お忍びデート
夕陽が沈み、群青色に染まる空には月がのぼっている。
エミリアは石畳で舗装された道を歩きながら、きょろきょろと周囲を見回した。
魔術灯で照らされた街はどこも昼のように明るく、活気に満ちている。
大きな窓ガラスの向こうに見える店内では、人々がグラスを片手に談笑し、外のテラス席でも食事やお酒を楽しむ人々であふれていた。
「マリア、上を」
アシェルがエミリアの偽名を呼んで、上を指差す。
エミリアが天を仰ぐと、建物と建物を結ぶように縄がかけられていて、そこに青い布と赤い布が交互に吊るされているのが見えた。
「青い布はエミリアを歓迎しているという意味だ。きみがここにいるとバレたら大騒ぎだな」
「それはアシェル様も同じですよ。フェルゼンの英雄がお忍びで遊びに来ているのですから」
「そうだな。ならば、あまり目立たないように街に馴染まなくてはいけないな」
アシェルはにやりと悪戯っぽく笑って、エミリアの右手をとった。
大胆な行動にあせっているのはエミリアだけで、周囲の人々は見向きもしない。
いまのエミリアは、王女でも戦姫でもない、ただのマリアなのである。
気が楽になったエミリアは、アシェルの手を軽くにぎり返した。頭上でうれしそうに笑う気配がして、エミリアもくすぐったい気持ちになって笑った。
ふたりならば、何をしていても楽しいのだ。
ふたりは、アシェルの提案で近くの料理屋に入ることにした。牛の立派な彫像が目印の肉料理専門店だ。
「ここのハンバークや肉料理は絶品だぞ。よくヴォルフと一緒に食べに来たものだ」
「アシェル様がそこまで言うのですから、とても楽しみです」
アシェルが扉を開くと、中からわっと歓声があがった。
中はカウンター席とテーブル席が三席ほどの小さな店なのだが、その店の中央で男たちが密集している。
男たちの中心にはテーブルがあって、客らしき若者がテーブルに突っ伏し、その向かいで背の高い大男が両腕を天に掲げている。彼らをとり囲む客たちが両手を叩いて大男を称えていた。
すると、アシェルの姿に気づいた大男がにこやかに近づいて来た。
五十歳すぎの恰幅の良い男だ。
「アベルじゃないか、久しぶりだな!」
アベルとはアシェルの偽名である。
「見ないうちに男ぶりがあがったなぁ!」
「久しぶりだな、店主。あなたも良い男だ、目が離せないぞ」
とジーンズの上にたっぷりと乗っている大きな腹を見つめるアシェルに、店主は「がはは!」と豪快に笑った。
「だろう、これぞシュタール繁栄の証! そういえば、いつもの狼小僧はどうした?」
狼小僧とはヴォルフのことだろう。
「きょうは仕事だ。近くには来ている」
「そうか! 元気そうでよかった!」
実際、彼はエミリアたちの警護のために近くにいるので、嘘は言っていない。
隣に並ぶエミリアに気づいた店主は、丁寧に一礼して「いらっしゃいませ」と笑顔で迎えてくれた。
「アベルのご友人かな? うちのおすすめはハンバーグなんだが、ソーセージもハムもいける! さあ、立ち話もなんだ、空いている席に座ってくれ」
「ありがとうございます。あの、先ほどは何をやっていたのですか?」
「あぁ、俺に腕相撲で勝ったら食べたものすべて無料するって大会だ!」
「ほう」
アシェルが面白そうに目を細めた。
「ここの料理はおいしいからな、それに相応しい対価を払うべきだとは思うが、勝負事となると話はべつだ」
「お? アベル、この俺と勝負するか?」
店主がにやりと笑い、脅すように右腕の筋肉を盛りあがらせた。
アシェルが右腕の袖をまくると、他の客たちの熱気が高まった。
「すまないな、マリア。すこしだけ待っていてくれないか」
「はい、アベル、さん」
呼び慣れない名前を呼ぶのはくすぐったい気持ちだが、正体を隠して呼び合うのはグレーテルの言っていた「お忍びデート」そのもので、ついつい口元が緩む。
次回更新は9/19です。




