定休日
ガレスの依頼を選び、万全の準備を整えて送り出し、街のために自分の仕事を黙々とこなし、そして温かい笑い声の待つ酒場へと帰る。
静かで、けれど孤独ではない、かけがえのない日々。
もちろん、ガレスが帰ってくれば、酒場はあのどうしようもなくうるさくて、賑やかな日常へとあっという間に引き戻される。
どちらの世界も愛おしくて、ヒロはその日々に心から満足していた。
――だが。
そんな充実した毎日に、ヒロはあえて一つの「変化」を作ることにした。
それは、定休日。
この街では、日曜日は工房も休みになり、酒場も店を閉める。ギルドに舞い込む依頼の数もぐっと減る日だった。もちろん、やろうと思えば、仕事なんていくらでも見つけられた。事実、この二年半、ヒロは依頼がない日以外毎日のように仕事で駆け回っていたのだから。
それでも、あえて「休み」が欲しかった。
理由なんて大層なものじゃない。ただ、自分の一歩立ち止まる時間が欲しかっただけだ。だから、一番依頼の少ない日曜日を、自分の休日に選んだ。
そして迎えた、初めての「定休日」の朝。
静まり返った酒場の扉をそっと開け、ヒロは外へと踏み出す。その肩には、なぜかあの使い込まれた工具箱がしっかりと担がれていた。
王都の日曜日の朝は、商いをする店や行き交う馬車が少ないせいか、平日よりもどこか静かで、それでいて青空の下で穏やかな明るさに包まれていた。
「……なんだろ、この感覚」
ヒロは思わず苦笑交じりに呆れる。
自分が初めての「定休日」で心が軽くなっているからそう感じるのか、それとも本当に王都の空気が柔らかいのか。自分でもどちらが本当か分からなかった。
そんな他愛のないことを頭の片隅で転がしながら、足を進める。
やがて、賑やかな大通りを抜けた先、目的の場所へと辿り着いた。
そこは、王都の外れ――南門の一帯に広がる、薄汚れたバラックや崩れかけた石壁が並ぶスラム街だった。
ヒロが作ろうとした『自分の一歩立ち止まる時間』。
それは、初めてこの場所を目にして覚えた、どうしようもない無力感と絶望に、改めて真っ向から向き合うための時間だった。
(……これはいったい、何をどうやって直すんだ……?)
気持ちなんて、あの時から大して変わっていない。
埃まみれの路地裏に立ち、目の前に広がる歪んだ現実を見つめると、胸の奥がキュッと締め付けられる。
それでも――。
わざわざ自分で「定休日」を作り、依頼でも何でもないのに、この場所に戻ってくる決意をした。
ただ、それだけ。
ヒロは肩に肩に担いだ工具箱を無意識で撫でた。
せっかく自分で作った、週に一度の大切な休みだ。
行き当たりばったりではなく、しっかりと計画を立てて、まずは何から手をつけるべきか――。
今までは、依頼の合間や不意に空いた日にこのスラム街へ足を運び、目に付いた壊れた井戸や、雨漏りする建物の修理など、その場の思いつきでどうにかしてきた。
しかし、今日は違う。初めての「定休日」だ。焦る必要なんてない。
(……まずやるべきことは決まっている)
王都の中心部は人口が集中しているぶん、建物も上へ上へと伸びている。一本の配水管を通せば、その周囲に建つ集合住宅へまとめて水を届けることができるため、地下に張り巡らせる配管の距離は、住民の数に比べればずっと短くて済む。
――しかし、ここは違う。
視線をスラム街の奥へと走らせる。
南門の城壁すれすれまで、平屋のバラックが無秩序に広がっている。すべての家へ水を届けようとすれば、この広大な土地を掘り返し、細い配管を何本も枝分かれさせなければならない。
だからこそ、アプローチを変えればいい。
「各家がダメなら……この街の中心に、誰もが安心して使える共同の水場を作ればいいんだ」
ヒロの脳裏に王都の広場にある噴水の構造が浮かび上がっていく。
ただその場しのぎの修理をするんじゃない。この場所で暮らす人々の日常を根本から支えるための、確かな基盤を作る。
工具箱を肩に担ぎ直し、スラム街の端にある古びた点検口の蓋を力任せに開けた。
階段を下りていくと、ひんやりとした湿った空気が鼻をつく。
通路の奥へ奥へと進んでいくと、やがて視界が開け――その行き止まりで、ヒロは足を止めた。
王都の中心から張り巡らされてきたはずの頑丈な水道管は、華やかな街とこのスラムの境界線で、まるでピタリと見えない線引きをされたかのように、そこで途切れていた。目の前にあるのは、ただ無機質にそびえ立つ厚い地下の壁だけだ。
なぜだ?
