いつもの場所
二人の十二歳の誕生日から数日が過ぎ、日常が戻ったギルド。
いつものようにクエストボードの前に並んで立ったヒロは、チラリと隣のガレスの横顔を盗み見ながら、胸の中でそっと呟いた。
(……そろそろ、だな)
ヒロはボードから一枚の依頼書を剥がし、懐から地図を取り出し広げた。
指定された場所は、王都から遠く離れた山奥。往復するだけで丸一日はかかり、現地の調査や討伐を含めれば、帰ってくるまでに二、三日を要する宿泊を伴う遠征だ。
少しの寂しさが胸をかすめたが、ヒロはすぐに力強く首を振った。
――こんな感傷で、この天才を足踏みさせたりはしない。
「……ガレス、次の依頼、これにしよう」
「おう!」
ヒロが簡潔に目的地と作戦を説明し終えると、ガレスは頷き、一人で受付のほうへと向かっていった。
いつもなら一緒に並ぶところだが、今日のヒロはリリアのカウンターには向かわない。なぜなら、彼にはこれから果たすべき、もう一つの大切な役割があったからだ。
受付を済ませて戻ってきたガレスと共に、二人はそのまま工房へと急いだ。
工房の重い扉を押し開けると、炉の熱気が溢れ出してくる。親方や職人たちはヒロの表情を見て、何も言わずに二人を迎えた。
ガレスの手から愛用の大剣を受け取り、ヒロは砥石を手に取る。
シャリ、シャリ、と規則正しい音が響く。刃こぼれを直し、限界まで研ぎ澄ましていく。
傍らでは親方が腕を組んでじっとその作業を見守り、他の職人たちもガレスの防具や小物の最終調整を少しだけ手伝う。
「よし……これで完璧だ」
何度も何度も、ガレスの装備の細部を確認する。
留め金に緩みはないか。消耗している箇所はないか。忘れ物はないか。
自分のこと以上に神経をとがらせ、ヒロはガレスの胸当ての紐を、キュッと力一杯に締め上げた。
そして、逃げ出したいほどの不安を胸の奥に押し隠し、気合を入れるようにガレスの背中をパーンと音を立てて全力で叩く。
「頼むよ!」
「任せろ!!」
相棒の力強い返事と眩しい笑顔。
ヒロは遠くへ旅立つ大きな背中を見送った。
親方の、まるで岩のようにゴツゴツとした大きな手が、ぽんとヒロの肩に置かれた。
「……今日は休んでもいい」
労わるような低い声に、ヒロは力無く、どこか寂しげな笑みを浮かべて首を振る。
「ありがとうございます……でも、実は今日の依頼は受けてないんです。もしかして、指名依頼出してましたか?」
その、いつもよりあきらかに心ここにあらずといった表情を見て、親方はわずかに眉をひそめ、一瞬で考えを改めた。
「……いや、やっぱり撤回だ。しっかり働いてけ」
「えっ?」とヒロが目を丸くする。その隙を突くように、周囲で作業していた職人たちが一斉に手を止め、ガヤガヤとヒロを囲み込むように集まってきた。
「おいおい、そんな顔すんなって!」
「ガレスの野郎はそう簡単にくたばりゃしねぇよ!」
「そうだそうだ! こういう時はな、余計なこと考えちまう前に、とにかく仕事に打ち込むもんだ!」
口々に励ましの言葉を投げかける職人たちの荒っぽくも温かい笑顔に、ヒロの胸のつかえが少しだけ軽くなる。
彼らはヒロの背中をバシバシと叩きながら、今日も変わらない活気で仕事場へと押し戻していくのだった。
夕暮れ時、すっかり煤けた服をはたきながら工房を出て、ヒロはそのまま足早に冒険者ギルドへと向かった。
(……勝手に指名依頼を済ませちゃったけど、リリアさん、怒るかなぁ)
ギルドの重い木製扉に手をかけながら、ヒロは小さく息を吐く。規律に厳しいリリアのことだ、事後報告になれば呆れられてしまうかもしれない。
少しだけ上目遣いになり、恐る恐る受付のカウンターへと近づく。
「……あの、リリアさん」
ヒロのただならぬ気配を察知したのか、リリアがスッと顔を上げる。その視線を受けながら、ヒロはしどろもどろになりつつも正直に事情を説明した。
工房の方でどうしても片付けなければならない用事ができ、そのついでに舞い込んでいた指名依頼の案件を先に処理してきてしまったこと。正規の順番を踏まず、受付を通さずに仕事を済ませてしまったことを。
