王都の闇
穏やかな午後のひととき、ヒロはいつもの街の仕事をきっちりと片付けた後、馴染みのお婆さんの家を訪れていた。庭で温かいお茶をご馳になりながら、他愛のない雑談に花を咲かせる。
その時だった。
すぐ近くを走る大通りから、突如として大きな歓声とざわめきが沸き起こった。
何事かとそちらに目を向けると、瞬く間に人々が群がり、黄色い声や熱狂的な歓声が幾重にも重なって広がっていく。
お婆さんは、淹れたてのお茶の湯気越しに、目を細めながらのんびりと呟いた。
「おや、なんだい騒がしいねぇ……。きっと、アン王女様だねぇ」
「最近ね、あの気さくな王女様がよくこの街にお忍びでおいでになるんだよ。民の暮らしを自分の目で確かめたいってさぁ、感心なことだねぇ」
その名前を聞いた瞬間、ヒロの背筋がピクリと硬直した。
(……うわ、めんどくさい……)
ヒロはさっきまでの和やかな雰囲気を一瞬で忘れ、居ても立ってもいられなくなったように、手元の茶碗をコトリとソーサーに置いた。
「お、お婆さん、そろそろ次の仕事があるから行くね!」
「おや、もうかい? もう一杯お茶を飲むかい――って、おやおや、そんな急いで……」
慌てて立ち上がったヒロは、大歓声が湧き起こる大通りとは真逆の方向へ、トコトコと早足で歩き出す。
その背中に向かっておばあさんは声を飛ばした。
「ヒロ! せっかく近くにいらっしゃるんだ、行って挨拶しておいで! 」
振り返りもせず、ヒロは片手をヒラヒラと振って答えた。
「挨拶なら、もうしたよ!」
アン王女の影から逃れるように大通りを離れ、ヒロは普段足を踏み入れない路地へと足を進めていた。
(この辺りの依頼は、一度も受けたことがなかったな……)
そう思いながら、ゆっくりと周囲を観察しながら歩を進める。
はじめは綺麗だった石畳の道が、一歩、また一歩と進むにつれてひび割れ、土埃が目立つようになっていく。往来の人は次第に少なくなり、立ち並ぶ建物は手入れがされず、壁の漆喰が剥げ落ち、みすぼらしく朽ちかけていた。
それを見たヒロは、ふと納得がいった。この辺りの依頼が冒険者ギルドに回ってこない理由を。
問題が無いわけではない。むしろ、あちこちに生活の綻びや危険な箇所はあるはずだ。
だが――住民たちに、それを冒険者に依頼する「金」がないのだ。依頼料を払えないから、ギルドの掲示板に紙が貼られることもない。
建物が古び、人々の足取りが重くなっていくその景色に、ヒロの足が自然と止まる。
気がつけば、そこは華やかな王都の裏側――王都南部の外れ、スラム街だった。
ヒロは無心で、足を進め続けた。
景色はさらに澱んでいく。ついにしっかりとした建物すら消え失せ、あちこちに継ぎはぎのトタンや木材で作られたバラック小屋が並ぶようになった。鼻を突くような悪臭が周囲に立ち込めている。
日差しを避けるように、まばらにいる人々は力無くトタン屋根の下でうずくまり、ただ横になっていた。
その見渡す限りの絶望的な光景は、王都の城壁、南門まで延々と続いていた。
王都の外れにある、あまりにも深い闇。
その凄惨な光景を目の当たりにしたヒロは、思わず足を止め、立ち尽くした。
(……これはいったい、何をどうやって直すんだ……?)
職人として、日々腕を磨いてきた。
壊れた壁があれば直し、傾いた柱があれば補強し、すり減った道具なら完璧に修繕してみせる。技術には少しばかりの自信があった。
しかし、目の前に広がるのは、一つの「建物」や「道具」の故障ではない。
貧困、政治、そして街の構造そのものが作り出した、あまりにも巨大な綻びだった。
十歳の少年には、そのすべてを救い上げる術も、この王都の闇を自分の小さな両手で払う方法も、どうしても見当すらなかった。
ヒロは自分の無力さを痛いほど噛み締めながら、重い足取りでその場を後にした。
立ち去るその背中は何度も、何度も名残惜しそうに振り返られ、目の前に広がっていた絶望的な光景を、その瞳と心にしっかりと焼き付けていった。
夕暮れ時、酒場に戻ると、ガレスがすでにいつもの席に陣取り、腹を空かせて待ち構えていた。
店に入ってきたヒロを見るやいなや、常連たちが「お、ヒロ! 飯だぞ!」と明るく声をかけてくる。しかし、いつものような軽妙な掛け合いは返せず、ヒロは上の空で「……うん」「ただいま」と生返事をしながら、ガレスの向かいの席にどんよりと沈み込むように座った。
酒場の喧騒に紛れているつもりだったが、他の誰でもない――毎日ヒロを見て、その小さな変化を誰よりも近くで感じ取ってきた相棒のガレスだけは、その異変をすぐに見逃さなかった。
ガレスは頼んでいた肉の塊を頬張る手を止め、じっとヒロの顔を見据える。
「……なんかあったか?」
低く、しかし確かな気遣いがこもった声。その問いかけに、ヒロはしばらく俯いたまま黙り込んでいたが、やがてぽつりぽつりと口を開いた。
今日、王都の南部で目撃したスラム街のこと。
トタン屋根の下で力無く横たわる人々の姿。
そして、自分は職人として技術を磨いてきたはずなのに、目の前の巨大な現実に対して何もできないという、どうしようもない無力感を抱えた今の胸中を、飾らずにすべてガレスに打ち明けた。
酒場に、ずっしりと重苦しい空気が澱んだように立ち込めた。十歳の少年が背負うにはあまりにも大きすぎる現実と無力感に、誰もが言葉を失っていた。
その沈黙を切り裂くように、カウンターの中から怒鳴り声が響いた。
「――馬鹿言ってんじゃないよ!!」
バァン! と音を立てて、女将が湯気の立つ大盛りの料理を二人の前にドンッと荒々しく置いた。彼女は腕組みをし、鋭い睨みをヒロとガレスに向ける。
「あんたら、自分たちが何歳だと思ってんだい!」
「王都に来てまだ一ヶ月だろ! ようやく仕事覚えて、毎日飯食って寝る場所ができたばっかりじゃないか!」
ガレスは自分の胸を指さされ、目を白黒させながら慌てて両手を振った。
「ちょ、待ってくれよ! 俺、まだ何も言ってねえだろ!!」
それに対し、女将は鼻を鳴らして一喝する。
「顔に書いてあんだよ!!」
即座に返されたツッコミに、ガレスは真面目な顔で首をかしげた。
「え……? 俺、字書けねえのに!?」
そのあまりにもズレた、しかし真剣なボケに、周りで聞いていた常連客の一人がまず吹き出し、それが伝播するように酒場全体へと広がっていった。
「あははははっ! 文字が書けねえから顔に書いてあっても読めねえってか!」
「おいおいガレス、相変わらずいい返しするじゃねえか!」
店中を包み込んでいた暗い空気が、爆笑の渦によって一気に吹き飛んでいく。
ヒロも、ガレスの天然の返しと女将の荒荒しくも温かい一喝に、思わず「ぷっ」と吹き出した。胸につかえていた重い澱みが、少しだけ軽くなった気がした。
よし、と心の中で小さく息をつく。
――ようやく、いつもの賑やかな「木漏れ日の酒場」の空気が、この席へと帰ってきた。
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