危機
外の竜騎士の声と同時に、隊舎の影が一気に暗くなる。
黒竜王が巨体を持ち上げ、夜空へ跳ね上がったのだ。砕けた壁の向こう、黒々とした翼が月明かりを覆い隠す。
そして黒竜王は、再び隊舎へその顔を向けた。
「また来る……!!」
シアの声が震えた。
黒竜王の喉の奥から、低く長い音が鳴り始める。
コオオオオオ――。
それはただの鳴き声ではなかった。
喉の奥で魔力が渦を巻き、圧縮され、周囲の空気が引きつる。
黒竜王ががっと大きく口を開くと、その暗い口腔の奥に、禍々しい魔法陣が浮かび上がった。幾重にも重なった円と、黒く濁った文字列。見ているだけで胸が悪くなるような、不吉な術式。
「瘴気……!!」
シアは足を止めた。
あれを浴びれば終わる。卵も、自分たちも、全部。
けれど次の瞬間、リーナが前へ出た。
「下がって!!」
震える声だった。
それでも、両手は真っ直ぐ前へ伸ばした。
リーナの足元に、青白い光がぱっと走った。細い線が円を描き、次々と重なり合って水の魔法陣が展開していく。彼女の水竜が離れた場所で甲高く鳴き、呼応するように魔法陣の輝きが増した。
「お願い……っ、まもって!!」
リーナが叫ぶ。
青白い光の壁が、三人の前に半球状に広がった。水の膜が幾重にも重なり、薄い氷のような光沢を帯びる。
その直後、黒竜王の口からごうっと瘴気が吐き出された。
どろりと濁った黒い奔流が、風を巻き込みながら一直線に襲いかかる。触れた床板が一瞬で黒ずみ、壁がじゅうっと音を立てて腐り落ちていった。
「いやあああっ!!」
リーナの悲鳴と共に、青く輝く水の防壁が大きく揺らいだ。
瘴気は壁の表面を這い、押し潰そうとするように波打った。水の膜が蒸発し、白い蒸気が立ち込める。リーナの肩がびくりと震え、額から汗がふき出した。
「リーナ!!」
「まだ……っ、まだ破らせない……!!」
ギータが、歯を食いしばっているリーナの背を支える。
だが、リーナの防御壁だけではもたないと悟ったギータは、キッと顔を上げ、黒く濁る瘴気と、蒸発して白煙を上げる水の防壁を睨みつけた。
「くそっ……!!」
ギータはリーナを支えていた両手を離すと、一歩前へ出た。
恐怖で上がった息のまま床を見据え、低く詠唱を始める。
「土よ、穢れを呑め。壁となれ、檻となれ。砕けた石も、散った砂も、今ここに集え――」
声が掠れる。
中級の浄化魔法など、ギータにとっては明らかに荷が重い。それでも、ここで止まるわけにはいかなかった。
「――地脈よ、我が魔力に応えろ!!」
詠唱を叩きつけるように言い切ると、ギータは両手を強く床へ叩きつけた。
鈍い音とともに、ひび割れた床板の下から土色の光が走る。
その時、遠くの竜舎の方角から、するどい竜の叫びが響いた。
ギータの竜だった。
いつもは餌桶に顔を突っ込んでばかりいるくせに、今は主を呼ぶように、何度も悲痛な声を張り上げている。
ギータの眉がわずかに動いた。
「……うるせぇ。今、そっち行ってる場合かよ」
吐き捨てるように言いながら、ギータはさらに魔力を叩きつけた。
砕けた石壁、崩れた梁の破片、床に積もった土埃までが、その光に呼応するように震えた。
「ギータ!?」
「うるせぇ、リーナ、黙って防御壁を維持しろ!!」
ギータの怒鳴り声と同時に、彼の足元へ複雑な土色の魔法陣が浮かび上がる。
本来、浄化の術は水や風の系統が得意とするものだ。だが土にも、穢れを吸い、封じ、埋める力がある。
ギータは、講習の時に頭に叩き込んだ中級の土魔法を、自分なりに力でねじ伏せるかたちで発動しようとしていた。
「土よ、飲み込め……っ!!」
床に走った光の筋が一気に広がり、三人の周囲を囲むように土の魔法陣が展開する。
砕けた石片と土埃が巻き上がり、渦を巻いて青い防壁の外側へまとわりついた。瘴気に触れた瞬間、砂と土がじゅうっと音を立てて黒く焼ける。だが次の砂が、次の石片が、その上からさらに覆いかぶさった。
青い防壁の外側に、もう一枚、土色の膜が生まれる。
粗く、荒々しく、けれど確かに広範囲へ広がる浄化の術。
土は瘴気を吸い、封じ、押し返すようにうねった。
「ギータくん……!」
「いいから、前だけ見てろ!!」
リーナの青い防壁と、ギータの土の浄化陣が重なり合う。
黒い奔流はなおも激しく押し寄せてくるが、先ほどまでの一方的な圧迫ではなくなっていた。
瘴気の先端が土色の光に触れるたび、ぶしゅっと鈍い音を立てて削れ、薄れていく。
