第97話 【同じ街、届かない距離】
2013年、冬。日本中の視線が、帝都ホールの舞台中央に立つ一人の女性に注がれていた。
初めて担当する年末超大型歌謡番組『全日本歌の祭典』の紅組司会。
真っ赤なドレスを纏い、眩いスポットライトを浴びて立つ彼女。
同じ時刻。アパート。
凪は、テレビの画面越しに、かつてない緊張の面持ちで彼女を見守っていた。
画面の中の英理は、時折言葉を詰まらせ、不器用なほど素直に涙を流していた。
世間はそれを「天然」や「ハプニング」と微笑ましく呼んでいたが、凪だけは知っていた。
彼女が流す涙は、かつて東京の片隅で共に流した、あの悔し涙と同じ「本気の証」であることを。
番組のフィナーレ。銀テープが舞い、一億人が彼女の笑顔に釘付けになる中、英理はカメラのレンズの奥、凪を見つめるように一礼をする。
(…凪くん、見とった? うち、最後まで走り抜けたよ)
その夜、深夜二時。
仕事を終え、静まり返ったマンションで英理がスマホを開くと、凪からのLINEが届いていた。
『お疲れ様。今、テレビ消したところ。
今年も、世界一綺麗だったよ。俺の誇りです』
通知画面に浮かぶその文字を見た瞬間、英理の目から、ようやく大役を終えた安堵の涙が溢れ出した。
♢
ある日の午後十五時。
凪は都心の片隅にある、小さな喫茶店の奥の席に座っていた。
以前、二人で束の間の安らぎを得た、あの琥珀色の空気が流れる店。
(十五時半。もう、無理か)
凪は、窓から差し込む西日を避けながら、一口も飲んでいない冷めかけたコーヒーを見つめている。
今日は撮影の空き時間に、ほんの一時間だけ会う約束をしていたが。
けれど、約束の時間を三十分過ぎても、カランカランという入店の音は鳴らなかった。
スマホにLINEの通知が入る。
『凪くん、本当にごめん。…急にシーンの撮り直しが入って、どうしても抜けられんくなった。
これで、五回目だね。バリ、ごめん…』
凪は一呼吸置き、スマホの画面に
「分かった。無理すんな。仕事優先や」
とだけ打ち込む。
これで五回連続のキャンセル。
国民的スターとしての責任が大きくなるにつれ、英理の時間は、彼女自身の意志ではどうにもならないほど、巨大な組織の歯車に支配されて行った。
東京という同じ街に住んでいながら、二人の心は、どこか遠く感じられた。
凪は一人きりの喫茶店を出て、強い日差しが照りつけるアスファルトを歩き出した。
街角の大型ビジョンには、主演映画『君の手に』の彼女が映し出されていた。




