第95話 【愛おしい苦味】
2011年、春。和也が大学を卒業し、地元・長崎へ帰る日の朝。
世田谷のマンションの玄関で、彼は妹に静かに釘を刺す。
「英理、今日から一人ばい。少しはまともな料理も作れるようになれよ。」
「わかっとるよ。うちだって、やればできるもん」
英理が口を尖らせて言い返すと、和也は「本当かよ」と可笑しそうに笑いながら、妹を残して地元・長崎へと帰っていった。
その日の夜。
一人暮らし初日、英理は和也の言葉を証明しようと、意気揚々とキッチンに立っていた。
凪に連絡し、「今日はうちが夕飯作るから、楽しみにしててね」と伝えて待つこと一時間。
「ピンポーン」とインターホンが鳴り、少し期待と不安が混ざった面持ちで凪がやってきた。
「お疲れ様。和也がいなくなって、寂しくて泣いとるかと思ったけど…。お、いい匂い…か?」
凪は鼻をひくつかせ、リビングに漂う「何かを焦がしたような、形容しがたい匂い」に一瞬だけ表情を強張らせる。
「凪くん、いらっしゃい! ほら、座って。初めて肉じゃが作ったんよ」
英理が自信満々に差し出したのは、煮込みすぎて形を失い、醤油の黒さが際立った「何か」。
「…お、おう。いただきます」
凪は箸を割り、意を決したように一口口へと運ぶ…直後、彼の動きがピタリと止まった。
「…どう? 美味しい?」
凪の口の中には、芯の残ったジャガイモと、強烈な塩辛さと苦味が同居した衝撃的な味が広がる。
喉を詰まらせながらも、なんとかゴクリと飲み込んだ。
「…あの、標準語で言うなら、『すごく、パンチの効いた味だね』」
「…え、それどういう意味? ちゃんと美味しいって言ってよ」
「…いや、正直に言うとこれ、バリ不味いわ。和也が食べたらひっくり返るで」
凪が思わず本音を漏らすと、英理の顔がサッと真っ赤になり、瞳に怒りと悔しさの色が浮かべた。
「…不味いって何よ! せっかくお兄ちゃんに言われて、一生懸命作ったのに! 凪くんのために、火傷までしそうになりながら頑張ったんよ!?」
「いや、一生懸命なのはわかるけど、肉じゃがに豆板醤とお味噌ドバドバ入れるのは、流石にやりすぎやろ…」
「隠し味って言ったじゃん! もういい、凪くんには二度と作ってあげん!」
英理はぷいっと横を向き、箸を置いてしまった。
凪は慌てて、涙目になりながらも再びその肉じゃがを口に運びながら。
「ごめん、言い過ぎた。…でもな、英理。不味いのは確かやけど、お前が俺のために作ろうとしてくれた気持ちは、ちゃんと伝わっとるよ。ほら、これ、全部食べるから。怒らんといて」
「…全部なんて無理しなくていいよ。お腹壊したら困るし」
「壊さへんよ。俺の胃袋は救助訓練で鍛えとるからな。でも次は、目玉焼きから練習しような?」
「…当たり前でしょ。次は絶対、完食させるんだから」
和也がいなくなり、本当の意味で二人きりになった東京の夜。
失敗した肉じゃがの苦味すらも、二人の深い絆を確かめ合うための、愛おしい思い出の1ページとなった。




