泥の深さ
ヒロは手際よく最後の兵士の包帯を結び終え、深く息を吐いた。
ガレスもまた兵士たちと共に、気絶して転がる賊たちを縄でしっかりと縛り上げる。
逃げた者もいるため、まだ完全に警戒を解くわけにはいかないが、ひとまず最悪の事態は脱した。
現場には、張り詰めていた空気がふっと緩み、安堵の息が漏れ出ていた。
その時、静かに馬車の扉が開き、一人の少女が降りてきた。
「あ、あの……」
朝日が照らし出すその姿に、ヒロとガレスは思わず言葉を失い、目を奪われた。
銀糸のように美しい髪が揺れ、宝石のように澄んだ瞳。泥に汚れてすらいない、上質なレースがあしらわれた真紅のドレスは、彼女がこの世界の「恵まれた側」の人間であることを一目で物語っていた。
ガレスは「すげえ……」と、ただただ目を丸くして見入っている。
しかし、ヒロはわずかに息をのむと、スッと素早く目を背けた。
さきほどまで目の前の命を救うことに必死だった熱が、冷たい水に浸されたように急速に引いていく。
代わりに、胸の底から這い上がるのは、泥をすくったような澱んだ感情だった。
豊かな暮らし。綺麗なドレス。守られた環境。
――この少女は、きっと何も知らないんだ。
あの日、村人が病に侵され、すべてが奪われたとき、世界のどこかでこの少女のような人たちが何不自由なく笑っていたのだろうか。そんな理不尽なまでの格差が、ヒロの心を再び黒い闇の底へと引きずり込んでいく。
「助けてくれて、本当にありがとう……!」
少女はいまだに残る怯えを隠しながらも、気丈に頭を下げた。
その純粋な感謝の声が、今のヒロにはひどく遠く、そして残酷なものに聞こえた。
「…助けなければ良かったね」
静寂の中に、ヒロの口から零れ落ちたのは、あまりにも冷たく、棘のある毒のような言葉だった。
自分で言っておきながら、その言葉の黒さにヒロ自身がわずかに息を飲む。けれど、一度こぼれた澱みはもう戻せない。
ガレスは驚いたように勢いよく振り返ると、ガシッとヒロの肩を強く掴んだ。
「おい、ヒロ……!」
低く咎めるようなガレスの声が響く。ヒロは何も言わず俯き、視線を逸らした。
突然そんな言葉をぶつけられた少女は、何が起きたのか理解できず、瞳を大きく揺らして立ちすくんでいた。
自分がなぜそんなことを言われなければならないのか、彼女には知る由もない。
それでも、目の前の少年たちが命を張って自分を守ってくれたという事実だけは消えなかった。彼女は震える小さな手をスカートの裾で握り締め、震えながらも気丈に頭を下げた。
「……私は、王女アンと申します。ぜ、ぜひ、お礼をさせてください……」
その澄んだ声には、気高さと、救ってくれたことへの純粋な感謝の色が満ちていた。
「王女」というその身分を聞いた瞬間、ヒロの表情がこれ以上ないほど曇った。
「……」
無言のまますぐに踵を返し、その場に放り出していた荷物を手際よく拾い集める。そして、重い赤い工具箱を無言で肩に担ぎ直した。
「ガレス、行くよ」
「お、おい待てよ! お礼貰おうぜ! すげぇうまいもん食わしてもらえるかもしれねぇだろ?」
ガレスは慌ててヒロを追いかけ、その肩を引き止めようと手を伸ばした。目の前の少女が王族だという驚きよりも、せっかくの報酬や食料のチャンスを逃そうとしている相棒の様子がおかしいことの方に焦りを覚えたからだ。
しかし、ヒロは振り向きもしない。ガレスの大きな手を荒く振り払うと、冷え切った声で吐き捨てた。
「貧しい人たちから巻き上げた税金でお礼?…笑わせるね」
昇り始めた朝日の柔らかな光が、王都へと続く街道を淡く染め上げていく。
