木漏れ日の酒場
陽が傾き、空がオレンジから深い藍色へと染まり始める頃。
ヒロとガレスは、ついに王都の巨大な城壁のふもとにたどり着いていた。
目の前にそびえ立つ圧倒的な高さの壁と、人間が豆粒のように小さく見えるほどの巨大な城門。そして、村では一生かかっても見ることのないような数の人々が、門をくぐり行き交っている。その喧騒と圧倒的なスケールに、二人は言葉を失い、大きく戸惑っていた。
だが、何よりも今の二人を支配していたのは、どうしようもない空腹だった。
王都に近づくにつれて野生の獣や獲物はめっきり姿を消し、道中で蓄えていた食べ物もとうに底をついていた。昨夜は王女の悲鳴で起こされ戦闘をして、朝からの歩き詰めで、体力は限界に近づいている。
「……道具屋を探さないと。集めた皮や骨を売って、まずはお金を――」
ヒロはかすむ頭で周囲を見渡し、それらしい店を探そうとした。しかし、ここは生まれて初めて訪れた大都会だ。どこに何があるのか見当もつかない。
その隣で、ガレスはもはや思考力を失い、ただ野生の犬猫のように鼻をひくつかせていた。
「……飯の匂いだ……」
腹の虫が盛大に鳴り響く中、ガレスは重たい足取りで、どこかから漂ってきた香ばしい食べ物の匂いへと引き寄せられるように歩き出す。
ヒロもまた、空腹のあまり頭が回らず、自分で考えることを放棄して、ふらふらとガレスの後をついていくのだった。
二人は香ばしい肉の匂いに導かれるまま、王都のきらびやかな大通りから一歩、裏手へと外れた小道を進んだ。
大通りの喧騒が嘘のように遠ざかり、代わりに人々の活気ある笑い声と、料理の芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。そこにあったのは、石造りの壁に蔦が這う、いかにも年季の入った建物だった。
古びた木の看板には、こう彫られている。
『木漏れ日の酒場』
「……ここだ……」
ガレスは乾いた喉を鳴らし、フラフラと吸い寄せられるように店の扉に手をかけた。ヒロもまた、空腹の限界で言葉を発する気力もなく、ただその後ろに続く。
カラン、と乾いたドアベルの音が響き、二人は重い木製の扉を押し開けて、温かな喧騒の中へと足を踏み入れた。
ガランと開いた扉の音に、酒場で杯を傾けていた客たちの視線が一斉に集まった。
そこにいたのは、泥と汗に汚れ、ボロボロの服を纏った十歳そこそこの少年が二人。酒場には似つかわしくないその惨めな姿に、客たちは露骨に顔をしかめ、鼻をつまむ者すら現れた。
「なんだ、あいつら……きったねえ奴らだ!」
「おいおい、ガキの来るとこじゃねえよ! 帰る家でも間違えたのか?」
いつものガレスなら、持ち前の啖呵を切って言い返していたところだ。しかし、極限の空腹と疲労の前にはそんな気力も湧かず、ただ俯いて視線を落とすのが精一杯だった。
「ほらほら、さっさと帰った帰った!」
客の一人が冷やかすように手をひらひらと振ると、酒場中から下劣な笑い声が巻き起こった。
その時だった。
「――だまんなっ!!」
店内に響き渡る、地を這うような気迫の怒鳴り声。
それに続いて、ドカッと店中の空気が凍りつくほど凄まじい音が響いた。
厨房のカウンターを、怒りに任せた女将が握り拳で叩きつけたのだ。
女将は、店内の冷ややかな視線を浴びるボロボロの二人を一瞥した。その瞳には、侮蔑ではなく、何かを堪えるような強い光が宿っていた。
ズンズンと足音を響かせながらカウンターの中から出てくると、彼女は店の隅にあるテーブルへと真っ直ぐに向かう。
そこでは、昼間から酒を飲んで酔い潰れた客がテーブルに突っ伏して眠りこけていた。
ズカッと容赦なくその客の尻を蹴り飛ばして床に転がすと、女将は空いたテーブルの上にあったジョッキや皿を乱暴にわしづかみにして片付けた。
そして、入口のほうで立ち尽くしているヒロとガレスに向き直り、ぐっと顎でその席をしゃくってみせた。
「……座んな!」
ぶっきらぼうで、威勢のいい声。けれど、その響きには凍てついた心を溶かすような、確かな温かさが滲んでいた。
その言葉に救われたように、ヒロとガレスは糸の切れた操り人形のようにフラフラと歩き出し、示された隅のテーブルへと崩れ落ちるように席についたのだった。
ドン、と音を立てて、女将が無造作に木の皿をテーブルに置いた。