彼らは王都に捨てられたのだろうか?
一瞬、胸に冷たい疑問がよぎるが、ヒロはすぐに首を横に振ってそれを振り払った。
スラムに来るようになって何度も目にしてきた光景がある。泥まみれになりながら、このスラム街の人々のために炊き出しをして、一人一人の手を取り器を持たせて、優しく微笑んでいた王女アンの姿を思い出す。
きっと、「見捨てられた」なんて言葉で片付けられるほど単純な話じゃない。
まだ十二歳そこそこの自分には預かり知れない、政治や構造といった複雑な事情が絡み合っているのだろう。
――だが、そんなことはどうでもいい。
誰が悪いとか、行政がどうとか、そんな理由を考えてもここにある現実が変わるわけじゃない。
どこまでやれるかなんて、やってみなければ分からない。
ただ、今は掘る。ひたすらに、この壁の向こうへ水を届けるために掘るんだ。
あの時、故郷の村で何もできなかった無力な自分とは、もう違う。
この二年間で魔力は底上げされ、身体強化魔法にも、確かな手応えと磨きがかかっている。
「……修繕魔法の逆をやればいいんだよな」
物質の結合を強め、破損を修復するその魔法を反転させれば、それは完璧な「破壊の理」となる。
「こんな壁……粉々にしてあげるよ!」
静まり返った地下水路に、少年の澄んだ声と、魔力が爆ぜる鋭い音が響き渡った。
ヒロは意気揚々と放った破壊の魔力を乗せ、渾身の一撃を地下の壁へと叩き込んだ。
しかし――。
ガキィンッ! と鈍い音が響き、壁を直撃したはずの魔力は派手な火花を散らしただけで霧散する。そして、そこに残ったのは、カランと音を立てて床に転がり落ちた、ほんの小指の先ほどの小さな石ころの欠片だけだった。
「……ははっ、相変わらず格好がつかないね」
ヒロは自分の情けない姿に、自虐的に、だけどどこか嬉しそうに息を吐き出す。
いきなり魔法だけでどうにかしようなんて、虫が良すぎた。気負いすぎて空回りする自分に苦笑しながら、ヒロはくるりと踵を返した。
「まずは、ツルハシを作らないとね」
向かう先は、町外れの工房。
今日は日曜日、もちろん工房は休みだ。ヒロはポケットの中で、あの鍵をしっかりと握りしめた。
地下の湿った暗がりから、光差す地上へと足を向ける。
そう、彼はただの冒険者見習いである前に「職人」なのだから。
◇
ふふんと誇らしげに鼻を鳴らしながら、ヒロは自らの手で打ち上げたばかりの出来立てのツルハシを肩に担ぎ、工房の扉を押し開けて外に出た。
ついさっき、頭で理屈ばかり考えて初めて実戦で使った破壊の魔法はからっきしだったというのに――不思議なものだ。そのツルハシは少し不恰好だが、どの道具屋に出しても恥ずかしくない出来栄えだった。
その姿を見かけた通りすがりの街の人々が、次々と声をかけてくる。
「おっ、ヒロ! よく似合ってるよ!」
「あれ、もしかして冒険者やめたのかい? おばちゃん、ようやく安心して寝れるよ」
ヒロは苦笑しながら頭をポリポリとかく。
「……見習いですけど、まだ、一応冒険者やってますってば」
冗談めかして笑うヒロに、別の店のおばちゃんが目を細めながら手招きした。
「ほら、今日も持ってきな!」
言われるがまま、ヒロが収納魔法からあの使い慣れたカゴを取り出すと、瞬く間に焼き立てのパンや果物が次々と放り込まれ、あっという間に山盛りになっていく。
「ほら、重いから落としなさんなよ!」
「ありがとうございます!」
街の人々からの優しさでカゴと胸がいっぱいになる。
「……はぁ、休みって、本当にいいもんだなぁ」
しみじみと呟いた直後、ヒロは自分の腕の中にあるカゴと、行き交う人々とのやり取りを思い返す。
結局いつもとやってること変わらなくないか……?
