第89話 【呪文の名は「英理」】
英理からの「オシャレ禁止令」を忠実に守り、至って「普通の男」の格好で新宿に降り立った凪。
案内されたお洒落なダイニング居酒屋の重厚な扉を開け、靴を脱いで奥へと進む。
(ナオの相談に乗るって言うても、普通の居酒屋じゃなくて随分とキラキラした店やな。
まぁ、大学生がワイワイやっとる中に混ざればええか)
そんな風に気楽に考えていた凪、店員に案内されたエリアに一歩足を踏み入れた瞬間、その表情が固まった。
圧倒的な熱気と、謎の「大所帯」
そこに広がっていたのは、掘りごたつ風の長いテーブルを囲む、総勢19人の男女の姿。
すでに場は出来上がっているようで、お洒落に着飾った女子大生たちと、いかにもイケイケ風な男子大学生たちが、お酒を片手に大盛り上がりしていた。
凪が呆然と立ち尽くしていると、長いテーブルの中ほどから、救世主を見つけたような必死の形相で手招きをしてくるナオの姿が見えた。
「凪くん! こっちこっち! 席、ここ空いとるけん!」
ナオの右隣には、すでに「俺の女」と言わんばかりの距離感で、いかにも遊び人といった風貌の男―加藤がドッシリと陣取っている。
ナオは加藤からのしつこいアプローチを必死にかわしながら、凪が来るのを今か今かと待ちわびていた。
「お、おう…。な、なになに? この場面…」
凪は完全に圧倒されつつも、手招きされるままにナオの左隣の空いている席に座る。
「あ、東都農大の新しい人? 枠空いてたから助かるわー!」などと声をかけられるが、恋愛に関して絶望的に鈍感な凪は、この状況を完全に誤解している。
(うわぁ何やこれ。ナオの大学のサークルの、めちゃくちゃデカい飲み会か何かに巻き込まれてもうたんか? !)
まさかこれが、ガチの合同コンパだとは、これっぽっちも気づいていない。
それどころか、凪の頭の中には、全く別の凄まじい大焦りが生じていた。
(ちょっと待て。ナオの相談を聞くだけの、普通の静かな食事会やと思ってたから『遅れて合流する』って言った英理のメールを安易に信じてもうたけど…。
こんなに人がおるキラキラした店に、後から国民的女優の英理が来たら、一発で大パニックになってまうやん!!!)
(英理から『着いた』ってメールが来たら、すぐにナオの手を引いて、この大騒ぎの席から離脱しよう。そんで3人で別の静かな店に移動して話を聞けばええんや!)
◇
「カンパーイ!」
「ナオ、最近どうなん? 長崎の親御さんらも元気しとるん? 東京の生活も慣れてきたけど、やっぱりたまには長崎のちゃんぽんとか恋しくなるよな。
俺が代わりに話聞きに来たんやけど、なんでも相談乗るけんね、」
ナオは凪がフランクに地元のトーンで話してくれたことに救われ、「そうなんよー! ありがとね凪くん、ほんま助かるわぁ!」と、これまでの引きつった笑顔から、ようやく自然な笑顔を見せた。
しかし、ナオの右隣にいる加藤が、それを見逃さない。
「ねぇねぇナオちゃん! さっきのサークルの夏合宿の話なんだけどさー、俺が車出すからさ、ナオちゃんも絶対来てよ!」
加藤は負けじと、大きな声でナオの右側から強引に会話に割り込んでくる。
その必死な様子に、凪は少し引き気味になりながら、ナオにだけ聞こえるような小声で耳打ちする。
「…なぁナオ。その隣の、めちゃくちゃグイグイ来る熱い人、大学の友達なんか?」
「あ、いや、それがね」
ナオが困惑した顔で言いかけたその瞬間、加藤がテーブルを少し強めに叩き、凪をまっすぐ睨みつけてきた。
「あのさ、東都農大から来た…凪くだっけ?」
「あ、はい。そうやけん…」
「君がナオさんと地元が一緒で、知り合いなのは分かったよ。
でもさ、悪いけど君は、あっちの違う女の子狙ってくれるかな?」
そう言って加藤は、向かい側に座る別の大学の女子グループを親指で指さす。
「…?」
言われた凪は、加藤の言葉の意味が1ミリも理解できない。
(…え? 違う女の子を狙う…? 狙うって何や? なんで別の女の子に話しかけなあかんのや? この人、さっきから何を一人で熱くなってるんやろ…?)