アンは、遠ざかっていく二人の小さな背中を、ただその場に立ち尽くしたまま見つめることしかできなかった。なぜあんなにも冷たい拒絶をされたのか、その理由は分からないまま、胸の奥だけがチクリと痛んでいた。
そんな沈黙を破るように、ガレスがスタスタと歩くヒロの背中を慌てて追いかけながら、ふと足を止めて振り返った。
ガレスは、気まずそうに、けれどいつもの豪快な笑みを浮かべながら、大きく右手をぶんぶんと振る。
「すまん! ホントは、いいやつなんだ! 今度腹一杯美味いもん食わしてくれよー!!」
そう大声で言い残すと、ガレスは照れくさそうに頭をかき、再び前を走るヒロの背中を追いかけて駆け出していった。
静寂を取り戻した朝の街道に、二人の足音が遠ざかっていく。
アンはその背中が見えなくなるまで、ずっと小さく手を握りしめたまま見送り続けていた。
ーーーそれからしばらくして
朝日が完全に昇り、周囲がすっかり明るくなった頃。
街道の向こう側から、慌ただしい蹄の音と馬車の車輪音が近づいてきた。
王都から急行した増援の一行だった。
先頭を駆けていたのは、王家の執事長にして歴戦の「剣聖」の名を持つセバスだ。王女急襲の報を受けるやいなや、王都内で迅速に兵を組織し、馬を飛ばしてようやくこの現場へとたどり着いた。
「アン様っ!」
セバスは馬から飛び降りると、無事を確認するようにアンの元へ駆け寄る。王女が無事であることを見て取り、胸を撫で下ろした。
「遅れて申し訳ございません。お怪我はございませんか?」
「……ええ、私は大丈夫。それよりもセバス、あそこに……」
アンが指し示したのは、ガレスたちによって縛り上げられ、地面に転がっている数名の賊たちだった。
セバスは鋭い視線を賊たちに向け、手元の護衛兵たちにテキパキと指示を飛ばす。
兵士たちが動き出し、気絶から目を覚まし始めた賊たちを次々と馬車へ押し込んでいく。
さらに、セバスは辺りに残された足跡や状況を素早く確認した。
「逃げた者たちがいますね。……森の奥へ逃げ込んだ残党を捜索し、一人残らず捕らえなさい!」
セバスの号令の元、新たな増援の兵士たちが森へと散っていく。
緊迫した空気に包まれる中、アンは再び、二人が消えていった王都への街道の遠くを見つめた。
冷たい言葉を残していった少年の背中と、最後に大きく手を振ってくれたもう一人の少年の笑顔が、アンの瞳の奥に静かに焼き付いていた。
現場の指揮を滞りなく終えたセバスは、保護したアン王女を伴って馬車へと乗り込み、王都への帰路についた。
揺れる車内で、セバスは負傷した護衛兵たちから今回の襲撃事件、そして何より――あの二人の少年の詳細な報告を聞き終えていた。
「助けに入ったのは、十歳前後の少年が二人……ですか」
静かに呟くセバスの脳裏に、王都を出発し、この森へ急行する道中の光景が鮮やかに蘇る。
あの時、増援を率いて街道を急ぐ最中、彼らは一組の少年たちとすれ違っていたのだ。
(――あの二人か。どうりで……)
一人は、燃えるような鮮やかな赤髪と、自分の背丈すら優に超える巨大な大剣を背負った少年。
一目見て、尋常ではないと分かった。
十歳そこらの子供の気配ではない。
よくぞここまで鍛え上げられたと言わんばかりの引き締まった肉体、無駄のない足運び、そして獣が持つような鋭い闘気。
そして、その隣に並ぶもう一人。
黒髪の少年、赤い工具箱を肩に担いで歩いていた。
あの日、すれ違った瞬間、セバスはふと視線を向け、その黒髪の少年と目が合ったのだ。
――あの時のことを思い出すだけで、歴戦の剣聖であるセバスの背筋に、わずかな悪寒が走る。
少年から強大な闘気や魔力の圧は感じられなかった。
――目が合った。
ほんの一瞬だった。
こちらを睨んだわけでもない。
挑発したわけでもない。
ただ、見ただけ。
それだけなのに、セバスは妙な感覚を覚えていた。
