誕生
「……え?」
シアが息をのむ。
赤と白のマーブル模様の殻に、細いひびが走っていた。
そのひびはひと筋では終わらない。ぴし、ぴし、と音を立てながら蜘蛛の巣のように広がっていく。
「うそ……」
ひびの一部が小さく欠け落ちた。
その穴の奥に見えたのは、暗闇の中でも燃えるように鮮やかな、深紅の鱗。
どくん。
卵の鼓動が、今までで一番強く響いた。
卵の赤い模様が、鼓動に合わせて脈打つように光りはじめた。
どくん。
どくん。
どくん。
生きものの心臓のように、赤い光が殻の上を走る。
それはもう、さっきまでの静かな鼓動ではなかった。
今にも生まれ落ちようとする命が、殻の内側から世界を叩いている。
シアの腕の中で、卵はゆっくりと持ち上がった。
抱きしめていたはずの腕から、するりとすり抜け、卵は回転しながら宙へ浮かび、赤と白のマーブル模様をきらめかせた。
『シア……』
声が、頭の中に直接響いた。
低く、けれど熱を帯びた声。
遠いところから聞こえるのではない。
胸の奥へ、そのまま落ちてくるような響きだった。
『シア』
今度は、はっきりと。
シアは息を呑んだ。
涙で濡れた頬のまま、浮かぶ卵を見上げる。
「わたしの……竜……?」
次の瞬間、どくん、と今まででいちばん大きな鼓動が響き、シアの鼓動と重なった。
同時に、卵を中心として、赤い魔法陣が空中にひらいた。
それは、ひとつではない。
水面に落ちた雫の波紋のように、幾重にも、幾重にも真円を描いて広がっていく。
赤い光はゆるやかに脈打ちながら重なり合い、やがて一輪の巨大な花が咲くように、夜の闇の中で燃えるように開いた。
美しい。
黒竜王の瘴気すら、その一瞬だけ遠のいたように思えるほど。
けれど、その美しさの代償のように、シアの身体から一気に魔力が引き抜かれていく。
「……っ、ぁ……!」
膝が崩れ、両手が床につく。
指先から、胸から、身体の奥から、何かがごっそり持っていかれるような感覚。
立っていられない。息も苦しい。視界が揺れる。
それでもシアには分かった。
あの魔法陣は、ただ卵の力だけで描かれているのではない。
自分の魔力が流れ込み、卵の中の命とひとつになって、あれを描いている。
真っ赤な魔法陣。
燃えるような、炎の陣。
シアは力の入らない腕を持ち上げた。
導かれるように、シアの右手が高く上がる。
指先が夜の空気を裂き、赤い光の軌跡を残しながら、空中へ炎の上級魔法陣を描きはじめた。
卵の回転は、加速度的に速くなっていった。
赤い魔法陣が最後の文字を描いた直後、花が閉じるように中心へ一気に収束する。
次の瞬間――殻がまばゆい光とともに弾け飛んだ。
『待たせたな、シア!!』
轟く声。
それは生まれたばかりの命の声とは思えないほど、熱く、強く、この場のすべてを震わせた。
ばさり、と身体より大きな翼が広がる。
熱を帯びた風が吹き荒れ、白い蒸気と瘴気の残滓を一気に吹き払った。
そこにいたのは、ひと抱えほどの大きさの竜。
燃えるような深紅の鱗は、まるで炎そのものをまとっているように鮮やかだった。
頭には大きな角が後ろへ流れるように巻き、その姿には幼竜の小ささと、竜王の威厳が同時に宿っている。
大きく力強い目が、シアを見下ろした。
その眼差しは、初めて会ったはずなのに、ずっと前から知っていた相棒のようにまっすぐだった。
「シア、黒竜王が!!」
「はやく竜を連れて逃げろ!!」
リーナが悲鳴を上げ、ギータが叫んだ。
黒竜王が、再びこちらへ迫ってきていた。
その巨大な眼は、もはやシアではなく、生まれたばかりの深紅の竜だけを狙っている。
獲物を逃すまいとするように、黒い巨体が夜気を裂いて迫り、喉の奥から、あの不吉な音が響きはじめた。
コオオオオオ――。
シアの背筋が凍る。
見れば、黒竜王の大きく開いた口の奥で、黒く濁った魔法陣がゆっくりと形を成しはじめていた。
幾重にも重なる禍々しい円。淀んだ文字列。空気そのものを腐らせるような瘴気の気配。
来る。
シアは思わず怯んだ。
だが、その瞬間だった。
深紅の竜の周囲に、炎が花開くように、真っ赤な、巨大な魔法陣がぶわりと広がった。
それは、さっき卵を包んでいた魔法陣とは比べものにならない。
遥かに大きく、遥かに力強く、空そのものを焼き払うような圧倒的な炎の陣。
何重もの円が重なり、赤い文字が明滅し、夜の闇を押し返すように広がっていく。
『シア』
胸の奥に、深く熱い声が響いた。
『我を信じ、我が力を行使せよ!!』
その声に、シアの中の恐怖が、一瞬で焼き払われる。
そうだ。
ひとりじゃない。
シアは立ち上がった。
両足に力を込め、両手を真っ直ぐ炎の魔法陣へかざす。
シアは息を吸った。
胸の奥にある熱と、竜の鼓動と、自分の魔力が、ひとつに重なるのを感じる。
そして叫んだ。
「撃て!!」
その一声と同時に、真紅の魔法陣が一気に発火した。
ごうっ、と轟音を立てて炎が立ち上がる。
それはもはや火ではなく、壁だった。
押し寄せる瘴気の奔流を真正面から受け止め、飲み込み、焼き尽くす、紅蓮の防壁。
黒い瘴気は炎に触れた瞬間、バチバチと音を立てて霧散していく。
黒を塗り潰すように赤が走る。
瘴気にのまれていた空気が、今度は炎に支配されていく。
そして次の瞬間、魔法陣を構成する文字という文字が、いっせいにほどけた。
赤い文字はひとつひとつが炎の矢となり、無数の流星のように黒竜王へ向かって撃ち出される。
螺旋を描き、うねり、絡み合いながら、無数の矢はやがてひとつの巨大な奔流となった。
それは一本の、灼熱の槍。
夜空を真っ二つに裂きながら、まっすぐ黒竜王の喉元へ突き刺さった。
黒竜王の咆哮が、夜を揺らした。
巨体が大きくのけぞり、喉元から黒い煙と火花を散らしながら、高度を失っていく。
「入った!!」
「すげぇ!!」
「追撃だ!!」
外で迎撃していた三人の竜騎士が、一斉に追いすがる。
それぞれの竜が魔法陣を展開し、炎、氷、風の追撃が黒竜王へ浴びせられた。
傷ついた黒竜王は、大きく翼をはばたかせて体勢を立て直した。
黒い巨体が夜空の中でぐるりと向きを変える。
そして深紅の竜を射抜くように睨んだ。
ひと声。
低く、長く、怒りとも憎しみともつかぬ声を残し、黒竜王は山の方へと飛び去っていった。
残された夜空には、焦げた瘴気の匂いと、なお燃え立つような赤い光の余韻だけが漂っていた。
─ 続 ─




