第93話 【ガチギレの長崎弁と、大人の威圧】
一方、個室ではサークルの仲間が通路から戻ってきて、ニヤニヤしながら報告してきた。
「お前ら、加藤のことは放っておいていいわ。あいつ、通路の奥のカウンター席で、とんでもないレベルの美人にピッタリ寄り添ってナンパ中だよ。ナオちゃんに相手にされなかったからって速攻で営業かけてるわ」
その声を聞きながら、ナオは「加藤が自分を完全に諦めて別の女性に引っかかった」と察し、胸を撫でおろす。
「ふぅ…! 凪くん、加藤のやつ、うちのことを完全に諦めてくれたみたいやわ。今日の作戦は大・成・功やね! ほんまに協力してくれてありがとう!」
ナオが満面の笑みを向けると、凪は不思議そうに首を傾ける。
「…? 大成功って、何がや? 。それよりさ、英理、遅いなぁ。さっきメール来てから結構経つやろ? こんな夜遅くに女の子一人で新宿歩かせるの、普通に物騒やし。なんやトラブルにでも巻き込まれてへんか、俺めちゃくちゃ心配なんよ」
その時。凪の隣で、ナオのスマホに「ピコン」と鋭い通知音が響く。
【英理からのメール】
【件名:助けて!!!】
「ナオ、うち、もう今みんなと同じ店におるんよ。
でも個室に行く手前のカウンター席で、なんか変な男に言い寄られてバリ困っとる、助けて…」
「えっ…!?」
店の中に、もう英理がいる。
そして「変な男」に絡まれている。
(ちょっと待って、その『変な男』って、まさか…加藤!!?)
ナオが凍りついていると、さらに英理からの追撃メール。
【件名:Re: 助けて!!!】
「ナオ、今うち、マジでブチ切れそうや。手の震えが止まらん。あの男、絶対に許さんけん」
「ひっ…!!」
メッセージを見て、ナオは短い悲鳴を上げた。
あ英理が、メール越しでも分かるほど激怒し。怒りが沸点に達している。
「ナ、ナオ? どしたん、そんな顔して」
のん気に声をかけてくる凪に、ナオはスマホの画面を突きつけた。
「凪くん、これ見て!! 自分の目で早く見て!!」
「ん? 何や『助けて!!!』『店におる』『変な男に言い寄られてる』…って、これ英理のメールじゃん!! え、ちょっと待て、しかも『ブチ切れそう』って…! 英理、どこにおるん!? 変な男って誰や!!」
画面を凝視していた凪の目が、一瞬で険しく変わる。
最愛の恋人がすぐ近くで何者かに絡まれ、恐怖と怒りに震えている。
英理の危機を察知した瞬間「男としての、そして消防士としてのスイッチ」が、凄まじい勢いで入った。
♢
その頃、薄暗いカウンター席の奥では、加藤が完全に調子に乗っていた。
「ねえ、お姉さんってば。俺とお姉さんなら、もっとお洒落で最高な夜を過ごせると思わない? ほら、ちょっと場所変えようよ」
そう言って加藤は、ニヤニヤと下品な笑みを浮かべながら、英理の華奢な肩に手を回そうと、じわりと右手を伸ばしてきた。
その手の先が、英理の服に触れるか触れないかというその瞬間。
英理は加藤の手をすっと最小限の動きでかわす。
そして、ゆっくりとハットのツバを少しだけ持ち上げ、メガネの奥にある冷酷なまでに美しい瞳で、加藤の目を真っ直ぐに射抜く。
そこから溢れ出たのは低く、ドスの利いた、感情の削ぎ落されたガチの長崎弁。
「…気安く触らんで」
「え…?」
加藤は、目の前の女性から突如として放たれたゾッとするほどの威圧感。
「うちの待ち合わせしとる人な…」
英理は視線を加藤から外さず、けれど顎で静かに、加藤がさっきまでいた個室を指さし。
「あそこの部屋で、今まさに、コンパしとる人達の中に、おるんよ」
「…は? あそこの部屋って俺の、サークルの…?」
加藤の顔から、みるみるうちに余裕の笑みが消える。
なぜ、この都会的な超美人の口から、さっき自分が散々バカにしていたはずの「長崎弁」が。脳の処理が追いつかない。
英理は加藤にじわじわとトドメを刺すように言葉を続け。
「そう。その人のコンパが、もうすぐ終了するけんね。うち、それが終わるのをここで大人しく待っとるんよ。コンパが終わった後に、その人と一緒に、遅めの食事をする予定やけん」
「…っ」
加藤の背中に、冷たい汗がタラリと流れ落ちる。
この身の毛もよだつような美しい長崎弁。
加藤の脳裏に、さっき自分が口にした悪口がリフレインする。
『なんか二人で盛り上がって、昔の親友の英理がどうのこうのって話してんの』
『どうせそいつも、芋同士のパッとしない田舎ブサイクに決まってるんだけどね!』
(待て、まさか、嘘だろ? この女、まさか…あいつらが言ってた…!?)
