ただいま
二人は木漏れ日の酒場へと戻ってきた。
朝から道具屋へ足を運び、昼にはあの騒がしいギルドで冒険者登録を済ませ――気がつけば、空はすっかり茜色に染まり、夕方の鐘の音が王都の街並みに響き渡っていた。
慣れない王都での怒涛のような出来事の連続に、二人の足取りはすっかり重くなっている。
精神的にも肉体的にもへとへとで、お腹はぺこぺこだった。
扉を開けると、美味しそうな料理の匂いと温かな喧騒が二人を迎え入れる。
硬くなっていた体の力がふっと抜け、同時に激しい空腹感が胃の腑から込み上げてくるのだった。
カウンターの奥から、二人の顔を見もせずに、女将が手際よくジョッキを拭きながら声を飛ばす。
「空いてるよ」
そう言って、あの隅のテーブルを顎でしゃくってみせる。
その声に反応するように、店の一角で作業をしていたセレナが顔を上げる。彼女は疲労の色を隠せない二人の姿を認めるやいなや、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「おかえり」
「おう!」
ガレスは威勢のいい返事と共に、今日手に入れたばかりのピカピカの冒険者プレートを見せびらかすかのように誇らしげに胸を突き出す。
一方のヒロは、その「おかえり」という言葉に一瞬だけ目を丸くした。
それから、少しだけ頬を赤らめて俯く。
「……ただいま」
女将が運んできた温かいスープと肉の煮込みは、へとへとになった二人の胃袋に染み渡るように美味しかった。
ガレスは空腹に任せて豪快に肉を頬張り、ヒロもまたスプーンを動かしながら、ふと懐から一枚の紙切れを取り出す。
それは先ほどギルドで発行されたばかりの、ガレスのステータスが記された鑑定書だった。
ヒロはまるで貴重な古文書でも扱うかのように、その紙を両手で丁寧に広げ、じっと見つめる。
「……なるほどね」
呟きながら、ヒロはうん、うんと深く頷いた。
目の前で肉をかき込んでいる親友の能力値やスキルを、これまでの生活や共に駆け抜けた過酷な体験の記憶と一つずつ照らし合わせていく。
(やっぱり、この筋力の伸び方は普通じゃなかったんだ……)
(この耐性なら、あの異常な頑丈さにも説明がつく)
数字として冷たく並ぶデータの裏側に、二人が重ねてきた汗と血の痕跡を見出し、ヒロの胸のうちは静かな興奮と納得感で満たされていく。
これは、これまで感覚でしか分からなかったガレスの異常さを、初めて数字で覗き見たようなものだった。
酒場の喧騒もようやくひと段落し、心地よいざわめきへと変わっていく。
ガレスは山盛りの料理をきれいに平らげ、満腹で満足げに椅子にもたれかかり、大きく息をついていた。
対するヒロは、そんな相棒の様子など目に入らないとばかりに、手元の鑑定書に穴が開くのではないかというほど熱心に視線を注ぎ続けている。
そこに、店内の片付けを終えたセレナが歩み寄り、静かに二人の席へと腰を下ろした。
「……うまくいったみたいね」
落ち着いた声でそう尋ねるセレナに、ヒロはハッと我に返り、慌てて鑑定書を畳んで胸元にしまう。
「あ、セレナさん……! その節は、本当にありがとうございました」
ヒロは頭を下げると、今日一日の出来事を思い返し、一つずつ感謝を言葉にしていく。
彼女が細かく書き記してくれた王都の地図のおかげで迷わずに道具屋へたどり着けたこと。女将のサインが書かれていたからこそ怪しまれずに取引ができたこと。
一通り感謝を伝えると、ヒロはズシリと重みのある革製の小袋を懐から取り出し、女将の元へ向かった。
カウンターの向こうで黙々と片付けを続ける女将の背中に歩み寄り、声をかけた。
セレナの時と同様に、今日一日お世話になったことへの感謝をしっかりと伝えようと口を開きかける。
しかし、ヒロが言葉を発するよりも早く、女将は手元の布巾をピタッと止め、背中を向けたままピシャリと言い放った。