話し終えると、ヒロはびくびくしながらリリアの出方を待った。
リリアは、縮こまるヒロの様子をじっと見つめたあと、ふっと肩の力を抜いて呆れたように笑った。
「もうっ! ……心配したんだから!」
その言葉を聞いた瞬間、ヒロはハッと息を呑む。
――そうだ。この二年間、毎日のようにリリアの列に並び受付をしてもらっていたのだ。
怒られることばかり恐れていた自分が、急にひどく子供っぽく思えてくる。
ヒロは照れくさそうに頭をかきながら、バツが悪そうに呟いた。
「……すいません、つい」
するとリリアは、カウンターからふっと身を乗り出し、冷えたヒロの手を自分の温かい両手で包み込んだ。
「……大丈夫」
それ以上の詮索も、叱責もない。ただ一言、柔らかく響いたその声には、すべてを受け止めるような深い優しさが満ちていた。
不意の温もりに、ヒロは心臓が跳ね上がるのを感じ、一気に顔を真っ赤に染め上げる。
「っ……!」
言葉を失って固まるヒロをよそに、リリアは照れを隠すかのようにパパッと素早く書類を仕上げると、テキパキと今日の報酬をトレイに乗せて差し出したのだった。
報酬の入った革袋をしっかりと握りしめたまま、ヒロは逃げるようにギルドの扉を飛び出した。
がむしゃらに足を動かしているうちに、気づけば足取りはいつもの酒場の前へと辿り着いていた。どうやってここまで帰ってきたのか、頭の片隅が白く抜けていて全く思い出せない。ただ、手のひらには、さきほどリリアに包まれた温もりが残っている気がした。
ふう、と大きく息を吐き出して呼吸を整えると、ヒロはきしむ木製の扉をそっと押し開ける。
「……ただいま」
店内に足を踏み入れると、カウンターの奥で作業をしていた女将がチラッとヒロの顔を一瞥し、目を細めた。
そのすぐ隣で、手を止めたセレナがパッと顔を輝かせ、いつもの明るい声で出迎えてくれる。
「おかえり!」
セレナは慣れた手つきでヒロをいつもの席へと案内し、湯気の立つ温かい料理と冷たい水を運んできた。
テーブルの上に置かれたその皿も、水も、二人分。
置いた瞬間にハッと息を呑んだセレナは、自分の手元を見る。
「……っ! ごめん! ……つい、癖で」
なぜかガレスの不在を知っていて、申し訳なさそうに眉をひそめるセレナを見て、ヒロはふっと小さく苦笑いを浮かべた。
ヒロの視線が、ふとカウンターの端へと向けられる。
そこには、いつものように誰よりも静かに、しかしどこか見守るような落ち着いた雰囲気で、一人グラスを傾けるギルドマスターの姿があった。
(ああ、あの人が話してくれたのか)
「――すぐ下げるね」と、慌ててガレスの分の皿と水を引っ込めようとしたセレナの動きを、カウンターの中から女将の低い声がぴたりと制した。
「いいんだよ、それで」
女将は手元のグラスを拭く手を止めず、ふっと柔らかな笑みを浮かべてそう言った。
そして、作業の手を完全に止めると、店内の視線を一身に集めながら、そのままふらりと店の入り口の方へと向き直る。――そして、重い木製の扉に向かって、いつもの野太く通る声で容赦なく怒鳴りつけた。
「いつまで外でコソコソしてやがるんだい! とっとと入って来な、邪魔だよ!」
その突然の叱咤に、店内にいた全員が目を丸くして扉を見つめる。
ギイ、と重い木製の扉がゆっくりと押し開けられた。
そこに立っていたのは――ギルドの受付にいるはずの、リリアだった。
彼女の姿を見た瞬間、ヒロは目を見張り、先ほどまでの温もりが一気に蘇ったかのように、耳の先まで真っ赤に染め上げる。
セレナは驚きのあまり両手で口を抑え、息を呑んだ。
「……そんな……」
そんな店内の動揺をよそに、女将は静かにカウンターから歩み出ると、戸惑うリリアの体をしっかりと、包み込むように抱きしめた。
「……ごめんね。もっと早く、こうしてやりゃよかったんだよ」
女将の優しく染み入るような声に、カウンターの端に座っていたギルドマスターが、片手で目を押さえながら、ぐっと肩を震わせる。
胸に顔をうずめたリリアは、必死にかき消すように首を横に振った。
