亀裂
その日から、ヒロは岩場へ行かなくなった。
あの日、夜空の下で告げた言葉が、二人の間に見えない境界線を引いてしまったことをヒロは知っていた。
それでもガレスは、変わらず毎朝ヒロの家の木戸を叩いた。
コン、コン。
かつてのような朝の静寂を吹き飛ばすような大声はない。どこか遠慮がちで、どこか寂しげな、軽いノックの音が響く。
「今日も……行かねえのか?」
扉の向こうから漏れてくるガレスの声には、かつての圧倒的な熱量が嘘のように消え失せていた。
ヒロは布団の中に潜り込み、ぐっすりと眠っているふりをする。返事をしないまま、ガレスがトボトボと地面を踏みしめて遠ざかっていく足音を、息を殺して聞き続けた。やがてその足音が完全に聞こえなくなってから、ヒロはゆっくりと重い身体を起こすのだった。
あの夜、「王都へ行く」「世界一の冒険者になる」と目を輝かせるガレスに向かって、「僕は村に残るよ」と告げたとき、ガレスは引き下がらなかった。
「なんでだよ! 一緒に行こうぜ!生まれてからずっと一緒だったじゃねえかよ!」
しつこく、何度も理由を問い詰めてきた。
ヒロは身体強化魔法で何とか引き分けに終わった撃ち合いの後、気づいてしまった。どれだけ魔法の理を学び、知性を磨いても、目の前で圧倒的な才を見せるガレスには追いつけない。
その差に引け目を感じていることを、どうしてもガレスには言えなかった。
だからヒロは、もう一つの――けれど、紛れもない本心を伝えた。
――この村を守りたい。
それは決して、その場しのぎの嘘ではなかった。
高齢化が進み、衰退の一途をたどるこの陽だまり村から、数少ない若い労働力であり、唯一の子供である二人が出ていってしまえば、村はゆっくりと衰え、いつか消えてしまうかもしれない。
だからこそ、自分は残るのだと。
モルドから受け継いだ鍛冶の技術と、魔法書から見出した新たな理を駆使して、村人たちの暮らしを少しでも楽にする。それこそが、赤子の頃から自分たちを我が子同然に育ててくれたこの村への、せめてもの恩返しなのだと。
理路整然と語られるその正論の前に、ガレスは何も言い返すことができなかった。
ただ悔しそうに拳を握り締め、それ以上言葉を紡げなくなった相棒の姿を思い出すと、ヒロの胸の奥は鉛のように重く痛んだ。
村人たちは、二人の間に走った亀裂にすぐ気づいた。
あれほど毎朝のように連れ立って岩場へ通い、汗を流していた二人の足がぱったりと途絶えたのだ。赤子の頃から我が子のように、その成長のすべてを慈しんで見守ってきた大人たちが、その変化に気づかないはずがなかった。
二人が抱えている蟠りも、どちらが言い出したのかも、大人たちには痛いほどよく分かっていた。だからこそ、誰も声をかけることができなかった。優しさゆえの沈黙が、村全体を重く包み込んでいた。
――一人を除いては。
その日も、鍛冶場にはカンカンと鉄を打つ硬質な音が響いていた。
モルドは二人の事情などどこ吹く風といった様子で、相変わらず無愛想にヒロへと仕事を教えている。
鋏の入れ方、鉄の冷まし方、炉の温度管理。
鍛冶の基本を淡々と叩き込みながら、モルドはヒロがその教えをただの技術としてではなく、自らの魔法へと落とし込み、応用していく様をじっと黙って見つめていた。
モルドにとって、ヒロがこの村に残ろうと、あるいは王都へ旅立って冒険者になろうと、そんなことはどちらでもよかった。
彼にあるのはただ、一人の職人として目の前の弟子を一人前に育て上げるという執念だけだった。
そしてもう一つ。
自分が長年かけて身体で覚えた鍛冶の技術を、この賢い少年が「魔法」というまったく別の手段と結びつけていくことへの、職人としての純粋な好奇心。
それだけが、モルドの関心だった。
だからこそ、モルドは特別扱いもしなければ、気を遣うような慰めの言葉もかけない。ただいつものように、無骨な背中で技術を示し続けた。
その無神経なまでの変わらなさや、余計な詮索を一切しない態度が、今のヒロにとっては救いだった。
村人たちの痛いほどの心配りや、哀れむような優しい視線に触れるたび、ヒロは自分の不甲斐なさを突きつけられているようで胸が締め付けられていたからだ。
誰にも気負わされず、ただ目の前の鉄と向き合い、技術を高めることだけに没頭できる鍛冶場の空間だけが、今のヒロにとって唯一の逃げ場であり、心地よい安らぎの場所だった。
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