恩返し
日の出と共に、薄明かりが差し込む部屋。
久しぶりに固い地面ではなく、屋根の下の心地よいベッドで、ヒロはふと目を覚ました。隣のベッドでは、ガレスが豪快なイビキをかいてまだぐっすりと眠っている。
(……起こさないようにしないと)
ヒロはそっと忍び足でベッドから抜け出すと、床に置いてあった工具箱をしっかりと抱え、慎重に部屋のドアを開けて階段を降りた。
昨日の夜までの賑やかな喧騒が嘘のように、静まり返った酒場。
ヒロはゆっくりと目を閉じ、自身の魔力を波紋のように部屋中へと広げていく。酒場の構造、傷んだ木材の歪み、金属の摩耗具合が、繊細な魔力の糸を通じて手に取るように伝わってきた。
――さあ、始めようか。
ヒロは小さく息を吐き、静かに作業に取り掛かった。
しばらくして。
ゴォォッという自らの盛大なイビキの音に驚いたのか、ガレスは「ぶふっ」と息を詰まらせて目を覚ました。
「ん……?」
ガレスは目をこすりながら隣のベッドを見る。しかし、そこにあるのは綺麗に畳まれたシーツだけで、ヒロの姿は影も形もなかった。
(……めずらしいな。あいつが俺より先に起きるなんて)
ガレスはガバッと跳ね起きるようにベッドから飛び出すと、ドタバタと荒い足音を立てて階段を駆け下りた。
そこに広がっていたのは――一心不乱に酒場の修繕に勤しむヒロの姿だった。
ギシギシと音を立てていた椅子の脚を直し、開け閉めのたびに引っかかっていた扉の蝶番を滑らかに調整する。さらには、使い込まれて歪んだ鍋やフライパンを叩いて直し、鈍った包丁の刃を正確な角度で研ぎ直していく。
その手際と魔法の扱いは、年齢からは考えられないほど手慣れていた。
ガレスはその光景を見るなり、フッと口の端を持ち上げてニヤッと笑った。
(……まったく、あいつらしい不器用な恩返しだぜ)
ヒロがガレスの気配に気づき顔を上げる、作業の手を止めて目が合う。言葉はなくとも、二人の間には一瞬で意思疎通が生まれた。お互いに小さく頷き合う。
「よしっ……!」
ガレスは気合を入れると、そのまま裏口へと回り込み、積まれた丸太に向かって豪快に大剣を振り下ろし、薪割りを始めたのだった。
「ほっ、せいっ――!」
ガレスの気合の入った掛け声とともに、庭に乾いた木が裂ける豪快な音が響き渡る。
自慢の大剣をまるで斧のようにおそるべき手際で振るい、次々と太い丸太を両断していく。
その凄まじい地響きのような音に、2階で眠っていた女将とセレナは目を覚ました。
「まったく、朝っぱらからなんだってんだい……」
女将は欠伸を噛み殺し、眠たそうに目を擦りながら窓辺へと歩み寄る。そして、窓からふと庭を見下ろした瞬間、彼女の眠気は一気に吹き飛んだ。
全身の使い方、一撃で断ち割っている大剣の扱い、そしてその尋常ではない膂力――。
「……やっぱり、そうかい」
女将は低く呟くと、妙に納得したような顔をしてスッと窓から離れた。
そのまま素早く身なりを整えると、階段を下り裏口から庭へと足を踏み出したのだった。
「悪い! 起こしちまったか?」
ガレスは額の汗を拭いながら、豪快に笑って女将に振り返った。大剣を肩に担ぎ、その姿はどこか誇らしげだ。
女将は腕を組んだまま、ガレスの体の使い方と剣筋を上から下へと眺め回す。
「……続けな」
「おうっ!」
女将の言葉にガレスは嬉しそうにニヤリと笑うと、再び姿勢を落とし、凄まじいスピードで薪割りを再開した。子供の力とは思えない手際と怪力で、あっという間に綺麗な薪の山が積み上がっていく。
その女将の横に、パタパタと足音を立ててセレナが駆け寄ってきた。
彼女は、ガレスが人間離れした膂力で丸太を両断していく様を目の当たりにして目を丸くしていたが、すぐにハッと我に返り、切羽詰まった様子で女将の袖を引いた。
「お、女将さん……! 外もすごいですけど、こっちも見てください!」
「ん、なんだい?」
女将はガレスの鮮やかな剣筋から名残惜しそうに視線を外し、セレナに促されるまま、きびすを返して店の中へと戻っていった。
セレナに腕を引かれるまま店内に戻った女将は、ぽかんと口を開けたままフロアを見渡した。
ガタついていたテーブルや椅子の脚は完璧に水平を保ち、開閉のたびにキーキーと嫌な音を立てていた木の扉は、まるで新品のように滑らかに収まっている。さらには、仕込み用の歪んだ鍋やフライパンは見違えるほど美しく整形され、厨房から覗く包丁の刃は月光のように鋭い輝きを放っていた。
「……なんてこったい」
女将は言葉を失い、ただただ呆然と呟くしかなかった。職人を呼べばそれなりに手間のかかる修繕の数々が、わずかな朝の時間で見違えるほど整えられている。
その中心で、作業道具を丁寧に布で拭き、自分の工具箱へと片付けているヒロの姿があった。
ヒロは気配に気づいて顔を上げると、気まずそうに、けれどどこかホッとしたような笑みを浮かべて頭を下げた。
「……おはようございます。昨日は、ありがとうございました」
完璧な仕事の跡と、目の前の少年のあどけない謝辞のギャップに、女将はしばらく言葉を失い、やがてフッと呆れたような、しかし深い感心の色を湛えた笑みを漏らした。
「朝飯にするよ!」