「……っ! 謝られることなんて、そんなのありません! 謝るとしたら……私の方なんですからっ……!」
状況が飲み込めず、ヒロはぽかんとしながら酒場の中を見渡した。
しかし、店内にいるたちの様子を見て、ヒロはハッとする。屈強な男たちが、あちこちで鼻をグスグスと啜り、目を赤くしているのだ。
この酒場で暮らし、多くの人々の喜怒哀楽を間近で見て、言葉を交わしてきたヒロだからこそ、痛いほどよく分かった。
これは、自分が踏み込んではいけない、彼女たちの長い過去と繋がりの物語なのだと。
(……こういう時、ガレスなら何て言うんだろうな)
ふと、今遠くの山で奮闘している相棒の顔が思い浮かぶ。ガレスなら、きっと無遠慮に、だけど全部を吹き飛ばすような大声で笑うはずだ。
ヒロは天井を見上げ、そして、すべてを受け入れるように、ふっと穏やかな笑みを浮かべた。
「――お腹すいた!!」
静まり返っていた店内に響いたその声に、女将がハッと顔を上げ、リリアが涙を拭い、セレナが驚いたように目を見張る。
次の瞬間、酒場は今までで一番温かい、優しい笑顔に包まれるのだった。
ヒロの何気ない一声をきっかけに、酒場はいつもの賑やかさと、どこか心地よい温もりを取り戻した。
湿っぽい空気は綺麗に吹き飛び、女将は「まったく、これだからガキは……」と照れくさそうに鼻を鳴らしながら厨房へ戻っていく。セレナもふっと笑いながら、新しい料理とジョッキを準備し始めた。
そんな中、リリアは自然な足取りで客席へと進むと――ガレスがいつも座っている特等席の隣、つまり、ヒロの斜め前の席に、すっと腰を下ろした。
ヒロはきょとんとまばたきをし、不思議そうに首を傾げる。
「……リリアさん? なんでそこなんですか?」
するとリリアは、少しだけ頬を染めながら、自分でもよく分かっていないといった様子で首を傾げた。
「うーん……なんとなく。そこは、多分座らないほうがいいかなって」
そのやり取りを近くで聞いていた常連の冒険者たちが、目を丸くして顔を見合わせる。
「おい、マジか……」
「すげぇな……」
「いや、ヒロの言う通り頭がいいんだな……」
ガレスの席ではなく、あえてその隣という絶妙な位置取り。それは、いつかガレスが戻ってきた時をちゃんと予感させ、かつ今のヒロに寄り添う最善の距離感だった。男たちの感心するような低音のざわめきが、店内に広がる。
その絶賛の声を聞いた瞬間、ヒロは誇らしげに顔をパッと明るくさせ、振り返って常連たちに胸を張った。
「でしょ? でしょ!? 」
自分のことのように自慢げなヒロの笑顔に、リリアは真っ赤になって顔を両手で覆い、店中の人々は再び大きな笑い声に包まれるのだった。
店内に響いたヒロの得意げな声に、常連たちはニヤニヤと悪だくみの笑みを浮かべ、顔を見合わせる。
「あー、あー……」
男たちが、声変わりしきっていないヒロの少し高い声色を真似始める。
一人、また一人と、面白がった常連たちがヒロの決まり文句や、普段の口癖を大声で合唱するように重ねていく。
「「「黒曜石のように輝く、綺麗な髪――!」」」
「「「ラピスラズリを埋め込んだかのような、青い瞳――!」」」
「「「透き通るような、白い肌!!」」」
店中に響き渡る、日頃から言い募っているセリフのオンパレード。
真っ赤になって湯気が出そうなほど顔を染めたヒロは、ギッと眉を吊り上げながらそれぞれの席へと突撃し、大声を出して男たちの口を無理やり塞ごうと暴れ回る。
「おい、暴れるな! 図星だろ!」
「やめろヒロ、恥ずかしがるな、事実だぞ!」
「顔真っ赤だぞー!」
男たちの豪快な笑い声と、ヒロの必死な抗議の声が入り交じり、酒場は割れんばかりの活気と爆笑に包まれていく。
その賑やかな光景を、リリアは両手で顔を覆ったまま真っ赤になって震え、セレナと女将は呆れながらも、たまらなく愛おしそうにその背中を見守っているのだった。
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