二 – 4
病院の食堂は、営業を終えて静まりかえっていた。
義彦は和那を自動販売機のそばにある長椅子に座らせると、紙コップ式の自動販売機でココアを買い、和那に渡した。
そして自分にコーヒーを買うと、和那と並んで座った。
和那はぼんやりと義彦を見た。
義彦は和那の視線に気がつかないかのように、正面を見たまま黙って飲み物を飲んだ。
怒っているようにも、冷静なようにもとれる表情だった。
和那もココアに向き直り、一口飲んだ。
今日は梅雨の合間の晴天だったが、夜になって少し冷えてきた。
甘く暖かいココアを飲んで、和那はようやく落ち着いた。
「びっくり、した」
「俺も」
義彦はそう言ったが、声は冷静だった。
和那は義彦に話しかけた。
「聖義さんに会ったの、すごく久しぶりだったのに」
和那は義彦の前で『叔父さんの葬式で会った以来』とは言えなかった。
義彦は軽く笑いながら和那に言った。
「和那ちゃんが聖義に特別な感情を持っていないのはわかっている。聖義もね。聖義は海が傷つけて一番嫌な相手が和那ちゃんだから、ああしたのだろう」
「どういうこと?」
和那には、一番傷ついているだろう海を、さらに傷つけるという意味が分からなかった。
「海は婚約を解消すると言っている。聖義は拒否しているけど。
聖義には跡継ぎが必要だから、もし海に子供ができなければ、聖義は何らかの形で子供を作る必要がある。それが海には耐えられない」
海の状況を聞いた和那は、悲しい気持ちになった。
「でも・・・だからって・・・」
和那は、聖義が自分にキスする理由が分からなかった。
聖義に触れられた自分の唇に、何の感情も沸いてこなかった。
義彦は諭すように和那に言った。
「聖義はああ見えて海に一途だ。だから海は、自分がいれば聖義に愛人を作れないと思っている。
でも聖義は、海と一緒にいるためなら他の人間、たとえば愛人になる人を傷つける覚悟でいるのを解ってもらおうとした。恋愛感情なしでも愛人を作れるのだと。だからって和那ちゃんに」
「でも海ちゃんも聖義さんも、お互いが好きなのに」
「そうだね。それに海だって子供は産める。急いで結論を出すことはない」
和那は義彦の話を聞いて落ち着きを取り戻したが、別の不安が頭をよぎった。
「どうしよう。私、まだお見舞いに行っていない。
でもこんな気持ちで海ちゃんに会えない」
義彦は黙って和那を見た。
海は人の気持ちを読むことができる能力を持っていた。
もし今の和那を見たら、たとえ和那が口にしなくても海は聖義との事を読んでしまうだろう、と義彦は思った。
聖義はそれが目的だった。
義彦はしばらく考えた末に言った。
「和那ちゃん、話があるのだけど」
和那は泣きそうな気持ちで訊いた。
「何ですか?」
「俺とつきあってくれないか」
義彦の言葉に、和那は息が止まると思った。
自分の好きな人から告白されるのは、男女を問わず、多くの人の夢であろう。和那は自分にその幸運が訪れるとは思っていなかった。
しかも和那は、幼い頃に義彦に告白したが、軽くいなされた経緯がある。
だから和那は義彦の言葉には別の意味があると思い、無言のまま義彦を見た。
すると義彦は自分でもおかしくなったのか、軽く笑って言った。
「二十五歳のおじさんが、女子高生に言う言葉ではないな。
一歩間違えれば犯罪者だし」
その言葉で、ようやく和那は義彦の告白であることを理解した。
しかし和那はすぐには納得できなかった。
「つきあうって。あの、恋人ってことですよね?私と?」
真っ赤になりながら尋ねる和那があまりにも可愛くて、義彦は笑顔で応えた。
「そう。こんなことを言って、俺は大和さんに殴られるかもしれない」
「父さんは怒らないと思うけど・・・私でいいのですか?」
「いいって、俺が和那ちゃんに言ったのに」
きっぱりと言い切る義彦に対して、和那はとまどいながら言った。
「私に聖義さんのあの・・・あれを忘れさせるためではなく?」
キスを、と言いかけて和那は口ごもった。
義彦は微笑みながらも、強い口調で言った。
「和那ちゃんこそ、俺の言葉の意味を分かっている?
俺はまだ研修医だから会える機会は少ないだろうし、寂しい思いをさせてしまうかもしれない。
でも・・・まあいいか。
和那ちゃんはこれからたくさんの人に出会うだろう。
だから、もし和那ちゃんに他に好きな人ができたら、俺は引き留めないから」
義彦の謙虚な姿勢に、和那は照れながら思った。
--そんなことは絶対にない。私はずっと義彦さんが好きだったもの。
和那は義彦に尋ねた。
「私の・・・どこがいいのですか?」
和那の問いに、義彦は少し考えながら言った。
「和那ちゃんは人を元気にさせる。俺の周りでは他にいない」
和那は、義彦と母親が同じ事を言ったことに驚いていた。
そして和那は気持ちを落ち着かせるために深呼吸をしてから、ゆっくりと義彦に言った。
「私、義彦さんにふさわしくなれるように、がんばります」
和那の笑顔は緊張のあまりぎこちなかった。
義彦は和那の頭を軽く撫でながら笑った。
「背伸びをしなくていいよ。今は学校に行ってちゃんと勉強して、いろいろな人に会って。
時々、俺と会ってほしい。和那ちゃんと話がしたい。『つきあってほしい』っていうのは、そういう意味でいいから」
義彦が優しい表情で言ったその瞬間、聖義とのキスの記憶は和那の記憶の底に沈んでいった。




