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第98話 【崩れた音と、冷たい画面】

2014年、夏。


あの日、十五時の喫茶店で五回目のキャンセルをされてから、凪のスマホに届く英理からの言葉は、少しずつ変わっていった。


以前なら、


『バリ寂しい』

『早く会いたい』


そんな長崎弁の混じったLINEが、当たり前のように届いていた。


けれど、最近は違う。


『今日も現場大変そうやな、無理すんなよ』


凪がそう送っても、既読がつくのは数時間後。

返ってくるのは、


『了解です』

『お疲れ様』


短い言葉だけ。


(……返信、これだけか)


凪は夜勤明けの消防署のベンチで、スマホの画面を見つめていた。


彼女が映画『君の手に』という大きな作品をやり切るために、全神経を役に注いでいるのは分かっている。


だから、会えないことも、連絡が減ることも、できるだけ気にしないようにしていた。


「仕事が忙しいんや。仕方ないやろ」


凪は何度も、そう自分に言い聞かせた。



一方、英理の世界は、さらに大きくなっていた。

主演映画の撮影、テレビ番組、CM、雑誌の表紙。

仕事を終えたあとも、共演者やスタッフたちとの食事会に呼ばれることが増えていた。

以前の英理なら、


『今日も疲れたー! 凪くんの顔見たいけん、ちょっとだけ電話していい?』


そんなLINEを送ってきた。

けれど最近は、


『今日、共演者の棟方さんたちとご飯行ってくるね』 『今から次の打ち合わせ』 『明日も朝早いけん、今日はもう寝るね』

そんな連絡が増えていった。


東京で過ごす時間が増えるほど、テレビの中でしか知らなかった華やかな世界が、少しずつ英理の日常になっていった。


「英理、次の作品、海外ロケもあるんだって?」


「そうなんです。大変そうですけど、今からどんな現場になるのか、楽しみです」


「そうか。海外か。英理もますます忙しくなるな」


「はい。頑張ります」


棟方はふと思い出したように笑った。


「でも、英理がこんなに忙しくなったら、あの人も寂しがるんじゃないか?」


「……あの人?」


「ほら。前にちらっと話してただろ。長崎にいる、大事な人」


英理は一瞬だけ黙った。


「……覚えてたんですか?」


「そりゃ覚えてるよ。英理が珍しく、嬉しそうに話してたからな」


「もう……」


その時、英理のスマホがテーブルの上で震えた。


画面に表示されたのは、凪からのLINE。

英理は一瞬だけ画面に目を向けた。

けれど、通知を確認しただけで、スマホを伏せる。


「まあ、海外まで行くんだ。向こうで変な男に捕まって、あの人に怒られないようにな」


「もう、棟方さん何言ってるんですか」


英理は笑いながら、再び目の前の会話に戻った。



その日からも、凪から届くLINEは変わらなかった。


『ちゃんと飯食べたか?』

『今日も撮影頑張ってな』

『無理しすぎんようにな』


(……凪くんは、ほんと変わらんね)

(凪くんなら、いつでも分かってくれるよね)


一方で凪は、英理の世界が変わっていくことを感じながらも、口には出さなかった。


(英理は今、仕事が一番大事なんや。俺が余計なこと言ったらあかん)


英理は、そんな凪の気持ちに気づいていなかった。

二人とも、相手を信じていた。

ただ、その信じ方は、少しずつ違うものになっていた。



ある夜。

凪は、久しぶりに英理へメッセージを送った。

『今夜、少しだけでも声聞けるか?』


返信が来たのは、次の日だった。


『ごめん、今日も遅くなるから無理。おやすみ』


たった一行。


凪は仕事を終えてアパートへ帰る途中、スマホの画面を見つめていた。

そして、あの壁一面に貼ってある「英理だらけ」の部屋に帰るのが、初めて怖くなった。


壁の中の英理はいつも笑っている。

それなのに、スマホの中の英理は遠かった。


(お前、もう俺のこと、見えとらんのか)

(……俺は、ずっとお前のこと見とるのにな)


凪はスマホを握ったまま、しばらく立ち尽くしていた。


……その後も、二人は会えない日々を過ごした。



2015年。

そのニュースは、一気に世間を騒がせた。


「国民的女優・神之浦英理、共演中の実力派俳優・棟方むねかた ようと真夜中の密会」


週刊誌の表紙を飾ったのは、都心のマンションへ向かう二人の姿。


「国民的女優・神之浦英理、共演中の実力派俳優・棟方むねかた ようと真夜中の密会」


週刊誌の表紙を飾ったのは、都心のマンションへ向かう二人の姿。


世間では「神之浦英理と棟方燿、交際か」と大きく騒がれ、ワイドショーは連日、二人の親密な様子を報じていた。


凪はその頃、消防署の食堂で、テレビから流れるそのニュースを、しばらく言葉もなく見つめていた。


数ヶ月前から続いていた、英理からのそっけないLINE。


積み上げてきた二人の歳月まで、遠くなっていくようだった。


凪は、震える手でスマホを取り出し、一度だけメッセージを送った。


『ニュース見た。……棟方さんって人と、ほんまなんか?』


既読がついたのは、数時間後。


返ってきたのは、たった一言。


『ごめん、今忙しいから。後にして。』


謝罪の言葉はあっても、そこには以前の英理にはなかった冷たさがあった。


その瞬間、凪の中で何かが音を立てて崩れた。

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