自分の重心。呼吸。腰に下げた剣。
そのすべてを、たった一度の視線で静かに観察されたような。
そして何より、その瞳の奥には、十歳ほどの少年には到底似つかわしくない、深く沈んだ闇があった。
(……あれは、あんな小さな子がしていい目ではない)
窓の外へと視線を向けていたアンが、膝の上で両手を固く握り締め、震えるようにポツリと口を開く。
「セバス……」
揺れる馬車のなか、深い思索に沈んでいたセバスは、隣から聞こえてきた小さな声にはっと現実へと引き戻された。
「『助けなければよかった』って……言われたの」
アンの青い瞳から、ぽろりと一筋の涙がこぼれ落ちた。恐怖で怯えたのとは違う、胸の奥を抉られたような、痛切な傷跡がそこにあった。
なぜあんなことを言われなければならなかったのか。自分が王族だからか。それとも、あの綺麗なドレスを着て、守られるだけの存在だからか。少女の心には、答えのない問いが重くのしかかっていた。
セバスは何も言わずに、まっすぐに主君である王女を見つめた。
あえて言葉をかけて慰めることもしなければ、理不尽な言葉を吐いた少年たちに怒りを示すこともしない。ただ、静かな眼差しでアンの苦しみを受け止め、続きを促すように小さく、一度だけ深く頷いてみせた。
その無言の肯定に背中を押されるように、アンは絞り出すように言葉を続ける。
「お礼をしたいと伝えても、『税金でお礼?』って……笑われました」
アンの肩が、やるせなさと拭えない悔しさにわずかに震えていた。
ただ、命を救ってくれたことへの純粋な感謝を伝えたかっただけだ。それなのに、自分の差し出した好意の根っこごと冷たく切り捨てられた。その事実が、少女の純粋な心を激しく揺さぶっていた。
「私は今まで、自分の権力や立場を笠に着て横柄な振る舞いをしたことなどありません……! 民の立場に立ち、常に同じ目線で寄り添い、語りかけてきました。それなのに……どうしてあんな目を……」
アンの言葉を聞きながら、セバスの表情はスッと険しさを増していった。
セバスは知っている。王女であるアンがこれまでどれほど真摯に民と向き合ってきたかを。彼女の優しさは偽りなどではなく、民衆からの評判も驚くほど良かった。誰からも愛される、親しみやすい王女――それは紛れもない事実だった。
ーーーしかし
セバスはゆっくりと、しかし重みのある声で口を開いた。
「同じ目線とは……いったいどなたの目線でございますかな?」
その問いに、アンはハッとしたように息を呑んだ。
生まれて初めて見るセバスの険しい表情に気付き、彼女は小さく震えながら、その言葉の続きに耳を傾ける。
「アン様が『同じ目線』と思っておられるものは、あの少年たちには違って見えていたのでしょう」
セバスは静かに前を見据えたまま、言葉を紡ぐ。
「アン様は、城という高みから世界をご覧になってきました。ですが、どれほど身を屈めようとも、城から降りぬままでは見えぬものがございます」
そして、セバスは再び目を閉じ、すれ違った二人の少年の姿を思い起こす。あの赤い工具箱、傷だらけの肉体、そして今を生き抜こうとする泥臭い足取りを。
目を開いたセバスの瞳には、一切の妥協のない厳しさと、深い達観の色が宿っていた。
「城壁の高さではなく、泥の深さを知りなさい」
「それが、本当に人と目線を合わせるということです」
セバスの言葉は、アンの胸の奥底へと重く、深く突き刺さった。
少女は自分の無知と、これまでの「優しさ」の限界を突きつけられ、言葉を失ったまま、ただぎゅっと自分のドレスの裾を握りしめるしかなかった。
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