中に入っていたのは、湯気の立つ温かな野菜たっぷりのスープと、焼き立ての柔らかいパンだった。
二人は目の前にあるそれに釘付けになる。
これまでの旅路といえば、狩った獣の肉や魚、森の山菜をただ直火で焼いただけの、塩気すらない野宿の食事ばかりだった。こんな風にちゃんと調理された、人の手による料理などいつぶりだろうか。立ち上る芳醇なスープの匂いが、空腹の胃袋を容赦なく刺激する。
「何眺めてんだい! とっとと食いな!」
呆れたような、けれどどこか優しい女将の声に、ガレスははっと我に返った。しかし、すぐに思い出したように青ざめ、慌てて手を引っ込める。
「お、俺ら……金、ない….」
王都に来て初めて口にするまともな食事。だが、財布の中身が空っぽであることに気づき、ガレスは気まずそうに目を泳がせた。
それを聞いた女将は、ふっと肩の力を抜いて、ここで初めて柔らかく笑った。
「くだらないこと言ってんじゃないよ。……あたしの気まぐれでね、今日の仕込みの余りもんさね! どうせ捨てるぐらいなら、食っとくれよ!」
ヒロとガレスは、頭を深く下げて「……いただきます」と丁寧にお辞儀をした。
ガレスは我慢しきれないといった様子でスープにむかいつき、ヒロは震える手で柔らかいパンを小さくちぎって口に運んだ。
パンを一口齧った瞬間。
それは、自分たちが生まれ育った村のパンとは全く違う味だった。
ーーーけれど。
(……同じだ)
その味の奥にある温もりは、あの村でいつも優しく分けてくれたパン屋のものと、少しも変わらなかった。
あの日、すべてを失い、弱さを見せることなど許されないと、ずっと心の奥底に押し込めてきた感情の蓋が、その素朴な優しさに触れた瞬間、音を立てて弾け飛んだ。
「……っ……」
喉の奥が熱くなり、視界が一気に滲む。
あふれ出した涙はもう止められなかった。ヒロは俯いたまま、テーブルにポタポタと落ちる雫を隠すこともせず、ただ、静かに、けれど激しく震えながら、泣きながらパンを頬張り続けた。
ガレスは、隣で震えながら大粒の涙を流すヒロの姿を横目で見つめ、心の底から胸を撫で下ろした。
(……やっと、泣けたな)
あの日からずっと、ヒロは一人で何もかもを背負い込み、感情を凍らせて突っ走ってきたのだ。ここで限界が来てくれてよかったと、ガレスは不器用にもそう安堵した。
だからこそ、ガレスはわざとらしく大きな音を立てて振る舞い始める。ヒロの流す涙から、周囲の好奇の視線を逸らすために。
「うまっ! 女将、このスープ最高だな!」
大きな音を立てて食器を扱い、豪快にスープを飲み干す。
「おかわり!」
ガレスの威勢のいい声に、店内の客たちの視線は呆れたようにそちらへと移っていった。
その様子をカウンターの中からずっと見つめていた看板娘のセレナは、すべてを察したかのように優しく微笑んだ。彼女は静かに歩み寄ると、ガレスの空になった器をそっと受け取り、何も言わずに温かな笑顔を向けてカウンターへと戻っていった。
ーーーしばらくして
夜のとばりが深まり、酒場の喧騒は嘘のように静まり返っていた。店内に残る客は、もうヒロとガレスの二人だけになっていた。
すっかり満腹になった二人は、椅子に深くもたれかかり、動く気力すらない様子でぼんやりとしている。そんな二人を追い出すこともせず、女将と看板娘のセレナは手際よく店内の片付けを進めていた。
パタパタと布巾を動かしていたセレナは、ふと手を止め、自身の特徴的な長い耳をぴくりと震わせた。
(…不思議な子たち)
セレナは長寿のエルフである。人間とは比べものにならないほど、魔力の微細な揺らぎを感じ取ることに長けていた。
あの赤髪の少年――ガレスが店に入ってきた時、彼女は本能的な衝撃を受けた。
まるで一匹の獰猛な魔獣が踏込んできたかのような、天を突くほど猛々しく、荒々しい魔力。しかし、よくよく探ってみれば、その荒削りな力強さの根底には、驚くほど温かく真っ直ぐな命の輝きがあった。先ほどヒロの涙を隠すように大声で騒いでいた姿も、その性質がそのまま表れていたのだろう。
そして、その隣に座る黒髪の少年――ヒロに目を向ける。
ガレスの圧倒的な巨木のような魔力に隠されていたせいで、最初はすぐには気づかなかった。だが、こうして静かになって探ってみると、その異常さがはっきりと浮き彫りになる。
(……なに、これ?)