♢
「凪くん、早くッ!!」
ナオに促されるよりも早く、凪は個室の引き戸を勢いよく開け放ち、通路へと飛び出した。
今の凪の目は、災害現場に臨むプロの消防士そのものの鋭さと冷徹さが帯びる。
大好きな恋人が危機に瀕しているその事実だけで、彼の身体中の全神経が研ぎ澄まされていた。
「どこや、英理は…!」
必死で周囲を見回すまでもなかった。
通路のすぐ先にある、薄暗いカウンター席の奥。
「凪くん、あそこ! あそこに英理がおるわ!」
凪は小さく「おう」とだけ応えると、足音を完全に殺し、ゆっくりと、しかし確実に間合いを詰め始める。
全身の筋肉をいつでも爆発させられるよう引き締め、万が一、その隣にいる男が英理に少しでも危害を加えようとした瞬間、一撃で制圧できる体勢のまま、ジリジリと近づく。
♢
加藤は英理の放った「冷徹な長崎弁の警告」から、必死に現実逃避しようとしていた。
(いや、あり得ない。あいつらの言ってた『田舎ブサイクの英理』が、こんな次元の違う美人のわけがない。断るための嘘に決まってる…!)
「え、あ、あそこの部屋に知り合い? はは、何それ、お姉さんさ、俺を断る口実が下手くそすぎるよ。ほら、そんな固いこと言わずにさ…」
そう言って加藤は、英理のハットの下の綺麗な髪、そしてその華奢な背中を「おいおい」と軽くからかうように叩こうと、右手を伸ばした。
加藤の指先が、英理の服に触れるその、まさに一瞬手前。
ガシィィィッ!!!
「あぐっ…!?!?」
乾いた、凄まじい音。
加藤の右腕が、圧倒的な力で、空中で完全に止められた。
手首を鷲掴みにされた加藤の口から、情けない悲鳴が漏れる。
「…痛っ! え、あ、何だお前っ!?」
加藤が痛みに顔を歪めながら振り向くと、そこには、自分の手首を強靭な握力でへし折らんばかりに掴んでいる男の姿が。
東都農大の学生(のフリをした凪)。
凪のすぐ後ろには、加藤をギロリと睨みつけるナオの姿。
「お前なんでここに…っ、手を離せよ!」
加藤が必死に腕を引き抜こうと暴れるが、毎日過酷な救助訓練を重ねている凪の腕力の前では、赤ん坊が抵抗しているのも同然。ビクともしない。
凪は「大人の怒り」を込めた声で、静かに言い放つ。
「その汚い手で、気安く触るんじゃない」
「っ…!!!!」
その一言に含まれた絶対的な威圧感と、逃げ場のない本物の「強者」の気配に、加藤は完全に蛇に睨まれた蛙のように硬直する。
目の前にいるのは、愛する女性を脅かす外敵を、いつでも徹底的に排除する覚悟を持った「一人の大人の男」。
手首を掴まれたまま恐怖でガタガタと震えだす加藤。
凪は加藤の顔を間近でじっと睨みつけ、掴んだ手首の力を一切緩めない。
「あんた、さっきナオの横におった人やな」
「う、ぐっ…!」
「何で、この子(英理)の横に座っとるんや。しかも、何やこの手は。さっきから見てれば、一体何をしようとしとったんや。言うてみぃ」
加藤は手首の激痛に顔を歪めながらも、必死に虚勢を張って声を荒らげ。
