気持ち
その日から数日間、ヒロの毎日は一変した。
昼間はスラムのインフラ整備やギルドの依頼をこなし、それが終わると休む間もなく工房へと足を運ぶ。そして、日が暮れて辺りが真っ暗になるまで、黙々と作業に没頭した。
親方の指導は厳しかった。しかし、その教えはすべて、職人としての経験に裏打ちされた的確なものばかりだった。
髪を傷めないように、肌や髪に触れる接触面は徹底的に滑らかに磨き上げる。
片手で自然に開閉できる留め具にする。それでいて、ちょっとやそっとでは勝手に外れない。
一日中、長時間つけるものだからこそ、肩が凝らないように限界まで軽くする。だが、軽くしても何年も使い続けられるだけの強度をしっかりと残す。
髪飾りの「基礎」となる留め具の微調整だけで、丸三日という時間が溶けた。
「……髪飾りって、こんなに奥が深くて、作るの難しいんだ……」
あまりの難易度に、ヒロは思わず作業台にもたれかかりながらぐったりと呟いた。
その瞬間、ガツンと鈍い音がして、ヒロの頭に親方の重い拳骨が落とされる。
「いてっ!」
「馬鹿野郎。毎日身につけるもんだぞ。適当に作れるわけねぇだろ」
そう言いながら、親方はヒロが作り上げたばかりの小さな留め具をひょいとつまみ上げ、じっと目を凝らして眺めた。
あちこちを微調整し、何度も失敗して削り直したその金属のパーツには、ヒロの妥協のない執念と技術がしっかりと宿っていた。
親方はフッと鼻を鳴らすと、満足げにそれを作業台へ置いた。
「……ふん。もうこれ以上、教えるこたぁねぇな」
ヒロは慌てて作業台の前で立ち上がり、背中を向けようとした親方に向かって叫んだ。
「ちょっと待ってください! 肝心のデザインはどうすればいいんですか……っ!」
親方は足を止めず、面倒臭そうに片手をひらひらと振って振り返る。
「そらぁ、お前の贈りもんだろ?だったら、てめぇで考えやがれ!」
それだけ言い残すと、親方は自分の作業へと戻ってしまった。周りの職人たちも「そこから先は男の腕の見せ所だぞー」「がんばれ色男!」とニヤニヤしながら冷やかす。
ヒロはその場に取り残され、やっとの思いで完成させた留め具をじっと見つめた。
金属の冷たい輝き。徹底的に磨き上げられたそのパーツは、職人としての確かな技術の証だ。しかし、肝心の「形」が全く決まっていない。
いつもなら驚くほどよく回るはずの頭が、完全に停止していることに気づき、ヒロは盛大に青ざめた。
(どうしよう……形にできる技術は教えてもらったのに、肝心のデザインが全く思いつかない……っ!)
飾り。
これまでの人生で、そんなものを必要だと思ったことは一度もない。
剣は切れればいい。工具は使えればいい。仕事は効率が良ければいい。
それがヒロの当たり前だった。
だからこそ、ただ人を喜ばせるためだけの「形」というものが分からない。
可憐な花を模すべきか。空を駆ける鳥か。それとも、美しい宝石をあしらうべきか。
考えれば考えるほど、正解の形は霧の向こうへ遠ざかっていくようだった。
行き詰まりただ作業台の上の留め具を見つめる日々が続いていた。
そんなある日。
工房の重い扉が勢いよく開く。
「ヒロー!帰ったぞ!」
声の主はガレスだった。
その姿を見た職人たちは、顔を見合わせると、途端に悪戯っぽい笑みを浮かべてガレスを手招きする。
「おいガレス、ちょうどいいところにきた。聞いてくれよ、こいつ、デザインの段階で丸三日も頭を抱えて止まってやがるんだ」
「は?あん時からもう一週間だぞ?」
ガレスは呆れたように眉をひそめ、ヒロと作業台の上にある留め具を交互に見た。
そして次の瞬間、ガレスは何の迷いもてらいもなく、ドンと堂々と胸を張ってみせた。
「そんなもん、悩む必要なんてない!」
工房中の視線が、一斉に自信満々なガレスへと集まる。
「デザインなんて関係ねぇ! 大事なのは、相手を想う気持ちだろ!」
それは工房を突き抜け、外の街路にまで響き渡るような、あまりにも真っ直ぐで大きな声だった。
職人たちは一瞬ぽかんとして目をパチクリさせ――。
「はははははっ!」
次の瞬間、工房は耐えきれなくなった者たちの大きな笑い声に包まれた。
その中で、親方だけは腕を組んだまま、やれやれといったふうに小さく口元を緩めて笑っていた。
「……たまには、いいこと言うじゃねぇか」
ガレスの豪快な言葉にハッとさせられたヒロは、しばらくの間、言葉を失って立ち尽くしていた。
やがて、その胸のつかえがスッと降りたように、ヒロは小さく頷いた。
「……そうか。」
迷いの消えた足取りでそのまま立ち上がると、ヒロは工房の片隅へと歩いていく。そこには、役目を終えた金属くずが放り込まれた大きな木箱が置かれていた。歯の欠けた歯車、ねじ山の潰れたネジ、歪んだ板金。