「聞こえてたよ。……で、なんだいそれは?」
「昨日の晩御飯と宿代、今日の朝と晩御飯代と、そして今晩の宿代です」
ヒロは揺るがない真っ直ぐな瞳で、両手で革袋を差し出した。
女将は手元の作業を完全に止め、振り返ると、チラッとカウンターの上の革袋とヒロの顔をひと睨みした。
そして、ドカッとカウンターに両手を突き、野太い声で怒鳴りつける。
「バカっ言ってんじゃないよ! ガキンチョが大人のフリしやがって!! そんなもんいらないよ!!」
ガレスはガタリと椅子を鳴らして立ち上がり、ゆっくりとヒロの元へ歩み寄ると、その隣でドンと仁王立ちした。
「払いてぇもんは、払いてぇ!!」
いつもの威勢のいい、しかしどこか真っ直ぐな声が酒場に響く。
ヒロは隣に立つ頼もしい相棒の横顔を見上げてふっと笑顔をこぼすと、再び女将に向かって深く頭を下げた。
「お願いします! 払わせて下さい!」
女将は、頭をガリガリとかきむしりながら、頑固に頭を下げ続けるヒロと、その隣で腕を組んで仁王立ちするガレスを交互に睨みつけた。何か言い返そうと口を開くが、気恥ずかしさと呆れが入り混じり、言葉に詰まっている。
そんな静かな膠着状態を破ったのは、カウンターの端だった。
グラスに残ったエールを静かに飲み干すと、カウンターの隅に陣取っていた一人の男が低く、気怠げな声を響かせる。
「……マーサ。とっとと受け取れ。うるさくてかなわん」
女将は、舌打ちをしながら、その男を鋭く睨みつけた。
「……わかったよ」
吐き捨てるようにそう言うと、マーサはやれやれと頭を振って、テーブルの上に置かれた革袋を乱暴にわし掴みにする。そして、それ以上何かを言われるのを拒むように、そのままドタドタと厨房の奥へと消えていった。
残されたヒロとガレスは顔を見合わせ、ふっと嬉しそうに顔を綻ばせる。
ヒロはすぐに姿勢を正すと、助け舟を出してくれたカウンターの端の男へと向き直り、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。助かりました」
男はゆっくりと振り返り、二人の姿をじっと見据える。
しかし、その視線が二人の服に触れた瞬間、男の動きがぴたりと止まった。
わずかに揺らぐ瞳の奥に去来するものを押し隠すように、男はすっと目を伏せ、それ以上何も言わずに再びグラスへと向き直った。
その沈黙を打ち破るように、セレナがふっと柔らかい笑みを浮かべて声をかけた。
「さぁ、お風呂が沸いたよ」
その言葉を聞いた瞬間、ヒロとガレスはパァッと顔を明るくさせ、我先にとドタバタと足音を立てて風呂場へと駆け出していく。
セレナは、そんな元気な二人を微笑ましそうに見送りながら、準備していたタオルを抱えてその後を追いかけていった。
賑やかな足音が遠ざかり、再び店内に静けさが戻る。
その音を背中で聞きながら、男はただ、氷の溶けた空のグラスをじっと見つめていた。
◇
◇
◇
厨房の奥の薄暗がりで、女将は手際よく二つの小さな空き缶を用意していた。
硬い金属のヘラを手に取ると、迷いのない手つきでそれぞれの表面に名前を刻み込んでいく。
――『ヒロ』
――『ガレス』
刻み終えると、先ほど乱暴にひったくった革袋をひっくり返し、中からジャラジャラと鈍い音を立てて硬貨を放り出す。それを両方の缶へと均等に分け入れ、しっかりと蓋をした。
「まったく、めんどうだね……」
誰に聞かせるでもなく、吐き捨てるように愚痴る。
その声音には不機嫌そうな響きだけでなく、どこかほどけない熱が滲んでいた。
「男ってのは……本当に、どいつもこいつも不器用でバカばっかりだねぇ」
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