無力
それから数日、陽だまり村はかつてない静寂と恐怖に包まれた。
ガレスは朝から晩まで休むことなく、山へと走り続けた。
山の奥深くにある清らかな水源から綺麗な水を汲み、獣を仕留めて肉を届け、安全な山菜を採集して村へ持ち帰る。少しでも村人たちの口に入るものを安全なものにしようと、体力の限界が訪れるのも構わず、何度も険しい山道を往復した。
一方、ヒロは村に残り、次々と床に伏せていく村人たちの看病に奔走していた。
井戸水や汚染された作物を口にした大人たちは、高熱とうなされに苦しみ、みるみるうちに衰弱していった。
それでも、村人たちは苦しそうに息を吐きながら、ヒロの顔を見るたびに口々に礼を言った。
「すまないねぇ、ヒロちゃん……」
「ガレスも、いつもすまない……」
そして、自分が病に伏せているというのに、彼らは決まってこう続けたのだ。
「お前たちまで病気が移ったら大変だ。無理をしないでくれよ……」
自分たちの命が危ういというのに、心配するのはいつだって二人の少年のことだった。我が子のように愛し育ててくれた大人たちのその優しさが、看病に追われるヒロの胸を締め付け、熱いものをこみ上げさせた。
村人たちの優しさに報いるためにも、絶対にこの危機を乗り越えなければならない。
ヒロは涙をこらえ、震える手で薬草をすり潰しながら、必死に治療を続けた。
ガレスが命がけで運んできた綺麗な水と安全な食事を与え、手に入る限りの薬草を煎じて飲ませた。
それなのに、誰一人としてよくならない。熱は下がらず、苦しげなうめき声は日を追うごとに小さくなっていく。
「なんで……治療の魔法が載ってないんだよっ!」
ヒロは握りしめていた魔法書を床へと叩きつけ、絶望に満ちた声を張り上げた。
知識を求め、理を解き明かすために開いてきたその本には、物質を変化させ、魔力を爆発させる術式はあっても、壊れた肉体を修復し、体内の毒を癒やすための記述など一文字もなかった。知恵だけを武器にしてきたつもりだった自分が、あまりにも無力だった現実が突きつけられる。
血の気が引いた顔で、ヒロはふらふらと立ち上がった。
――まだだ。あの人だけは……。
向かった先は、静まり返った鍛冶場だった。
村の大人たちが次々と倒れる中、唯一、あの頑丈な親方モルドだけはまだ病にかかっていなかった。ヒロにとって、それは最後の頼みの綱だった。
だが、たどり着いた鍛冶場は、異様なほどに静かすぎた。
いつもなら赤々と燃え盛っているはずの炉の火は落ち、カンカンと響くはずの槌の音もない。
「モルドさん……?」
かすれた声で呼びかけながら足を踏み入れたヒロは、その光景に息を呑んだ。
かつて力強く槌を振るい、無骨な背中ですべての技術を教えてくれた巨体が、冷たい土間の床に、音もなく倒れていた。
「……っ!」
言葉にならない絶叫が、ヒロの喉の奥で詰まった。最後まで倒れないと思っていた師が、ついに倒れた。最後の砦が崩れ去ったその現実を前に、ヒロの足元から崩れ落ちるように、その場に膝をついた。
冷たくなった床の上で、ヒロは震える両手でモルドの巨体を抱え上げ、必死にその上体を起こした。
「モルドさん……! しっかりしてください、今薬草を――」
ガラガラと掠れた、絞り出すような息の音が響く。モルドは重たそうに、ゆっくりとその瞼を持ち上げた。濁った瞳が、目の前にいる弟子をようやく捉える。
「……ヒロ……」
「はい、ここにいます! 何でも言ってください!」
モルドの唇が、わずかに動いた。
「……地下へ、行け……」
「地下……?」
「魔力……導管だ……」
その言葉を聞いた瞬間、ヒロの頭の中で凄まじい勢いで思考が回転を始めた。
魔力導管――。
以前、魔法書を開いたときに目にした言葉だ。王都の魔力炉から各家へと魔力を供給する、あの地下に張りめぐらせた導管の仕組み。
なぜ、今その言葉を……?
「あれを、持っていけ……」
モルドは力を振り絞るように、床の隅を指さした。
その指が指し示していた先には、かつて鍛冶場に足を踏み入れた日、一目見ただけでその美しさに心を奪われた――あの「赤い工具箱」があった。
そして再び、モルドの顔へと視線を戻した。
しかし――。
その老いた瞳に、もう光は宿っていなかった。
「……モルドさん……?」
呼んでも、返事はない。
ただ、静かに開かれたままの濁った瞳が、虚空を見つめていた。
ヒロは震える手で、モルドの瞼を優しく、そっと閉じさせた。
すでに冷たくなり始めた巨体から離れ、足元に置かれていた赤い工具箱をしっかりと肩にかける。そして、もう動かない師の亡骸へ向かって、深く、深く頭を下げた。
「……少し、お借りします」
呟いた声はかすれていたが、その瞳には強い決意が灯っていた。
ヒロは立ち上がり、鍛冶場を勢いよく飛び出す。
その異変にすぐ気づいたガレスが、どこからともなく駆けつける。
「ヒロ!どうした!?」
走りながら、ヒロは振り返りもせずに叫ぶ。
「村の地下に行くよ!」
二人は村の広場の一角にある、滅多に使われない古い石扉へと駆け寄った。
鍵を外し、荒々しく扉を開け放つと、地下からじめっとした冷たい空気がフワリと吹き上がる。
足を踏み外しそうな暗闇の中、石造りの階段を、二人は一気に駆け下りた。
ヒロが指先に灯した小さな魔法の光だけが、頼りなく周囲の闇を照らし出している。
奥へ、さらに奥へと進むにつれ、ガレスが突然顔をしかめ、片手で鼻を押さえた。
「……この臭い」
ガレスの足が止まる。
「井戸水と同じだ……いや、もっとひどい。胃がひっくり返りそうだ」
表情が険しく歪み、恐怖に似た気配が混じる。
さらに地下深くへ進み、たどり着いたのは、村の底を這う地下道だった。
頑丈な石造りの壁。その壁に沿うように導管が張り巡らされている。導管は、至るところで亀裂が入り、そこから淡く青白い魔力が噴き出している。その流れる先は、地下道の中心を通る下水道だった。下水道に流れた魔力は泥のような色に変色している。
「……そんな……」
ヒロは絶句し、その場に立ち尽くした。
漏れ出して濁った魔力はその周辺の地面へ染み込み、さらに地下深くへと広がっている。
ヒロの脳裏に、村の井戸と、土の異常が同時に浮かんだ。
「……地下水まで、流れてる……?」
背筋が凍った。確証はない。
それでも、これまで起きた異変が一本の線で繋がっていく。
「……老朽化」
ヒロは震える声で呟いた。
「魔力導管が……壊れたんだ」
村人たちを次々と床に伏せさせ、モルドの命まで奪った正体知れぬ病。
その真犯人は、誰の目にも触れない地下深くで、静かに、そして確実に進行していた見えない災厄だった。
ヒロは打ち震える手を伸ばし、冷え切った地下導管の壁に手をついた。
伝わってくるのは、ひどく冷たい石の感触だけだ。
(……もっと早く気づけていれば)
(村の隅々まで、もっと目を配っていれば……)
助けられたかもしれない。防げたかもしれない。
遅すぎた後悔と、自分の無力さに対する激しい悔恨だけが、ヒロの胸を締め付け続けていた。
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