「痛えな…離せよ! お前こそ何なんだよ! さっきの部屋でもそうだけど、人の女を横からコソコソかっさらっておいて…! 今度はこっちの綺麗なお姉さんまで横取りする気かよ! 卑怯な真似ばっかしてんじゃねえよ!」
「人の女…?」
その言葉を聞いた瞬間、凪の目がさらに一段、冷たく据わる。
凪の強靭な指先が加藤の手首をさらにグッと捻り上げ、物理的な逃げ場を完全に奪う。
凪は加藤の顔の目と鼻の先まで自分の顔を近づけ、圧倒的な圧力で、詰め寄る。
「人の女って、一体誰のこと言うとるんや? お前の女って、誰のことや」
「あ、がっ…! 放せっ…!」
「地元の話をして楽しんどっただけのナオのことか? それとも、今あんたが無理やり触ろうとしとった、この子(英理)のことか? ああ!?」
凪の胸ぐらを掴むかのような凄まじい気迫に、加藤の背中にはドッと冷や汗が吹き出す。
「誰が誰の女や。どっちのことか、今ここで、はっきり言うてみぃ!!」
「ひ、っ…」
ナオを散々追い詰めておきながら、今度は自分の恋人である英理にまで手を伸ばし、挙句の果てに「人の女」と呼んだ加藤。
凪の圧倒的な気迫に、加藤が恐怖で完全に硬直していたその時。
後ろからそっと、凪の逞しい腕に柔らかい手が添えられた。
「…凪くん、もうやめて」
ハットの奥から聞こえた英理の静かな、一言。
その声を聞いた瞬間、凪の瞳から険しい殺気がスッと消え失せ、掴んでいた加藤の手首から力が抜けた。
大好きな恋人の声は、どんな時でも凪を冷静にさせる絶対的な特効薬。
自由になった手首を自らの胸元に抱え、情けなく息を荒げる加藤。
そんな彼に対して、今度はナオが容赦のない怒りを叩きつける。
「もう、うちらの前から消えて! 顔も見たくない! あんた最低やわ、うちの親友にまでちょっかい出してからに…!!」
ナオの軽蔑に満ちた激しい言葉に、加藤は言い返す言葉もなく、ただただ小さくなって震える。
凪は加藤から視線を外すと、ナオに向き直り、すっかり「頼れる大人の男」の顔でテキパキと指示を出し始めた。
「ナオ。ちょっとこの人、あの部屋(個室)に帰ってもらうから、その間、英理と一緒にここでおってくれんか?」
「え、あ、うん! わかった!」
「ナオの大学の友達らにも、ちゃんと俺から説明してくるわ。『俺とナオは、もうこれで抜ける』ってな。ちょっと待っとって」
凪はそう言うと、加藤の肩をガシッと掴み。
「ほら、行くで。あんたの仲間が待っとる部屋に戻ろうや」
「あ、あぁ…」
♢
カウンター席に残された英理とナオは、遠ざかっていく凪の頼もしい背中をじっと見送り。
「…ナオ、大丈夫やった?」
変装のメガネを少し下げ、英理が心配そうにナオの顔を覗き込む。
「うちのことは大丈夫! それより英理、ほんまにごめんね! うちのせいで凪くにまで迷惑かけて、挙句の果てに英理まで変な目に遭わせてしもうて」
「ううん、ええんよ。それより…」
英理は個室の方を見つめ、少し頬を赤らめながら、微笑み。
「…今日の凪くん、めちゃくちゃ格好よかったね」
「ほんまそれ! うち、一瞬マジのヤクザ映画かと思って心臓止まるかと思ったわ」




