見て覚えろ
初めての「定休日」から、すでに数週間が過ぎていた。休日のヒロの習慣はすっかり定着していた。
朝になるとツルハシと工具箱を担いでスラム街へ向かい、地下に潜って壁を少しずつ、しかし着実に掘り進める。汗だくになって地上へ戻った後は、街の人々にもらった差し入れを抱えて教会へ行き、子供たちと汗だくになって遊ぶ。そして一日の終わりに、神官の隣に並んで、いまだによく意味の分からない「祈り」を静かに捧げる。
そんな、目的と祈りが入り混じる休日にも、ヒロは少しずつ慣れ始めていた。
そして――訪れた、いつもの平日のこと。
ギルドでいつものように指名依頼を受け、王都の地下の保守・改修作業のため、ヒロは深く潜っていた。
「おい小僧! 今日はこっちだ!」
作業の陣頭指揮をとる親方に呼ばれて駆け寄った先で、ヒロは思わずその場に足を止め、息を呑んだ。
ここ最近のヒロは、その確かな腕を買われて比較的太い導管の整備を任されることが増えていた。だが、今日目の当たりにしたのは、それらの比ではない。王都の心臓部からまっすぐ延びる、巨大な主幹部分だった。
壁面に這うその配管の異様な太さに、ヒロは思わず圧倒されながら呟く。
「……これ、ものすごく太い、ですね……」
親方は不敵な笑みを浮かべ、フンと鼻を鳴らしながら腕を組んだ。
「見りゃ分かる。……で、どうした? びびって足がすくんだか?」
失敗したときの影響を想像した瞬間、ヒロの背筋に冷たいものが走った。
これはいつもの導管ではない。人々の日々の暮らしを支え、街全体を循環する魔力を運ぶ、この王都の「主幹部」だ。
ここでの失敗は、王都全域に張り巡らされた導管のすべてを狂わせ、魔力の流れを完全にせき止めることになる。魔力で灯る明かりも、調理や暖房のための火も、工場や生活を支える動力も――すべてが失われる。
文字通り、王都のすべてが止まる。
「……っ」
脳裏にあの「陽だまり村」の惨状が蘇る。何も守れなかった、あの圧倒的な無力感と絶望の記憶が。
「ぼ、僕には……出来ません」
震える声で、ヒロは一歩、また一歩と後ろに下がった。冷や汗が背中を伝う。自分には荷が重すぎる。任された誇りよりも、恐怖が全身を支配していた。
そんなヒロの様子を見て、親方は責めるどころか、むしろ深い納得の色を浮かべて満足そうに微笑んだ。
そして、ガシリと頼もしい手つきで、青ざめるヒロの肩に重い手を置く。
「……それでいい。こんな試すような真似をしてすまんかった」
親方の低く落ち着いた声が、ヒロの頭を現実に引き戻す。
「……試した、って……?」
「ああ。ここで何も考えず修理を始めるようなやつには任せられねえよ。恐怖を知っているからこそ、慎重に、丁寧に手を動かせる。」
親方の温かくて分厚い手に支えられながら、ヒロは大きく息を吸い込み、目の前の巨大な導管をもう一度まっすぐに見据えた。
ヒロが息を呑んで立ち尽くしているのを横目に、親方はフッと鼻を鳴らすと、自分の作業着の袖を無造作にまくり上げた。
そして、腰の工具入れから使い込まれた重厚な道具の数々を取り出す。
「……親方?」
ヒロは思わず目を丸くした。
この王都にやってきてから二年半。親方には数え切れないほど指導してもらい、技術を叩き込んでもらった。しかし、実際に親方が現場で作業をしている姿を、近くで見たことは一度もなかったのだ。
それもそのはず。工房でおそらく一番の腕を持つ親方が請け負うのは、いつも圧倒的な技術と経験が必要とされる難所ばかりだった。これまでヒロが任されていた場所とは、文字通りステージが違っていたのだ。
(工房一の職人の技が、間近で見られる……!)
恐怖や緊張はどこかへ吹き飛び、職人としての純粋な好奇心と興奮が、ヒロの胸を熱く焦がした。
ヒロは瞬きすら惜しいとばかりに目を皿のように見開き、これから始まる王都の生命線――主幹部の修繕の瞬間を、今か今かと待ち構えた。
親方がゆっくりと、しかし淀みなく槌を振り下ろす。
そこに派手な魔法の光や、誰も見たことのないような珍しい秘技なんてものは一切なかった。
ただ、長年かけて愚直に積み上げてきた基礎の反復と、寸分の狂いもない正確な軌跡だけがあった。
――美しい。
そして、その手際を目にした瞬間、ヒロの脳裏に雷が落ちたような衝撃が走った。
(……あれは)
モルドの槌の振り方に、驚くほどそっくりだった。
そして思い出す。ヒロはモルドから鍛冶の基礎と技術を必死に学び、その果てに自らの「修繕魔法」という理を編み出した。
(……それなら、親方の技術も魔法に出来るはず)
親方は、圧倒的な集中力で的確に主幹部の歪みや摩耗を修繕していく。
以前のヒロは、手当たり次第に傷ついた箇所を見つけては順番など気にせず直して、そのたびに親方から強烈な拳骨を食らっていたものだ。
『木を見て森を見ずだ! 全体を見ろ!』
当時はその言葉の意味が分からず、「順番が分からないなら、いっそ全部同時に直せば効率がいいじゃないか」と修繕魔法を同時発動し、なんとか親方を納得させた。
けれど――今のヒロには、親方の言う「全体」が手に取るほどよく分かった。
親方はどこを見て、どういう構造の負荷を考慮し、どの順番で力を逃がしながら直しているのか。その一挙手一投足のすべてが、完璧な論理として脳に染み込んでいく。
『見て覚えろ。盗んで覚えろ』
モルドの声が聞こえた気がした。
ヒロはそっと肩に担いだ工具箱に手を伸ばし、その金具を愛おしそうに撫でて、小さく微笑んだ。
(……ありがとうございます)
過去の記憶と目の前の技術が一本の線で繋がり、ヒロの胸の奥にあった最後の迷いは、綺麗に消え去っていった。
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