治癒魔法
それから数ヶ月が経った。
ガレスはEランクの討伐依頼をこなし、その実力で難なく成果を上げ続けていた。どんどん増えていく稼ぎを手にすると、ガレスはヒロから聞いていたスラム街へと足を運び、山のような食料や物資を差し入れとして配るようになっていた。
頭で難しい政治や社会の仕組みを考えることはガレスにはできない。だが、「腹が減っている奴がいれば飯を食わせるべきだ」――それだけのシンプルな優しさが行動原理だった。
同じ頃、王都でも大きな動きがあった。アン王女が主導し、王家による定期的な炊き出しや支援活動がスラム街で行われるようになっていたのだ。
遠目からその様子を眺めながら、ヒロは(これだけでは根本的な解決にはならないけれど……)と思いつつも、人々に行き渡る温かなスープの湯気と、少しだけほころんだ住民たちの表情を見て、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
一方で、ヒロ自身の暮らしぶりは以前と変わっていなかった。
日々のこまごとした街の仕事に汗を流し、カゴにたっぷりの差し入れを詰め込まれたり、お返しをしたりしながら住民たちと心を通わせる。時には指名依頼を受けて地下に潜ったり、腕を磨くために馴染みの工房に顔を出したりして技術を磨いた。
仕事のない休日は、スラム街へと向かう。
まだ完全とは言えないまでも、崩れかけた壁を補強し、危険な柱を立て直し、少しずつ、一歩ずつ、その街を自分の手で直していく。
そして、その帰り道には必ずあの教会へと立ち寄り、神官や子供たちと穏やかな時間を過ごす――それが、ヒロの日常になっていた。
いつものように教会の石段に腰を下ろし、子供たちの笑い声を聞きながら神官と穏やかな時間を過ごしていた時のことだった。
鬼ごっこに夢中になっていた一人の男の子が、勢い余って敷地の砂利道で派手に転んでしまった。
「いてっ……!」
ガリッと派手に擦りむいたその小さな膝からは、真っ赤な血がじわりと滲み出している。
ヒロは反射的に体を弾ませ、真っ先にその子供の元へと駆け寄った。
「大丈夫!? 痛くない……?」
どう手当てをすべきか慌ててポケットを探ろうとしたヒロの肩に、いつの間にか歩み寄っていた神官がそっと優しく手を置いた。
「大丈夫ですよ」
穏やかなその声とともに、神官の手のひらから柔らかな緑色の光がふわりと溢れ出した。
光に包まれた子供の膝の擦り傷は見るみるうちに塞がり、元の肌へと戻っていった。
――高度な治癒魔法。
目の前で繰り広げられた奇跡のような光景に、ヒロの動きがぴたりと止まった。
その瞬間、ヒロの胸の奥が、チクリと鋭く痛んだ。
脳裏に陽だまり村の光景が蘇る。
どんなに職人としての腕を磨いても、街を自分の手で直そうと足掻いても、命そのものを救うこの「奇跡」のような力は自分にはない。
ヒロがふっと表情を曇らせ、目を伏せたその微細な変化を、神官は見逃さなかった。
神官は静かに微笑みながら、強ばった表情のまま立ち尽くすヒロの背中に優しく手を添え、教会の重厚な木製の扉へと促した。
「さぁ、中へ。祈りましょう」
ヒロは言われるがまま、トコトコとその後を追って教会の中に足を踏み入れた。
――この数ヶ月間、休みの日は毎日この教会に通い、庭で子供たちと遊び、神官とも言葉を交わしてきた。しかし、不思議とこの建物の「中」に入るのはこれが初めてだった。
理由は単純だった。
ヒロは、神など信じていなかったからだ。