かつては誰かの生活を支え、あるいは機械の一部として懸命に働き、そしてもう二度と表舞台には立つことのない、無数の「廃材」たちが無造作に積まれている。
ヒロはその中へ静かに手を差し入れ、一つ、また一つと部品を拾い上げていった。
「……おい、まさか」
職人の一人が、思わず息を呑んで声を漏らす。作業台の周りにいた全員が、息を潜めてヒロの手元を見つめていた。そんな中、親方だけは腕を組んだまま、じっと動かずにそれを見守っている。
「……黙って見てろ。」
親方が発したその短い一言に、工房の空気はピタリと静まり返った。
いつの間にか、職人たちもガレスも、全員がヒロを囲むようにして立ち上がっていた。
ヒロはもう何も話さない。
炉へと薪をくべて火を入れ、拾い集めた屑鉄をゆっくりと熱していく。
炎に包まれ、赤く染まった金属の部品を静かに鋏で取り出し、鍛冶台の上で丁寧に形を整えていく。
槌を振るう音にはもう、焦りも、迷いのかけらもなかった。
この部品たちは、もう前の場所では使えない。本当は、もっと華やかな場所で輝きたかったかもしれない。
槌を振りながら、ヒロは心の中で想いを馳せる。
……でも、一緒だ。
これを渡しても変に思われるかもしれない。自分の抱えたこの想いは報われないかも知れない。それでも僕は、リリアさんのことを好きで居続けたい。
――形を変えても、ここでこうして誇らしげに輝きつづける、この部品たちのように
一つひとつの部品が、まるで最初からその場所にあるべきだったかのように噛み合わせられていく。
溶接の技術も見事なものだった。
熱せられ、冷やされた金属同士の継ぎ目は肉眼ではほとんど分からない。寸分の狂いもない、ヒロの鍛え抜かれた職人としての技量がそこに結晶化していた。
親方も、まわりにいた職人たちも、そのあまりに正確で、それでいて魂の篭もった仕事ぶりに完全に目を奪われていた。
やがて――。
一つの髪飾りが、その全貌を現した。
完成したそれは、世間で言うような華やかなアクセサリーではなかった。
左右の形は完全には揃っていないし、美しい花を模したわけでもなければ、高価な宝石が埋め込まれているわけでもない。
どこか無骨で、不恰好で、一目で「鉄くず」から作られたとわかる代物だった。
ヒロがハンマーをそっと作業台に置く音だけが響く。
工房は再び、深い静寂に包まれた。
誰も口を開かない。
誰一人として、その不恰好な髪飾りを笑わなかった。馬鹿にする者は、この空間には一人もいなかった。
しばらくの沈黙の後、親方がゆっくりと、噛みしめるように口を開いた。
「……まさか、歯車とネジで作った髪飾りとはな。」
その声に、からかいの響きは一切なかった。
完成した不恰好な髪飾りをじっと見つめながら、親方は深く、何度か小さく頷いた。
「お前らしい、最高の一品だ。」
その短い一言だけで、これまでの迷いや苦悩のすべてが報われた気がした。工房の空気が、温かい誇らしさに満ちていくのだった。
親方はその後何も言わず工房の奥へと歩いていく。
しばらくして、両手で大切そうに抱えた小さな木箱を持って戻ってきた。
「……これに入れて渡せ。」
差し出されたそれを見た瞬間、ヒロは目を丸くした。
それは、丁寧に磨き上げられた木目の美しい、小ぶりな木箱だった。
すると、周りにいた職人たちが気まずそうに、けれどどこか誇らしげに顔を見合わせる。一人の職人が照れくさそうに頭を掻きながら言った。
「その蝶番は、俺が作ったんだ」
別の職人が、すかさず得意げに続ける。
「蓋の留め具は俺だ!」
「外側の木の漆塗りは、何層も重ねてある!」
「角の面取り俺がやった」
「最後のツヤ出しの磨きは、俺が完璧にしといたぞ!」
口々にそう言って笑う職人たちの顔には、からかいの色は一切なく、温かく誇らしい笑みが浮かんでいた。
「……お前一人の贈り物じゃねぇよ」
ガレスがガシッとヒロの肩を掴んで笑う。その手はかすかに震えていた。
「これは、この工房みんなからの応援だ」
親方がそう言った瞬間、工房全体に、たまらなく優しく穏やかな空気が広がった。
ヒロは、目の前にある小さな木箱をじっと見つめた。
この工房の職人たちと汗を流し続けてきた五年間。ずっと見てきたんだ。職人たちがどんなふうに金属を叩き、どんな癖で木を削るのか…..。誰がどこをやったかなんて、そんなことは言われなくても分かっていた。木箱の細部を見るだけで、全員の顔が浮かんでくる。
胸の奥が熱くなり、どうしようもなく込み上げてくるものがある。
ヒロは震える両手でその木箱をしっかりと抱え、その場に深く、深く頭を下げてお辞儀をした。




