静かな朝
翌日の朝、ヒロは盛大に寝坊した。
慌てて飛び起きて窓の外を見ると、太陽はすっかり高く昇っている。それもそのはず、この二年間、ヒロは毎朝決まってガレスの豪快な薪割りの音で目を覚まし続けてきたのだ。相棒のいない朝がこれほど静かだとは、思ってもみなかった。
「……はぁ、我ながら情けないな」
自分自身の寝坊に呆れながら、ヒロは慌てて服を整え、バタバタと階段を駆け下りて庭へと飛び出した。
朝の冷たい空気を吸い込もうと庭に出ると、そこには同じく寝坊したのだろう、髪を少し乱した女将がぽつんと立っていた。
二人は顔を見合わせ、数秒の沈黙のあと、同時にふっと吹き出す。
「……ったく。あのバカがいないと、朝の起き方も忘れちまうね!」
女将のからりとした笑い声が、静かな朝の庭に大きく響き渡った。
その声に驚いたのか、二階の窓から「きゃっ!?」と慌てた声が聞こえ、少し遅れてセレナがパタパタと足音を立てながら、寝癖をつけたまま慌てて階段を降りてきた。
寝ぼけ眼で庭に出てきたセレナが状況を理解してキョトンとした後、またしても庭に大きな笑い声が湧き上がる。
しばらくして、三人の楽しげな笑い声がようやくおさまると、ヒロはふっと息をつき、真面目な顔つきに戻った。
ヒロは庭の脇に無造作に置かれていた、小さな斧をひょいと拾い上げた。
肩から重みのある工具箱を下ろし、ずっしりと安定した薪割りの台に腰掛ける。
手にした斧に目を向けると、刃はすっかり赤茶け、長い間放置されていたことがひと目でわかるほど錆びついていた。
(……まあ、そうか。ガレスはいつもあの大剣でやってたからね)
苦笑いを浮かべながらも、ヒロは工具箱から手入れ用の道具を取り出す。
慣れた手つきで錆を落とし、砥石を滑らせて刃先を丹念に研ぎ上げていく。
さらに、古びて傷んでいた木製の持ち手には、指先から微量の魔力をじんわりと流し込み、繊維の隙間まで補強して修繕を完了させた。
最後に、自分の手になじませるように、ヒロはその斧を軽く宙に向けて振ってみる。
シュッ、と鋭い風切り音が庭の空気を切り裂いた。バランスは完璧。手元に伝わる重みも心地よい。
――よしっ。
ヒロは口元に小さく笑みを浮かべ、気合を入れ直すようにしっかりと斧を握りしめた。
ヒロは薪割り台からスッと腰を上げると、足元に転がっていた太い丸太を一つ掴み、台の中央へとドンと立てた。
大きく息を吸い込み、構えた斧の刃先で木肌の「節」の走りをじっと見極める。
無駄な力みはない。呼吸を合わせ、身体の重みを乗せて振り下ろされた小さな斧は、綺麗な軌道を描いて丸太の中心を捉えた。
乾いた美しい音と共に、硬い丸太があっけなく真っ二つに裂け、均等な大きさの薪へと整えられていく。その一連の動作には、迷いもブレも一切なかった。
少し離れた場所でその様子を見ていた女将は、思わず目を丸くし、感心したように声を漏らす。
「……随分と手慣れてるじゃないか」
ヒロは手を止めることなく、流れるような手際で次の丸太を台に乗せながら、少しだけ遠い目をして答えた。
「……まあ、村にいた頃の名残ですよ。ガレスが大木を切り倒して丸太にした後は、それを細かく綺麗に整えるのがいつも僕の仕事でしたからね」
懐かしい日々の記憶を胸に、ヒロは再び小気味よい音を立てて、次々と薪を割っていくのだった。
ヒロが肩で激しく息をし、額から滝のような汗を流し始めた頃。
見かねた女将がゆっくりと近づいてきて、ヒロの小さな肩に手を置いた。
「代わんな」
ヒロは荒い息を整えながら、袖で額の汗をゴシゴシと拭い、ふと疑問に思ったことを口にする。
「……あの、女将さん。ガレスって、普段はいつもどれくらいの量やってるんですか?」
女将は袖を捲り上げ、ゴキゴキと肩を回しながら、呆れたような、それでいてどこか誇らしげな声で答える。
「あのバカはね、毎日ざっとこの倍は平然とこなしてるよ」
その言葉を聞いた瞬間、ヒロは「この倍……!」と目を剥き、相棒のとんでもない怪物っぷりを再確認して、思わず誇らしげに鼻をふんと膨らませた。
(……この倍! しかも、あんな取り回しの難しい大剣で!)
ヒロは次の瞬間ハッと気づいて動きを止める。
……え? 女将さんの、薪割り?
疑問が頭をよぎる暇すらなかった。
ヒロが振り返った時には、すでに女将は手斧を軽々と構え、その全身から驚異的な気配を放っていたのだ。
庭に、ヒュッと鋭い風が吹き抜ける。
そして、その風がぴたりと静まった次の瞬間。
目の前の丸太は微動だにせず一刀両断されていた。
ヒロは目を見開き、口を半開きにしたまま固まっていた。
見えなかった。音すらなかった。
切られたはずの丸太は、あまりにも一瞬の出来事だったせいで、自分が真っ二つに裂かれたことすら気づいていないかのように、元の形のままピクリとも動かず薪割り台の上に乗っている。
「……女将さん。あなた、一体何者なんですか……?」
ヒロが呆然とした声で問いかけると、女将はふっと不敵な笑みを浮かべただけで、何も答えずに次々と新しい丸太を台に乗せていく。
ただ、風が通り過ぎるような微かな気配だけを残し、丸太は次々と完璧な断面を見せて崩れていく。
ヒロは額の汗を拭うのも忘れ、その風圧で火照った肌を冷やしながら、女将の振るう斧を目で必死に追いかけようとした。
しかし、何度目を凝らし、どれほど集中しても、斧の影すら追えなかった。
――速すぎる。見えない。捉えられない。
この酒場で、いつも豪快に笑い、面倒見の良い母のように振る舞っているこの女性は、一体どれほどの修羅場を潜り抜けてきたというのか。
ヒロは言葉を失ったまま、圧倒的な背中をただ見つめ続けるしかなかった。
ほんの数分もかからないうちに、積まれていた丸太はすべて完璧なサイズに切り揃えられ、見事な薪の山を作り上げていた。
女将は荒い息一つ吐くことなく、手にしていた手斧を軽やかに放り投げて定位置に収めると、ヒロに向き直ってサバサバとした声で告げた。
「朝飯にするよ」
「……あ、はい」
ヒロは、完全に呆気にとられたまま、魂が抜けたようにコクコクと頷く。そして、有無を言わさぬその背中に従うように、ふらふらと足を引きずりながら酒場の中へと戻っていくのだった。
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