あんなにも理不尽に大切なものを奪われ、苦しむ人がいる世界に、本当に神様なんてものがいるものか。そう心の中でどこか冷めた思いを抱いていたからこそ、信仰の場である教会堂の敷居をまたぐことはなかったのだ。
しかし、先ほど見せたヒロの痛切な表情を思い返したのか、神官は今日は一切の妥協を見せず、半ば無理やりヒロを祭壇の前へと連れ出した。
不満げに眉をひそめ、ヒロは納得がいかないといった様子で問う。
「……どうして僕が祈るんです?」
その問いかけに、神官は祭壇に飾られた静謐な聖像を見上げ、穏やかに微笑みながら答えた。
「祈りこそ、治癒魔法の根源だからですよ」
神官は静かに祭壇の前へと歩み寄り、お手本を示すようにスッと膝をついた。そして、両手をしっかりと組み、目を閉じて穏やかな祈りの言葉を紡ぎ始める。
その横で、ヒロは神官の姿を眺めながらも、頭の中では先ほど目の当たりにした光景を総動員して反芻していた。
――緑色の光。溢れ出す生命力。みるみるうちに塞がっていく子供の擦り傷。
あれはいったい、どういう現象なのだろう。仕組みはどうなっている? 魔法の詠唱もなく、そもそも魔力を使用していない。
神官は祈りを終えると、優しく微笑みながらヒロを促した。
「さぁ、あなたも。心を落ち着かせて、祈るのです」
しかし、ヒロは神官の言葉に従って膝をつくことはしなかった。
神への信仰など持ち合わせていないヒロにとって、「祈る」という行為は納得のいくものではなかったからだ。
代わりに、ヒロは祭壇に鎮座する女神の像へとまっすぐに視線を向けた。
装飾の彫り込み、素材の質感、石の古び方、そしてその造形――職人の目で、隅々まで容赦なく観察する。ただの石像なのか、それとも何か仕掛けがあるのか。
(祈りなんて気休めで、魔法の根源なわけがない……絶対になにか、別の仕組みがあるはずだ)
納得がいかないヒロは、さらに踏み込んだ。
周囲に気づかれないよう、呼吸を整え、極めて微弱な探知魔法を発動する。
魔力の波長がヒロの周囲から広がり、教会の建物全体を細部まで調べ上げていく。石造りの壁、床や柱の構造、そして――先ほど祈りを終えて未知の神秘的な力に溢れている神官の身体の隅々まで、徹底的に探り始めた。
その様子を見ていた神官は呆れたような、しかしどこか楽しげな笑みを浮かべた。
コツン、と痛くないようにヒロの頭を軽く叩く。
「もうっ! やめなさいっ!」
「いっ……! だって、仕組みが気になったから――」
「さぁ、言い訳はあと! 一緒に祈りますよ!」
有無を言わせぬ勢いで、神官はヒロの肩を掴み、無理やりその場にひざまづかせた。そして後ろから抱え込むようにして、ヒロの硬く握られた両手を包み込み、強制的に合わせさせる。
抵抗するヒロをよそに、神官は優しい声で低く祈りの言葉を紡ぎ始める。
渋々、ヒロもそれに倣うしかなかった。
嫌々ながらも神官の言葉に続き、ヒロも心の中で祈りの言葉を紡いでみる。
しかし、期待したような奇跡の光が起きるわけでもなければ、胸のつかえが劇的に消え去るわけでもない。当然、形骸的な動作にすぎないヒロの中に、神への信仰心が芽生えることもなかった。
ただ――。
神官の温もりと静寂に包まれ、余計な思考をすべて手放して言葉を繰り返しているその瞬間だけは、胸を締め付けていた焦燥や無力感がすぅっと薄れ、不思議と心が少しだけ穏やかに軽くなっていた。
目を開けたヒロは、気まずそうに顔を赤らめながら、そっと神官の手をほどいて立ち上がるのだった。
お読みいただきありがとうございました!「続きが気になる」「面白い」と思っていただけましたら、画面下の「ブックマーク登録」や「★(評価)」で応援していただけると励みになります。




