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番外編 都市の光を消した少年

 その少年、レンが住んでいたのは、アオイの古いアパートのすぐ向かいに建つ、最新型の高層マンションだった。

 彼の部屋は、二十四時間絶え間なく変化するホログラム広告の光にさらされ、カーテンを閉めてもなお、不自然なマゼンタやシアンの残光が室内を侵食していた。


 レンは、アオイとは言葉を交わしたことさえなかった。

 けれど、毎日同じ時間に屋上へ駆け上がり、赤茶けた空を熱心に見つめていた彼女の姿を、窓越しにいつも眺めていた。

 都市の人々が「効率的ではないもの」を排除していく中で、ただ一人、何もない空に何かを探し続けていたアオイ。 彼女がある夜、小さなカバンひとつを抱えて都市の境界へと消えていくのを見たとき、レンの胸には、名づけようのない焦燥感が走った。


「……あいつ、本当に行っちゃったんだ」


 アオイがいなくなってからの数日間、レンの目に映る都市の光は、以前にも増して空虚で、冷たいものに感じられた。

 街は祭典の準備に浮き足立ち、より強く、より派手な光を空に放とうとしていた。

 けれど、レンはアオイが屋上で見せていた、あの「祈るような横顔」が忘れられなかった。

 彼女が探していたものは、この下品な輝きの向こう側にしかないのではないか。


 ある夜、レンは自分の部屋のすべてのスイッチを切った。

 照明、モニター、ホログラム。

 けれど、それでも部屋は暗くならない。窓の外から、都市の光が暴力的に流れ込んでくるからだ。


「……消さなきゃ」


 レンは、厚手の遮光カーテンを三重に重ね、隙間を黒いテープで塞いだ。

 そして、それだけでは足りず、彼は都市の管理システムにハッキングを仕掛けた。

 彼は学校で「天才プログラマー」と呼ばれるほど、デジタルな扱いに長けていた。

 本来なら、その才能は都市をより明るく、便利にするために使われるべきものだったが、彼は今、逆のことをしようとしていた。


 彼が狙ったのは、自分の住む区画の、ほんの僅かなエリアの街灯と、巨大広告の制御システムだった。


「ごめんね、みんな。少しだけ、目を休めてよ」


 エンターキーを叩いた瞬間、窓の外で轟いていた光の奔流が、ぷつりと途絶えた。

 レンの部屋の周りだけが、まるで都市に空いた黒い穴のように、深い闇に包まれた。


 静寂が訪れた。

 今まで聞こえていた電子音が消え、レンは暗闇の中で、自分の呼吸が少しずつ深くなっていくのを感じた。

 彼はベランダへ出て、アオイがいつも見上げていた空を見上げた。


 最初は、何も見えなかった。

 けれど、目が闇に慣れるにつれ、レンは驚くべきことに気づいた。

 赤茶けた霧だと思っていた空の奥底で、何かが「待っている」ような気配がするのだ。

 それは、都会の喧騒の中では決して感じ取ることのできない、宇宙の微かな呼吸だった。


「……アオイ、君はこれを感じていたの?」


 レンは毎晩、その「闇の実験」を繰り返した。

 彼が光を消したエリアでは、苦情を言う大人たちもいたが、不思議と静かに空を見上げる子供たちの姿も増えていった。

 レンは、アオイがどこかで道に迷わないように、都市の中に「闇の港」を作って彼女の帰りを待っているような、そんな敬虔な気持ちになっていた。


 そして、運命の夜がやってきた。

 アオイが光の門を開けた瞬間、レンは自分の部屋で、これまでにないほどの強い「予感」を感じた。


 空を覆っていた赤茶色の幕が、内側から鋭い刃で切り裂かれるように、一気に剥がれ落ちた。

 レンがハッキングして消した闇よりも、ずっと深く、ずっと美しい本物の「夜」が、都市を飲み込んでいく。


「――っ!」


 レンの瞳に、最初の「瞬き」が映った。

 それはダイヤモンドを砕いて宇宙に撒き散らしたような、命の輝きだった。

 かつてアオイが見上げ、おばあちゃんが語り、守護者が守り続けた星々が、レンの目の前で爆発するように輝き始めたのだ。


 レンはベランダの柵を握りしめ、溢れ出す涙を拭うのも忘れて空を見上げた。

 

「戻ってきたんだ……あいつ、本当にやり遂げたんだな」


 都市の光を消した少年は、その夜、初めて「本当の光」の意味を知った。

 それは自分を照らすためのものではなく、遠くにある誰かと繋がるための、切なくて温かな道標なのだということを。


 翌朝、アオイが記憶を失って野原で目覚めたとき。

 レンは、自分の部屋のカーテンをすべて取り払っていた。

 彼の手元には、新しく書き始められた日記があった。

 その最初のページには、こう記されていた。


『今日、世界に星が戻った。僕たちは、もう二度と空を忘れない』


 アオイが記憶を失っても、彼女が残した意志は、こうして一人の少年の心に、新しい星座として刻まれていた。

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