番外編 銀河を渡る手紙
その時代、夜空はもはや「遠くから眺めるだけのもの」ではなくなっていた。
都市を覆っていた毒々しいネオンは影を潜め、建築物は星々の運行を妨げないよう、柔らかな琥珀色の光を放つのみとなった。
人々は、自分たちの命が広大な宇宙の一部であることを当たり前のこととして受け入れ、毎晩、空という名の巨大な絵本を開くようにして夜を過ごしていた。
かつてアオイが住んでいたあの古いアパートは、今や「星の守護聖域」として静かに保存されている。
その屋根裏部屋の窓からは、今も変わらず北極星が見守り、その小さな部屋の壁には、ある伝説的な少女の功績が記されていた。
『星を呼ぶ少女、アオイ。彼女は自らの記憶と引き換えに、人類に真実の夜を返した』
その物語は、教科書に載るような堅苦しい歴史ではなく、夜寝る前に親が子供に語り聞かせる、最も愛される「お伽話」として定着していた。
アオイという名は、勇気と献身、そして「遠くにあるものを信じる心」の象徴となっていたのだ。
百年後の春、その聖域を訪れた一人の少年がいた。
彼の名は、かつて都市の光を消そうと抗った少年、レンの曾孫にあたる。
少年は、曾祖父から代々受け継がれてきた、古びた一冊の日記を持ってた。
そこには、あの星が戻った夜の興奮と、記憶を失いながらも微笑んでいたアオイという少女の面影が、震える筆致で綴られていた。
「アオイさん。僕たちは今、あなたの背中を追いかけて、あの空へ旅立とうとしています」
少年が聖域の丘から見上げた先には、かつてのアオイが夢見た以上の光景が広がっていた。
軌道上には、星々の輝きを遮ることのない透明な宇宙港が浮かび、銀色の船体が、星と星を繋ぐ「光の航路」を滑るように進んでいる。
かつての「星の道」は、今や物理的な道となり、人類はついに、忘却の境界を越えて銀河へとその手を伸ばし始めていた。
少年は、一通の手紙を取り出した。
それは、現代の子供たちが、伝説の少女アオイに向けて書く「銀河を渡る手紙」のひとつだった。
『親愛なるアオイさんへ。
あなたの記憶は消えてしまったけれど、今の僕たちには見えています。
あなたが守ってくれた星の一つひとつに、あなたの優しさが宿っているのが。
僕たちはこれから、あの光の門を越えて、新しい星々を訪ねる旅に出ます。
そこで出会う新しい命にも、あなたの物語を伝えます。
約束を忘れないことが、どれほど世界を美しくするのかを。』
少年がその手紙を、最新型の「光子郵便」のポッドに乗せて空へ放つ。
手紙は一筋の光となって、あの金色の髪の守護者が今も見守っているであろう、宇宙の深淵へと消えていった。
その瞬間。
屋根裏部屋の窓の向こうで、星々が一際強く、チカチカと瞬いた。
それは、百年前にアオイの記憶を栄養にして甦った星たちが、今もなお彼女への感謝を忘れずに、地上の人々へ送っている「返事」だった。
アオイ自身は、その後の人生をどう過ごしたのだろうか。
彼女は記憶を失ったあと、平凡な、けれど心穏やかな一生を終えたと伝えられている。
彼女は自分が「星を呼ぶ少女」であったことさえ知らないまま、ただ毎晩、空を見上げては「きれいね」と微笑んでいた。
けれど、その微笑みこそが、宇宙にとってはどんな英雄的行為よりも尊い「約束の証」だったのだ。
人類がどれほど遠くへ行こうとも、どれほど新しい技術を手にしようとも。
夜が来れば、人々は立ち止まり、上を向く。
そこには、一人の少女が命がけで繋いだ、終わることのない銀河の物語が輝き続けているから。
星と人。
交わされた約束は、もはや消えることのない永遠の星座となり、宇宙のどこまでも、明日を照らし続けていく。