女将は豪快に声を上げると、気を取り直したようにテキパキとカウンターの厨房へと戻っていく。そして、その背中越しにセレナへ指示を飛ばした。
「セレナ、外の筋肉バカも呼んできな!」
「はいっ!」
セレナはトタトタと小走りで裏口から庭へと向かい、薪割りに夢中になっているガレスを呼びに行った。
その様子を見て、ヒロは慌ててカウンターのほうへ歩み寄り、恐縮した様子で手を振る。
「そ、そんな! 昨日のお代も宿代も払っていませんし……」
これ以上恩を受けるわけにはいかない。そう思って身構えるヒロだったが、その時だった。
パーン! と裏口の扉が勢いよく開き、庭から青空を突き抜けるような大声が響き渡る。
「よっしゃあああ!! 朝飯だ!!」
完全に食い気に釣られたガレスの弾んだ声を聞き、女将はふっとニヤッと意地悪く笑うと、顎で庭のほうをくいっと指し示した。
「あいつは、食ってくみたいだけど?」
「……っ」
ヒロは思わず頭を抱え、ポリポリとこめかみを掻きながら深い溜息をついた。
「……ガレス、まったく……」
あきれ返りながらも、その口元には、どこかホッとしたような温かい笑みが浮かんでいた。
昨日の夜と同じ、店の隅のテーブル。
そこに女将とセレナも加わり、四人で温かな朝食を囲むことになった。
目の前に並ぶのは、焼きたての香ばしいパンと、具だくさんのスープ。
ガレスは待ちきれないとばかりに、スプーンを握りしめて猛烈な勢いでスープをかき込み始めた。
「 よく噛むんだよ!」
バシッ、と女将の容赦ない平手打ちがガレスの頭頂部に炸裂する。
「ってえ!……痛いなぁ、美味いんだからしょうがないだろ!」
頭を押さえて文句を言うガレスだが、その言葉に女将は少しだけ得意げにふんと鼻を膨らませてみせる。
向かいに座るセレナは、その微笑ましい光景を「ふふっ」と柔らかな笑みを浮かべながら見守っていた。
だが、そんな穏やかな空気をよそに、ヒロの頭の中はフル回転でグルグルと回り始めていた。
(……どうしよう)
昨日の晩御飯代。そして、部屋で眠らせてもらった宿代。さらには、今目の前で食べているこの朝食代まで。
タダ働きですべてを帳消しにできるほど、世の中が甘くないことはヒロにも分かっていた。
(今の持ち物は工具箱と、最低限の道具だけ……。王都でちゃんとお金を稼ぐには、どうすればいいんだ?)
「あんたは、とっとと食いな!」
カツン、と乾いた音がして、考え込んでいたヒロの頭に女将の手刀が軽く落とされた。
「いてっ……」
ヒロが頭を押さえて顔を上げると、向かいの席で豪快にパンを頬張っていたガレスが、口の端にパンくずをつけたままでニヤッと笑った。
「そう気負うなって。ヒロはいつも考えすぎなんだよ!」
女将が呆れたように、しかしどこか優し気な目を向けてフッと笑う。
それに釣られるように、セレナも口元を抑えながらくすくすと笑声をこぼした。
温かな朝の光が差し込む酒場に、再び賑やかな笑い声が心地よく響き渡るのだった。
朝食を食べ終えると、ヒロとガレスはチラリと目を合わせ、示し合わせたようにスッと立ち上がった。
二人は手際よくみんなの食器をきれいにまとめると、言われるまでもなく当然のような足取りで厨房の流しへと向かう。
その背中を見送りながら、女将はやれやれといった調子で両手を腰に当てた。
「まったく、あんたらは何か恩返しをしないと気が済まない性質なのかい?」
セレナは困ったような、けれど嬉しそうな笑みを浮かべながら二人の後を追いかけ、流しの脇に立ってその皿洗いの様子をじっと見守り始めた。
ヒロは手をかざし、静かに魔力を練り上げる。
水の流れを繊細にコントロールし、汚れだけをピンポイントで洗い流していくその手際たるや、見事なものだった。
(……やっぱり、思った通りね)
セレナは、十歳そこそこの少年が放つ緻密すぎる魔力コントロールを目の当たりにして、思わず内心で感嘆のため息をつく。
一方、その隣では――。
「ぬっ……! くそ、こうか?」
ガレスは魔法ではなく自力で皿を洗っていたが、普段の豪快な剣さばきとは打って変わって、ゴツゴツとした手で恐る恐る皿をこすっていた。あまりの不器用さに、泡があちこちに飛び散っている。
「ガレス、そこ。裏側にまだ汚れが残ってる」
ヒロが横目でチラリと見て、冷静に指摘を入れる。
「おっと……ホントだ」
ガレスは真剣な顔つきに変わり、指摘された箇所をゴシゴシと洗い直した。先ほどまで豪快に薪割りをしていた少年が小さな皿を相手に真剣白刃取りのような顔で格闘している。
そのシュールな光景を見た瞬間、女将はこらえきれず、プッと吹き出した。
「ははっ、おいおい! 大剣より皿洗いのほうがよっぽど苦戦してるじゃないか!」
女将の言葉に、ガレスも「いや、これ地味に難しいって!」と照れくさそうに笑い声をあげる。
緊迫した旅の空気を忘れさせてくれるような温かな笑い声が、朝の静かな店内にいつまでも心地よく響き渡っていた。
お読みいただきありがとうございました!「続きが気になる」「面白い」と思っていただけましたら、画面下の「ブックマーク登録」や「★(評価)」で応援していただけると励みになります。