そう気づいた瞬間、なんだかおかしくなってきて、ヒロは一人で笑った。
笑いながらカゴの中をふと覗き込む。
その瞬間、ヒロの頭の中で「次に行くべき場所」がパッとひらめく。
差し入れがぎっしりと詰まったカゴを抱え、新しく作り上げたばかりのツルハシを肩に担ぎ、工具箱を揺らしながら、ヒロは歩き慣れた石畳の道を進んでいく。
やがて、見覚えのある建物が視界に入ってきた。
辿り着いたその場所は、街のはずれにある静かな教会だった。
かつて直した鉄門は音もなく開く。
(……うん、大丈夫)
自分の手で行った修理の出来栄えに小さくうなずいたその時だった。
そっと開けたはずなのに、どこで察知したのか、教会の庭で遊んでいた子供たちが一斉にこちらを振り返り、目を輝かせて駆け寄ってきた。
「ヒローーーッ!!!」
「遊ぼーーーっ!!!」
子どもたちの元気な歓声が、穏やかな日曜日の空気に響き渡る。
その賑やかな声に気づいたのだろう、教会の木の扉がゆっくりと開き、温和な顔をした神官が顔を覗かせた。
神官は、ヒロが肩に担いでいるピカピカのツルハシと、カゴからはみ出そうなほどの差し入れをジッと見つめ、クスクスと楽しそうに笑う。
「どんどん冒険者には見えなくなっていきますね」
神官の優しく柔らかな冗談に、ヒロは照れくさそうに頭をかきながら、いつもの屈託のない笑顔を浮かべるのだった。
子どもたちにカゴの中から焼きたての甘いパンや果物を配ると、あたりは一瞬で歓声と笑顔に包まれた。
その後はもう大変だった。鬼ごっこに、高い高い、すり減った庭でのチャンバラごっこ。日頃から街の仕事や地下の整備で鍛えた体力を使って子どもたちと全力で遊び、ようやく一息ついた頃には、ヒロも額にうっすらと汗をかいていた。
いつものように、教会の冷たい石造りの階段に腰をかける。
少し遅れて、神官が静かに歩み寄り、その隣にそっと腰を下ろした。
穏やかな風が吹き抜ける中、神官は前を向いたまま静かに呟く。
「……祈りましょう」
その言葉に、ヒロはふっと自嘲するような、どこか痛みを伴う笑みを浮かべた。
「……いくら祈っても僕には奇跡なんて使えませんよ」
神官は、その言葉を聞いて複雑な表情を浮かべた。ヒロが失った村のことも、欲している力も痛いほどよく分かっていたからだ。
だからこそ、神官は優しく、けれど諭すように静かに言った。
「祈りとは、目的のための手段ではありません」
神官はゆっくりとヒロの方を向き、穏やかな瞳で続けた。
「ただ、祈るのです」
ヒロの頭の中は、いつだって論理と目的で組み立てられていた。
スラムを良くしたいから、まず水を届ける。
水を届けるために、地下に降りる。
地下には壁があるから、それを壊したい。
壁を壊すという目的があるから、ツルハシを作る。
子供達だってそうだ。
楽しいから遊ぶ。
お腹が空いたから食べる。
すべては「目的」があって初めて「行動」が生まれる。
(……ただ、祈る?)
祈る暇があるなら、手を動かして行動に移せばいい。行動に移せない理由があるなら、考えればいい。何もない空間に向かって言葉を紡ぐだけの行為に、いったいどんな意味があるというのだろう。
――それでも。
ヒロはカゴの端を握りしめ、神官の言葉を胸の中で何度も反芻した。
理解はできない。効率的でもなければ、目の前の問題を直接解決するわけでもない。
なのに、その言葉を聞いた瞬間、心の奥が優しく溶かされるような感覚があった。
目的のない行為。
だけどそれは、焦燥感に追われ続けてきた自分の心を休ませるために、もしかしたら一番必要なものだったのかもしれない。
ヒロはゴツゴツとした石の階段から青空を見上げ、呟くように小さく息を吐き出した。
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