「この人、ちょっと変わった人やな」と、不思議そうな顔で加藤を見つめ返した。
◇
「ちょっとちょっとー! ナオ、めっちゃモテモテじゃん!」
加藤が凪にバチバチの視線を飛ばしている一触即発(?)の空気を察して、向かい側に座っていた女子大生たちがニヤニヤしながらナオを茶化し始める。
「本当だよ! ナオ争奪戦が始まっちゃった? うらやましすぎるんだけどー!」
「あ、いや、そんなんじゃないけん…!」
ナオを茶化していた女の子の一人が、身を乗り出して凪の肩を指先でツンツンと突ついてきた。
「ねぇねぇ、東都の凪くん。ナオとばっかり話してないで、私とも話そうよー! どんなサークル入ってるの?」
「うおっ…!?」
急に知らない女の子から距離を詰められ、肩をツンツンされた凪は、どう対応していいか分からず、一気に顔が熱くなり。
「え、あ、いやサークルは入ってなくて、その…」
目が泳ぎ、完全にテンパル凪。
それを見た隣のナオは、(あちゃーっ、ヤバい…!!)
「ねーねー、シャイな感じ? 照れてるのめちゃくちゃ可愛いんだけど! サアサア、凪さん酒飲も! はい、カンパーイ!」
「うわっ、あ、お、おうカンパイ…」
流されるままにカシスウーロンのグラスを合わせた凪に、女の子はさらにトドメの一撃を放つ。
上目遣いでじっと凪の目を見つめ、声を甘く潜め。
「私さ、実は凪くんみたいな、ちょっと素朴で一途そうな人…めっちゃタイプかも。もっと私のこと見てよ?」
「え、ちょっと…え、何…!?」
直球すぎる誘惑を前に、凪の脳内処理能力は完全に限界。
手元のグラスを一気に煽り、ゴクゴクとお酒を飲むことでその場の空気を誤魔化した。
凪が向かいの女の子に完全にロックオンされ、お酒で溺れかかっている様子を見て、加藤の目がギラリと輝く。
(よし、あの東都の芋くさい奴はあっちの女に引っかかったな。今がチャンスだ!)
加藤はここぞとばかりに、座布団ごとナオのさらに近くへとジリジリ寄り添い、ナオを独占する体制に入る。
「ほら、ナオちゃん。あいつはあっちで別の女子と楽しそうだしさ。やっぱり東京のノリにはついていけないタイプなんじゃない? それより、俺たちだけでゆっくり話そうよ」
「え、あ、でも…!」
必死で左隣の凪に助けを求めようと視線を送るが、当の凪は、向かいの女の子から「すごーい! もう一杯いっちゃう?」と次々にお酒を注がれ、それを処理するだけで手一杯になっている。
(凪くーーーん!! 違うの、そっちに引っかからないで!! 早く私を助けてぇぇぇ!!)
完全に加藤にマークされ、逃げ場をなくしたナオ。
お酒で誤魔化し続ける凪。
そして、この大騒ぎの会場に「遅れて行くから」と告げた英理の存在――。
◇
(ヤバいヤバいヤバい!! 私の心配をしとる場合じゃないわ! あの鈍感男を今すぐ何とかせんと、本当に取り返しのつかんことになる…!!)
ナオの頭の中は、もはや加藤のしつこいアプローチのことなど完全に吹き飛んでいた。
後から来る英理に見られたら大修羅場。
意識のすべてが凪の防衛に向かったその瞬間、加藤がさらにニヤニヤしながらナオの肩に手を回そうとしてきた。
「ねえってば、ナオちゃん。あいつのことは放っておいてさ、俺と――」
「あんたうるさいけん、ちょっと黙っといて!!」
「えっ…!?」
ナオの口から飛び出したのは、これまでコンパで見せていた愛想笑いとは180度違う、ドスの利いたマジの長崎弁(本性)。
唖然とする加藤を、勢いよく右側に押し退ける。
すぐさま凪の耳の真横に顔を急接近させ、声を極限まで潜めて詰め寄った。
「ちょっと、凪くん…!! あんた、今日ここに来る時、英理になんて言われてきたん!?」
「うおっ!?」
急にナオから耳元で英理の名前…、凪はビクッと体を震わせ。ハッと正気に戻った。
凪は向かいの女の子に向き直ると、真剣な眼差しで言い切った。
「ごめんね、今はナオと大事な相談があるんよ。ちょっと席を外させてもらうわ」
「えぇ…! なにそれ、やっぱりナオちゃんがいいの?」
女の子は少しすねたような表情で頬を膨らませ、
「…ちぇっ、つまんないの」
と背を向けて会話の輪へと戻っていった。