ヒロの魔力総量は、年齢相応か、あるいはそれほど多くはない。
しかし、その一筋一筋があまりにも繊細に、極限まで緻密に練り上げられていた。十歳そこらの子供が一体どんな人生を歩めば、こんな狂気的なまでの精度で魔力を扱えるようになるというのか。
そして何より――その奥底にあるのは、底知れない深海のような、凍てつく冷たさだった。
(対照的な二人……ね)
ガレスの持つ太陽のような暖かさと、ヒロの持つ深淵のような冷たさ。
片や荒々しく、片や緻密で冷徹。あまりにもアンバランスで、けれど奇妙に噛み合っている二人の少年の姿が、セレナの脳裏からどうしても離れなかった。
セレナの手がピタリと止まったのを見て、女将は手際よくジョッキを洗いながら、横目で声をかけた。
「何ぼーっと見てんだい。仕事はまだ残ってるよ」
「 ご、ごめんなさい!」
セレナはハッと肩を揺らし、慌てて再び布巾を動かし始めた。しかし、気になって仕方がなかったのか、小声でぽつりと呟く。
「……だって、あの二人の魔力が……あまりにも、普通じゃないというか……」
「魔力?」
女将は呆れたように一つ息をつくと、濡れた手をエプロンで拭いながら、手を動かし続けた。
「エルフってのは、魔力見ないとなんもわかんないんだねぇ……。不便な種族だよ、まったく」
やれやれ、と言った調子で肩をすくめながらも、その目元にはどこか我が子を見守るような温かさが浮かんでいる。
そして、女将はカウンターから離れると、ぐっすりと眠りこけているヒロとガレスのテーブルへと歩み寄っていった。
「ほらっ、店仕舞いだよ!」
静まり返った店内に響く、気風のいい声。
女将がバンッと豪快にテーブルに手をつくと、ウトウトしていたヒロとガレスは肩をびくっと跳ねさせ、勢いよく飛び起きた。
周囲を見回し、自分たちがまだ酒場にいることに気づくと、二人は顔を見合わせ、つられてフッと小さく、けれど心からの笑声をこぼした。
腕を組んだ女将は、そんな二人の様子を呆れたように見つめながら、やれやれと首を振る。
「……で、帰るとこはあんのかい?」
その問いに、ガレスは臆面もなく勢いよく立ち上がり、胸を張って言い放った。
「ない!」
そして隣のヒロと目を合わせ、ニヤッと不敵に笑う。
「俺たち、野宿は得意だ! 腹も一杯になったし、そこらへんで寝るよ! ごっそさん!」
ヒロもガレスの横でスッと立ち上がり、女将に向かって深く頭を下げた。
「おいしいご飯、ありがとうございました。……お代は、明日必ず払いに来ます」
堂々と言い切る二人を見て、女将は片手で額を抑え、深いため息をついた。
「はぁ……。野良犬じゃないんだからさ……本当に、手がかかるガキどもだねぇ」
呆れながらも、その瞳に険しさはない。
そして、そんなやり取りを微笑ましく背中で聞きながら、女将の背後を通り過ぎる影があった。
長い耳を揺らし、腕いっぱいに真っ白なシーツを抱えたセレナが、二階の部屋へと続く階段をトコトコと登っていくところだった。
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