けれど、その代償は大きかった。
ギータの額から汗が滝のように流れ落ちる。
歯を食いしばった頬は引きつり、肩が小刻みに震えていた。もともと魔力の細かな制御が得意ではないギータにとって、中級の広範囲浄化など明らかに無茶だったのだ。魔法陣はところどころで軋み、砂の渦が乱れ、そのたびにギータは力ずくで押さえ込むように魔力を叩きつけた。
「ぐ……ぅ、ぅぅ……っ!!」
喉の奥からもれる声は、もはや怒鳴り声でも強がりでもなかった。
それでもギータは術を解かない。黒竜王の瘴気から、シアとリーナを守るために、二人の前に立っていた。
「ギータ、もう……!!」
「うるせぇ……っ!! ここで引いたら、終わりだろうが……!!」
次の瞬間、土の魔法陣が大きく明滅した。
ギータの膝ががくりと折れ、片膝が床へつく。どん、と鈍い音が響いた。
「ギータ!!」
それでも彼の手はまだ床から離れなかった。
片膝をつき、肩で荒く息をしながらも、土の光はまだ三人の周囲に広がっている。だが、その光は明らかに弱まっていた。浄化の膜も薄くなり、黒い瘴気がじわじわと押し返し始める。
ギータは苦しげに顔を上げ、歪む視界の向こうの黒竜王を睨んだ。
「……くそ、化け物が……」
シアは卵を抱いたまま、目の前の光景を見つめることしかできなかった。
まずい。
このままじゃ、防壁がもたない。
黒い瘴気の圧力に、水の魔法の膜が一枚、また一枚と蒸発していく。
それでもリーナは、魔法を支える両手を下ろさなかった。泣きそうな顔で、けれど真っ直ぐに前を見据えている。
「シア……っ、早く……逃げて……!!」
「私だけ逃げられるわけないじゃない!!」
シアは叫ぶと同時に、卵を抱えたまま片手を前へ突き出した。
少し瘴気を吸いこんだ胸の奥が焼けるように熱い。けれど迷っている暇はない。リーナの防壁はうすれ、ギータの浄化陣も今にも押し潰されそうだった。
「火よ、清めろ、祓え、焼き尽くせ……!」
シアは覚えたばかりの浄化魔法を、必死に詠唱する。
足元に魔法陣が浮かぶ。けれどそれは、最後まで綺麗な円にならなかった。
卵にも魔力を注ぎ続けているせいで、力がひとつにまとまらない。
卵へ送る魔力を止めれば、この子の鼓動が遠のいてしまう気がした。けれど、止めなければ術は完成しない。
揺れる。
ぶれる。
乱れる。
赤い魔法陣は、形を成しかけては崩れ、崩れてはまた繋がろうと不安定に明滅した。
「だめ……っ、お願いっ、まとまって……!!」
シアの声は悲鳴になった。
それでも、術は完成しない。
次の瞬間、黒竜王が再び咆哮を上げた。
ごおおおおおおん――!!
地の底まで揺さぶるような轟きと共に、巨大な翼が広げられた。
羽ばたきで暴風が吹き荒れ、三人の身体は、あおられてまとめて廊下の奥へ叩き飛ばされた。
「きゃあっ!!」
「ぐあっ!!」
リーナの身体が床を滑り、ギータは瓦礫に肩を強く打ちつける。
土の浄化陣が、ばちんと音を立てて弾け飛び、水の防壁も霧散した。青い光と土色の光が一瞬宙に舞い、そのまま夜の闇へ飲まれていった。
「リーナ!! ギータ!!」
「シ……ア」
「くっ……そ……」
シアは必死に叫んだ。
リーナとギータはしたたかに体を打ちつけられて、倒れたまま起き上がれない。
遠くの竜舎の方から、リーナとギータの竜たちの悲痛な叫びが重なる。
リーナの水竜の細い鳴き声。
ギータの竜の荒々しい咆哮。
主を呼ぶように、何度も、何度も。
シアの脳裏に、あの幼い日の光景が浮かんだ。
黒竜王の瘴気に枯れていく畑。
色を失った森や草原の草木。
濁っていった水。
苦しそうに胸を押さえ、咳き込んでいた街の人たち。
そして、竜にまたがって飛び立っていったまま、二度と帰らなかった父の背中。
まただ。
また、何もできない。
また、誰かが自分の前で傷ついていく。
また、自分は、守られるばかりで、見ているだけなのか。
「いや……」
シアは卵を抱きしめたまま、震える声をもらした。
黒い瘴気がにじり寄る。
「やだ……こんなの……」
応援してくれたリーナやギータ、仲間や教官たち。
自分は彼らに何も返すことができないのか。
喉の奥が詰まり、視界が滲む。
悔しくて、苦しくて、どうしようもなく情けなかった。
「わたしは……」
ぽろり、と涙が頬を伝う。
「わたしは……なんて無力なんだろう……」
こぼれた涙が、腕の中の卵に落ちた、その時。
ぱきり。
かすかな、音がした。
━ 続 ━




