勢いよくそう言い放つと、ヒロは持っていた小さな木箱をリリアの前にそっと差し出した。
ギルドの規約上、冒険者や一般の出入り業者から、受付嬢が私的な贈り物を受け取るなど本来はご法度である。
その規則を誰よりも厳格に守ってきたのは、他ならぬリリア自身だった。
だからこそ――差し出された木箱を見て、受け取ろうとしたリリアの手が、ピタリと宙で止まった。
その理由は痛いほどよく分かった。
「……受け取りなさい!」
――思わず口から飛び出したその声はギルド中に響き渡っていた。
それは、受付の長として、規約を司る者として、絶対にあり得ない言葉だった。
けれど。
彼女の心は、別の真実を叫んでいた。
これは間違っていない。
あとから個人的にこっそり渡す方法だってあったはずだ。それでも、ヒロがこの大勢の人間を引き連れ、この「ギルドの真ん中」という場所を選んで想いを伝えることの意味を痛いほど理解していた。
その少年の剥き出しの覚悟を、ここで無下にはできなかった。
「……」
リリアは驚いたように振り返った。
その顔を見つめ、優しく、そして力強く頷いてみせた。
リリアの瞳から迷いが消え、その瞳が、みるみる潤んでいく。震える両手をそっと伸ばし、ヒロが差し出したその小さな木箱を、両手でしっかりと受け取ったのだった。
いつのまにか、他の若い受付嬢たちもそれぞれの持ち場を離れ、仕事をすっかり忘れてリリアの周りに集まってきている。
規約を無視して「受け取りなさい」と叫んでしまった手前、今さら自分が若い子たちを叱るわけにもいかない。フッと息をつくと、リリアの肩に優しく手を置き、そっと声をかけた。
「開けてあげなさい。……彼も待ってるから」
その言葉に促され、リリアは恐る恐る木箱の蓋を開けた。決して華やかな宝石でもなければ、きらびやかな貴金属でもなかった。
――それは、歯車とネジ、そして使い古された金属の部品を組み合わせて作られた、不格好な髪飾りだった。
しかし、見れば見るほど、それがどれほどの手間と、どれほどの想いを込めて磨き上げられたものか痛いほどよく分かった。
リリアの視線がゆっくりと上がり、目の前にいるヒロへと向けられる。
ヒロは自分の渡したものがどう思われるのか不安でたまらないといった様子で、青い顔をしながら固唾を飲んでじっとリリアを見つめていた。
(この子は……)
震えるヒロの姿を眺めながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
十歳の頃から知っているリリア。身寄りもなく、誰にも心を開かず、いつも冷徹に「氷の女王」として生きるしかなかった彼女。
そんなリリアの心の氷を溶かし、ずっと胸の奥にしまい込んでいた笑顔や優しさを――この五年間をかけて、ヒロがもう一度、みんなの前へ連れ出してくれたのだ。
リリアが初めて見せる、泣きそうなくらいに愛おしい、世界で一番綺麗な笑顔がそこにあった。
リリアよりも先に、ヒロに向かって真っ直ぐに優しく微笑んで言った。
「……ありがとう」
その言葉を皮切りに、それまで静かに見守っていた受付嬢たちが、まるで合図でも聞いたかのように一斉に動き出した。
「さあ、急いで!」
「早く早く!」
リリアの両脇を抱え込んで大鏡の前まで移動させる受付嬢たち、そこには椅子を運び待ち構える者もいる。さらに、自分の私物のお気に入りの櫛を取り出しながら、その椅子の後ろで気合十分に袖をまくり上げている者まで現れた。
いつもの「氷の女王」としての威厳などどこへやら、一斉に可愛がられ、まるで我が家の末っ子のように扱われるリリアは、激しい動揺の色を浮かべながらも、抵抗する隙すら与えられずにされるがままおとなしくなっていく。
椅子に座らされ、慣れた手つきでサラサラの黒髪をとかされていくリリアの姿を、少し離れた場所からじっと見つめていた。
その瞬間、胸の奥から熱いものがこみ上げ、涙がこぼれ落ちていた。
(……私だけじゃ、なかったんだ)
自分ひとりが、この孤高なリリアをまるで娘のように案じ、気にかけているのだとばかり思っていた。けれど違った。あの厳しい職場の裏で、この受付嬢たちもまた、リリアのことを本当の「妹」のように大切に想い、心を寄せてくれていたのだ。
長年の緊張の糸がプツリと切れ、あふれる涙を拭うこともせず、ただ優しい笑顔でその光景を見守った。
やがて、リリアの美しい黒髪をとかし終えると、受付嬢たちは顔を見合わせ、満足そうにうなずき合う。そして、彼女たちの手によって、木箱からあの髪飾りが丁寧に取り出される。
そして、手を取られた。
…..えっ?
手のひらに髪飾りを乗せられる。
受付嬢たちは皆こちらを見ていた。
「……仕上げはお願いします!」
震える手でその小さな髪飾りをしっかりと握りしめた。
そして、周りの受付嬢たちに促されるまま、リリアの座る大鏡の前へと一歩一歩、ゆっくりと歩み寄る。
二十歳という人生の節目を迎えているというのに、普段からおしゃれなど一切気にせず、相変わらず飾りっけのない、そんなリリアの姿に、少し呆れつつも胸の鼓動は激しく鳴り響いていた。
(どこにつければ、一番邪魔にならないか……)
受付嬢としての彼女の仕事ぶりを、ずっと間近で見てきた。
大量の書類を確認するためにグッと視線を下げ、手続きが終わるとすっと顔を上げて、次の冒険者を毅然とした態度で呼ぶ。あの上下の動きのなかで、決して引っかからず、仕事の邪魔をしない場所。
迷うことなく、リリアの艶やかな黒髪のサイド、その絶妙な位置へと手を伸ばした。
丁寧に、しかし、しっかりと留め具を固定する。
ふと、正面の鏡に目をやる。
鏡に映し出されたリリアの姿を見た瞬間、息が止まった。
歯車とネジを無造作に組み合わせた、お世辞にも「綺麗で華やかなアクセサリー」とは言えない、無骨で不格好な髪飾り。
けれど、この世のどんな宝石よりも眩しく、一番輝いて見えた。
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